呪われたスパルタ人 20
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『いつもながら、見事な手腕だったねえ』
早春の公園の並木道をならんで散歩しながら、ワトスン博士はくつろいだ調子で言った。
『物的証拠がちっともないのだから、どうなることかと思ったが、相手に呪術の効果を信じさせたままで自白まで持ち込むなんて、まったく大したものだよ。
しかし、いったい何がきみに夫人の犯行を確信させたんだい?
たしかに、夫人が黒幕かもしれないというのは、僕のほうから言い出したことだったが、あれは、あてずっぽうのようなものだったからね。真相がわかった今となっても、僕は、きみがたどった推理の道すじが、ちっともつかめないでいるんだ』
『火急の場合の言動には、その人の本心があらわれるものだからね』
楡の新芽の赤みがかったみどりを頭上にみながら、ホームズは言った。
『ワトスン君、ひとつ想像してみたまえ。もしも仮に、君の息子が、姿のみえない敵に何度も命を狙われ、一度などは本当に殴られて命を落としかけたとしよう。
その実行犯が、不意に、自分の目の前にあらわれた。そのとき、きみは、いったい何といって犯人を非難するかね?』
『それはもう、口をきわめて罵倒するだろう』
状況を想像し、顔をしかめてワトスン博士は言った。
『よくも息子に手を出したなとか、この野郎とか、人でなしとか、悪魔とか……まあ、そういったようなことを言うだろうね。紳士にあるまじき言葉だって口にするだろう。いや、それどころか、だれも止めなければ、その場で相手を殴り倒しかねないよ』
『そうだろう』
ホームズはうなずいた。
『そんな状況になったとしたら、親ならばだれでも、激怒して当然だ。大切な我が子を傷つけられた怒りが、瞬時に噴き出すだろう。
だが、実際には、夫人はこう言ったんだ。
「こやつは私に仕える奴隷だ。それが、愚かにも主人を害した! 私は、相応の罰を与えたまで」
「敵に通じて審判団に讒言を吹きこもうとした、心得違いの裏切り者を処罰しただけのこと」……
僕と夫人は、その直前まで、「呪詛板を埋めた犯人は家のなかにいる」という話をしていたんだよ。そんなときに、自分の奴隷がプサウミスと通じていたと知れば、その奴隷こそがアレウス君の命を狙っていた犯人なのだと、即座に判断するのが自然じゃないか。それならば、今きみが言ったような言葉が、真っ先に口をついてしかるべきだ。
だが、夫人がその瞬間、とっさに口にした怒りの言葉には、アレウス君に関する事柄はなかった。
もちろん、そのすぐ後に、彼女はアレウス君についても言及した。賢い女性だから、そうするのが自然だと、すぐに気づいたのだろうね。だが、そのことが、かえって僕に違和感を与えたのだ。まるで後から付け足したかのような、不自然な印象をね。
もっとも、僕自身がその不自然さにはっきりと気付いたのは、戻ってきたアルケシラオス殿の言葉をきいてからだったが。
アルケシラオス殿は、例の奴隷がアレウス君を狙っていたのだといって、怒りをあらわにしていた。彼の態度と、夫人の態度との落差が、僕にようやく真相を悟らせたのだ』
『なるほど、そういうわけだったのか! 観察と心理学の応用だね。もしも、僕が同じ場にいたとしても、ちっとも気づかなかっただろうなあ』
『いや、ワトスン君、そう卑下したものでもないよ。だって、その瞬間に僕が思い出したのは、他でもない、きみの言葉だったのだからね』
『僕のだって? たしかに夫人が黒幕なんじゃないかと言いだしたのは僕だったが、さっきも言ったとおり、あれは当て推量みたいなものだったんだよ。動機の推理も間違っていた』
『それでも、きみの言葉が、僕に土壇場のひらめきを与えてくれたんだ。
きみはあのとき、「子への愛情のためならば、社会の道徳や常識などかなぐり捨てて行動する母親は少なくない」と言った。
スパルタの母親たちは、子に対してきわめて厳格だったといわれている。スパルタを守る戦士にふさわしい強い男かどうか、これが唯一の物差しだった。ある母親は、戦場から逃げ帰った我が子を容赦なく刺し殺したそうだ。
そして、虚弱な子は――これはスパルタに限ったことではないのだが――生まれてすぐに遺棄してしまうのが、一般的な風習だった』
『とんでもない話だ』
『当時の感覚では、それが普通だったんだ。いや、現代でさえも、そういったことはしばしば行われている。表ざたにならないだけでね。
その「常識」に照らせば、夫人はマカリオン君をもっと邪険に扱ってもよさそうなものなのに、まったくそうではなかった。むしろ、アレウス君に対するよりも、いっそう温かい愛情をもって接しているようにさえ見えた。
僕も、はじめのうちは、まだ赤ん坊のマカリオン君と、すでにスパルタの戦士としての訓練を受けているアレウス君への接し方の違いなのだろうと思っていた。だが、ここへ来て、きみの言葉が、発想を転換する契機を与えてくれたんだ。
もしも、アレウス君が夫人の実の子ではなく、マカリオン君だけが、そうなのだとしたら?
