呪われたスパルタ人 21
戦車をあやつり、観客たちの前を堂々と通過してゆく御者たちは、いずれも白くゆったりとした衣を着て、布地が風をはらんでふくらまないよう、両肩にたすきをかけている。
審判団が陣取る席の前を戦車が通りすぎるたびに、ラッパが高らかに吹き鳴らされ、触れ役が大声で馬主の名と、その父親の名を呼ばわる。
それに応じるように、観客席からはくりかえし歓声がわきおこった。
イギリス王室主催競馬を思わせる熱狂ぶりだが、大きく異なる点もある。オリュンピアの競馬場のコースは、左回りだ。
不意に、ひときわ大きな歓声と拍手がわきおこった。
前年の優勝者であるプサウミスの戦車が入場してきたのだ。
「えい、いまいましいやつめ、こんちくしょう! タラクシッポスのお怒りで、戦車ごと真っ二つになっちまえ!」
ホメロスのとなりから拳をふりあげ、馬丁頭がわめいたが、プサウミスの御者は一瞥もくれずに戦車をあやつり、通りすぎていった。
「へっ、涼しい顔をしていやがる。馬どもの調子もよさそうだ。こいつは油断がならねえ」
遠ざかってゆく御者の後ろ姿をにらみながら、馬丁頭はぶつぶつ言った。
「タラクシッポスとは?」
そうたずねたホメロスに、馬丁頭は目を丸くした。
「なんだい、あんた、何でも知っているくせに、だれでも知っていることを知らねえんだな。あれだよ」
そう言って指をさしたのは、戦車が入場してきた通路に面して建つ、大きな円筒形の建造物だった。
「祭壇かね?」
「ああ、古い時代の馬乗りの霊がまつられてる。だが、坊ちゃんは昨日、きちんと参拝をすませてらっしゃったから大丈夫だ」
「それは、きちんと参拝しておかないと、大丈夫ではない場合があるということだね?」
「ああ。馬乗りの霊が悪さをして、馬たちがこの前を通るとき、ひどく怯えることがあるんだ。そのせいで事故に遭った戦車も多いんだぜ」
「なるほど」
「おい、おい、どこへ行くんだ?」
不意にその場を離れようとしたホメロスに、馬丁頭はあわてて叫んだ。
「ここにいなきゃだめだ。もうすぐ出走だぜ!」
「わかっているとも。僕は、あちら側の丘から観戦することにするよ」
ホメロスは競馬場をはさんだ向かい側を指さした。
そちら側は小高い丘になっており、斜面が天然の立見席となって、大勢の見物人が競走の開始をいまかいまかと待っている。
「そうか」
馬丁頭は、はっとした顔で手を打った。
「あんた、タラクシッポスにおかしなことがねえか、あっち側の丘から見守っててくれるってわけかい?」
「見事な推理だね。そのとおりだ」
「そりゃ、ありがてえ! 坊ちゃんもさぞかし心強いこったろう。よろしく頼むぜ、魔術師先生!」
馬丁頭の声を背に、ホメロスは押したり引いたりしながら、苦労して見物人たちのあいだをすり抜けていった。
四年に一度のオリンピアの戦車競走を、その出走の瞬間から見逃すまいと、みな前に前に詰めかけてくるから、混雑の具合がひととおりではない。
ホメロスが人ごみのなかで悪戦苦闘しているあいだに、ぜんぶで十台の戦車はみな、それぞれの出走ゲートへとおさまった。
戦車競走の出走ゲートは、十九世紀の競馬場で見られるような、馬たちが横一線に並ぶかたちではない。
走路の中央に位置するゲートを先頭として、左右に広がるにつれて後方に下がるように、各ゲートが設置されている。全体としては、船のへさきのような形だ。
どの戦車がどのゲートに入るのかは、あらかじめ籤引きによって定められている。
アレウスの戦車は、中央からひとつ外側、プサウミスの戦車は、中央からふたつ内側だ。
それぞれのゲートの前には、ぴんと縄がはられ、それがスタートの瞬間に下げられるようになっていた。
ゲートの位置によって不公平が生じないよう、最初のスタートのラッパが鳴ると同時に、まずはもっとも外側、つまり、もっとも後列の戦車が走り出す。
続いて、より内側の戦車が次々とスタートしてゆくのだが、この時点ではまだ、どの戦車もまっすぐに進まなくてはならない。
スタート直後の戦車どうしがインコースを取ろうとしてもつれ合い、早々にクラッシュすることを避けるための工夫だ。
最後に、ラッパの響きとともに中央の戦車がスタートを切った瞬間、ようやく各戦車が自由なコースをとって疾走することが許される。
