呪われたスパルタ人 22
「何だ?」
ホメロスはぐうっと眉をよせ、伸びあがってよく様子を見ようとした。
ホメロスひとりではなく、観客たちもその変化に気づき、大きなどよめきが起こった。
ここまでずっと、プサウミスの戦車に乗り上げんばかりに追いすがっていたアレウスの戦車が、六度目にタラクシッポスの前を通過しようとしたとたん、急に突進の速度を失い、あっという間に数馬身の差をつけられてしまったのだ。
今までまるで一頭の馬のように息を合わせて疾駆していた馬たちは、だれの目にもあきらかに足取りを乱し、急に戦意を失ってしまったようだった。
しかも、その変化はアレウスの戦車をひく馬たちにだけでなく、そのすぐ後につけていた他の数台の戦車の馬たちにも起きていた。
ひどいものになると、それまでの進路を大きくそれたり、はては馬たちがいっせいに後脚で立ち上がったりして、御者が戦車の後ろへ転げ落とされてしまったところもあった。
歓声と罵声とが入り乱れ、観客席はまるで沸騰した鍋のようになった。
馬丁頭が狂気のように拳を振りまわし、いまにも馬場に突入していきそうな剣幕でアレウスと馬たちとを激励している姿がホメロスの目にうつった。
御者台に踏みとどまったアレウスは必死に馬たちに声をかけ、手綱と鞭とで叱咤して、辛うじて落ち着きを取り戻させることに成功したようだった。
アレウスの馬たちが気を取り直し、再び力強い走りを取り戻したときには、単独首位にたったプサウミスの戦車は、およそ四分の一周ぶんもの大差をつけて先を走っていた。
「何が起きた?」
ホメロスは自分がひとりごとを口にしていることを意識さえせずにつぶやきながら、円形祭壇の周囲を凝視した。
事ここに及んでも、タラクシッポスに宿った馬乗りの霊が祟りをなしている、などという風説を、ホメロスは毛の先ほどにも信じてはいなかった。
そんなありさまでは、仮にも十九世紀という時代を生きてきた者として恥ずかしいというものだ。
ある現象が生じたならば、そこにはかならず科学的な理由がある。
つい今しがた、あの場所で、馬たちの戦意を喪失させるような何かが起きたのだ。
それはいったい何か?
先をゆく敵の背に必死の力走で追いすがるアレウスの戦車の、その車輪の回転にも負けぬほどのすさまじい高速で、ホメロスの思考は回転した。
競馬場の地面そのものに何らかの罠が仕掛けられていたという可能性は、きわめて低い。
もしもそうであるとすれば、これまでの五周のあいだに何も起きなかったことの説明がつかないからだ。
石や矢などのものによる攻撃であった可能性も、観客席からの距離を考慮すれば、まず除外してよかろう。
ものによらず馬たちを怯えさせるといえば、急な閃光や聞き慣れない音だが、ホメロスがじゅうぶんに注意していたにもかかわらず、この騒ぎの直前には、そんなものは見えも聴こえもしなかった。
それでは――
ホメロスが考え込んでいるとき、観客席から、うおおっと大きなどよめきが起こった。
「よし、そうだ、うまい! いいぞ!」
ホメロスも思わず拳をにぎって叫んだ。
先ほどタラクシッポスの前で起こった馬たちの混乱によって、三台もの戦車が横転していた。
いそいで駆け寄った人足たちが、馬たちや大破した戦車をどかそうとしていたが、興奮した馬たちを落ち着かせるのに手間取り、事故のあとの撤去が完全にすむよりも前に、コースを周回したプサウミスの戦車が戻ってきたのである。
プサウミスの御者は口汚く――声は聞こえないが、様子でじゅうぶんに想像はついた――ののしりながら速度を落とし、外側に大きく迂回して、あわてふためく人足たちと戦車の残骸とをさけた。
そのすきに、飛ぶ矢のごとき走りで内周をぐんぐんと追い上げてきたアレウスの戦車が、あやうく人足たちを跳ね飛ばしそうになりながら、標柱に激突する寸前のところを急旋回し、プサウミオスの戦車を強引に抜き去ったのである。
ゼウス神がもたらす雷鳴もかくやという喝采が、悲鳴や罵声とまじりあって競馬場を揺らした。
興奮の渦にのまれた群衆のなかで、ホメロスはただひとり口を一直線にひき結び、目をかっと光らせて、ある一点を凝視していた。
彼がずっと見つめているのは、アレウスの戦車ではない。
タラクシッポスだ。
正確には、タラクシッポスをふくむ周辺一帯の、観客席のようすだ。
先ほどの事故は、プサウミスからの妨害によるものに違いないという確信が、ホメロスにはあった。
なぜならば、あの騒ぎのなかで、プサウミスの戦車だけが――その馬たちだけが、何の混乱も起こすことなく走り続けていたからだ。
プサウミスの手の者が、タラクシッポスの周辺にいて、何かをしかけたに違いない。
先ほどは見逃したが、次こそは。
そう、次だ。
アレウスが首位にたち、プサウミスの戦車が追う状況となった今、敵はかならずや今一度、何かをしかけてくるはずだ――
事故をおこした戦車の撤去作業を大急ぎで終えた人足たちが、走路から転がるようにどいて道をあける。
八周目、二台の戦車は激しく競り合いながら、タラクシッポスの前にさしかかった。
そのときだ。
またもや、アレウスの戦車の速度ががくんと落ちた。
今だ!