本当のレースのかけひきは、そこから始まるのだ。
いまや、興奮した観客たちの声は絶え間なくとどろく遠雷のように、高くなったり低くなったりしながら競馬場を満たしている。
その歓声が、紫色の衣を着た審判たちが手をあげた瞬間に、水を打ったように静まった。
「これより、戦車競走を開始する! 各戦車、用意!」
審判のとなりで触れ役が叫ぶ。
競馬場に、一瞬、完全なる静寂が訪れる――
次の瞬間、第一のラッパの音が響きわたった。
限界まで引きしぼられた弓弦から放たれる矢のように、後列から順に戦車が飛び出してゆく。
あっという間にプサウミスの、そしてアレウスがあやつる戦車もスタートを切った。
そして、すべての戦車がほぼ一直線に並んだ瞬間、第二のラッパの音がとどろいた。
真のレースがはじまった瞬間、蹄と車輪の響きもすさまじく、すべての戦車が砂ぼこりを蹴立て、折返しの標柱めがけて突進を開始した。
レースでは競馬場の西と東にたつ標柱を折り返して、十二周することになっている。
当然ながらインコースをとった方が有利だが、そのぶん危険も大きい。
石造りの標柱に近づきすぎて、うっかり突き当たれば、車軸がへし折れて戦車が壊れ飛び、御者自身も地面に投げ出されることになる。
競走に使われる戦車の車体は、速度をあげるためにできるかぎり軽量化され、木枠をつけた編みかご同然のつくりだったから、乗り手の命を守る頑強さは期待できなかった。
クラッシュしたところへ、さらに後続の戦車が突っ込めば、惨事になることは避けられない。
「そこだ、坊ちゃん! 行け、行け、行け!」
馬丁頭は両手を振り回し、つばを飛ばして叫んだ。
十台の戦車はタラクシッポスの前を突風のように駆け抜け、最初の折返しにさしかかった。
一方ホメロスは、興奮しきって叫びながら腕を振り回す観客たちの拳をかわしながら丘の斜面を駆けのぼり、ちょうど馬丁頭がいる場所の真正面、タラクシッポスや折返し地点を一望できる場所までたどりついていた。
見下ろせば、ちょうどアレウスの戦車が、先頭を疾走するプサウミスの戦車の背後にぴったりとつけ、標柱ぎりぎりをまわったところだ。
アレウスはプサウミスの御者の背に馬の鼻息がかからんばかりに迫り、隙を見て追い抜こうと狙っている。
「ワトスン君の、上等の、双眼鏡があればな」
息をととのえながら、ホメロスはじっとレースの行く末に目をこらした。
彼の視線は疾走する戦車にのみではなく、向かいの観客たちの様子、そしてタラクシッポスにしばしば向かった。
呪詛板による呪いと見せかけてアレウスを狙っていたのが夫人であったという事情は、ホメロスの働きによってすでに解明された。
だが、それをもってすべてが解決したと考えるのは早計すぎると彼は考えていた。
プサウミスが――あるいは他の何者かが、勝利を得るために、アレウスに対して何らかの攻撃をしかけてくる可能性はまだ消えていないのだ。
ホメロスは、何かが起きるとすれば、それはタラクシッポスの付近である可能性が高いと判断していた。
馬乗りの霊がたたりをなすという風説が人々に信じられ、実際にこれまでに多くの事故が起こった場所であるとなれば、謀殺を事故死と信じさせるのに、これ以上に都合のいい場所はないからだ。
だが、今のところ、おかしな様子は見られない。
最初は、観客席からの狙撃という可能性も考えていた。
しかし実際の競馬場は思った以上に広大で、走る戦車は観客席からかなり遠く、そのうちの一台を狙って矢で射る、あるいは石で打つということは、現実的ではなさそうだった。
戦車をあやつっている御者自身がアレウスを攻撃する、という可能性も考えたが、激しく動揺しながら疾走する戦車の上で、手綱と鞭とをさばきながら、さらにアレウスを狙うというのは難しい。
しかも、大勢の観客たちの目の前でということになれば、とても隠しおおせるものではないだろう。
となれば、もはや勝負はただ馬たちの脚力と御者たちの才覚、そして、彼らの言に従えば神々の意思のみに委ねられたのか――?
見守るうちに、レースは早くも六周目にさしかかり、ホメロスがちらりとそう考えた、そのときだ。
アレウスの戦車をひく馬たちの様子に、異変が起きた。