ホメロスは闇夜のフクロウのように目を見開き、無数の群衆に埋め尽くされた観客席の光景から、ほんのわずかな異変を見つけだそうとした。
プサウミスの戦車が、完全にアレウスの戦車を抜いて前に出る。
タラクシッポスのすぐそばで、馬丁頭が何やらわめきながら、今にも馬場に飛び出していきそうにしている。
それを、若い馬丁のひとりが組みついて、必死に制止している。
もうひとりの、もっと若いほうの馬丁は、両手で耳をふさいでいた。
「そうか!」
それを見た瞬間、集中しきった探偵の精神に稲妻のごとく光がさし、真実が照らし出された。
「わかったぞ! 急げ、まだ間に合う!」
ホメロスは叫びながら、周囲に立っていた見物人たちを跳ね飛ばす勢いで、いや何人かは実際に跳ね飛ばしながら、競馬場の北側の丘をふもとへと駆け下っていった。
競走は、すでに九周目に入ろうとしている。
ホメロスはタラクシッポスがある競馬場の南側へ戻ってくると、そのまま観客席の人ごみのなかへ突入して、
「笛を吹いた男を捕まえろ! 笛を吹いた男を捕まえろ!」
と叫んだ。
おどろいて振り向く周囲の男たちを、ホメロスは誰彼かまわずつかまえて、
「いかさまだ! さっきのは、いかさまだ! 笛を吹いた男を捕まえろ! さあ、君もいっしょに叫んで、みんなに知らせるのだ! 笛を吹いた男を捕まえろ!」
「はあ?」
「何だ? いかさまだって?」
「いかさまだ! 笛を吹いた男を捕まえろ! かならず、このあたりにいる! 笛を吹いた男を捕まえろ!」
「おい、どうした、何だ?」
「いかさまだって?」
「そいつは、このあたりにいる! みんな叫んでくれ! 笛を吹いた男を捕まえろ!」
「笛を吹いた男?」
「いかさまだってよ!」
「まさか、さっきのがか!? おかしいと思ったんだ!」
「笛を吹いた男を捕まえろってよ!」
「笛を吹いた男を捕まえろ! 笛を吹いた男を捕まえろ!」
「うるせえな! 何だって?」
「笛を吹いた男?」
「笛を吹いた男を捕まえろ! いかさまだ! 審判団に突き出せ!」
「笛を吹いた男だ!」
「笛を持ってるやつはいないか?」
「笛を吹いた男を捕まえろ!」
「いかさまだ! 鞭打ちだ! 罰金だ!」
「笛を吹いた男を捕まえろ!」
「笛を持ってるやつはいないか、調べろ!」
戦車どうしの激闘による興奮と、不可解な馬たちの混乱による動揺にのって、その言葉は人々のあいだを波のように伝わり、まもなく、タラクシッポス周辺に奇妙な大合唱が広がった。
「いかさまだ! 笛を吹いた男を捕まえろ! いかさまだ! 笛を吹いた男を捕まえろ!」
その頃にはホメロスは人ごみをかきわけて混雑を抜け出し、観客席から少し下がった場所で、獲物を待ち構えていた。
ホメロスの感覚で一分も経たないうちに、はたして、ひとりの男がこわばった表情で、こそこそと人ごみから抜け出してきた。
レースは今まさに大詰め、もっとも盛り上がるところで馬場に背を向けて出てくるというのは、あまりにも不自然だ。
それは、つまり――
「獲物のお出ましだ!」
ホメロスは獅子のようにその男に躍りかかって引き倒し、呆然としている相手に馬乗りになって、語気鋭く告げた。
「きみが人に雇われて今の行為を行ったことは分かっているのだ。その手に握っているものを渡したまえ! 受け取った報酬もだ。素直に応じれば、この場で放免してやってもいいが、そうしないなら、きわめて厄介なことになるだろう!」
あまりに突然のなりゆきに逆らうことも思いつかなかったのか、男は魔術にでもかけられたように、固く握っていた拳をひらいた。
そこに握られていたものをむしりとり、ホメロスは男の衣を手早くまさぐると、最後に、黙ったままでいる男の頬を軽く叩いた。
男は観念したように口をあけ、頬の内側に隠していた銀貨を吐き出した。
「これは、なるほど、そうか。……よし、もう行っていい」
ホメロスが体の上からどいてもなお、男はしばらくのあいだ呆然としていたが、
「行きたまえ!」
とホメロスがどなると、急に目を覚ました人のように飛び起きて、走り去っていった。
手に入れた証拠品を握りしめ、ホメロスは伸びあがって競馬場のほうを見た。
人々の背中と後頭部とが連なるばかりで、何も見えなかったが、
「笛を吹いた男を捕まえろ!」
の合唱はまだ続いている。
笛を吹いた男がひとりではないことはほぼ確実だったが、その全員を捕らえる必要などなかった。
他の「笛吹き男」たちも、さすがにこの状況で妨害工作をしかける勇気はあるまい。
おかしな動きを見せればたちまち周囲の注目を集め、興奮しきった観客たちに袋叩きにされることは間違いないからだ。
「アレウス君、がんばってくれたまえ!」
敵の妨害工作は封じた。
あとは、馬たちの脚力と、アレウスの御者としての技量にすべてが委ねられたのだ。
「行け、行け、がんばれ、アレウス君! 行け、行け、行け!」
姿の見えないスパルタ人の友に、ホメロスは渾身の声援を送った。
やがて、高らかにラッパの音が鳴りひびき、それをかき消すほどの人々の歓声が爆発した。