こう考えてみると、これまでつじつまが合わなかったすべてのことに、きちんと説明がついたんだ。あとは、理由をつけて依頼人たちの前から姿を消し、夫人がひそかに動き出すのを待って、直接問いただせばよかった』
『そこなんだがね、ホームズ。結果的にはよかったようなものの、この点に関しては、きみのやり方は、いささか危険が大きすぎたように思うよ。
だって、きみが見張っていたとはいえ、黒幕である夫人を、アレウス君とともに残したのだからね。追い詰められて自棄になった夫人が、アレウス君に直接手を下すということだって、あったかもしれないじゃないか』
『その点については、ぼくはほとんど心配していなかったね。なぜなら、夫人は、アルケシラオス殿を心から愛しているからだ』
『どういうことだい?』
怪訝な顔をしているワトスン博士に、ホームズは笑いかけた。
『夫人は、アルケシラオス殿の名誉を傷つけるような真似だけは絶対にしない、という確信があったんだよ。
たとえば、夫人が自分でアレウス君を殺したとして、夜明けには、自分の腹から虫が飛び出してくることになるのだ。もちろん、実際にはそんなことはありえないのだが、彼女はそう信じていた。
アレウス君が天幕のなかで死に、夫人がそんな状態で死んでいたら、もみ消すことなどとうてい不可能な一大スキャンダルじゃないか。
ならば、アレウス君を殺してから、自分は姿を消すか? そうなると、どう考えても、逃げた夫人が怪しいということになる。
そもそも、あばらをいためた状態で、スパルタの戦士の寝込みを襲って殺すなどというのは、不可能に近いことなのだよ。目を覚まされたら一巻のおわりだ。騒ぎが起きて、すべてが明るみに出てしまうよ。
いずれにしても、アルケシラオス殿は、妻の凶行のために、非常な不名誉をこうむることになるわけだ。
その点、自分ひとりが黙って姿を消し、人に見られない場所で最期を迎えれば、たしかに大騒ぎにはなるだろうが、いまわしい真相は、誰にも知られずにすむ。夫人の失踪は呪いによるものだの、いや、プサウミスが誘拐させたんだのと、人は好き勝手にうわさするだろうが、少なくとも、アルケシラオス殿の名誉にきずがつくことはない』
『身内とみなした相手への愛情が、おそろしく深い女性なのだね。夫人の行動の動機は、すべて、そこにあったんだ』
『それだけ激烈な感情が、スパルタ式に強く抑制されてきたものだから、あやまった方向に発露してしまったのだね』
『いや、それにしても、不思議なものだねえ! 夫人は自分で嘘の呪詛板を作らせ、ねずみや犬を毒で殺させていたんだ。それなら、呪詛なんてものはみんな作りごとだと思ってもいいはずなのに、彼女は最後まで、きみの呪いの効き目を本気で信じていたんだから。これが古代人の精神というものかねえ』
『最初の呪詛板の一件があるからね』
ホームズは肩をすくめた。
『もちろん、呪いの効果で人が死ぬなんて非科学的なことがあるはずはない。アルケシラオス殿の愛人が亡くなったことは、不幸な偶然であって、夫人の呪詛とは何の関係もなかった。
だが、夫人は、自分が呪ったことによって、愛人も赤ん坊も死んだのだと、ずっと信じ続けていたんだ。だからこそ、自分に向けられた、僕の呪いの効果も信じたのだよ』
『なるほどね。まったく、きみにかかれば、この世に説明できないことなんて何ひとつないみたいだなあ』
二人は並んでベンチに腰をおろし、それ以上は口をきかなかった。
これまで、日常のあらゆる起居と、さまざまな事件の調査をともにしてきた二人だ。
何も話さなくとも、居心地の悪さを感じることなどなかった。
風はまだ冷たいが、陽の光をあびていると、ほのかな暖かさが感じられた。
『おや、寝ちゃったのかい、ホームズ?』
起きているよ、とは、彼は答えなかった。
仕事もせずにぼんやりとして頭脳を空転させることは罪悪だが、芸術を鑑賞する場合には、話は別だ。
この美しく安らかな早春のひとときを、もう少し味わっていたい――
■ ■ ■
不意に爆発のような歓声がわき起こり、ホメロスは目を見開いた。
まばゆいばかりの朝日に照らされた広大な競馬場に、とうとう、御者たちを乗せた四頭立ての戦車が入場してきたのだ。
ホメロスは、競馬場の南側の観客席の最前列、コースに二本ある折返し地点の、ゴールから遠いほうの標柱のちょうど目の前に陣取っていた。
戦車競技の一番の見所、折返しが間近で見られるとあって、この場所には多くの観客がむらがっている。
そこはちょうど、戦車の入場口のすぐそばにもあたっており、ラッパ吹きと触れ役、審判団に先導された戦車の列が堂々と競馬場に乗り入れてゆく様子がよく見えた。
観客席といっても、ベンチも、柵も、ロープさえもない、ただのなだらかな土手だ。
もちろん席を決める券などというものもなく、場所取りは、めいめいが勝手に行う。
「おいあんた、ぼうっとすんな、邪魔だ! もうちょっと詰め――あれっ!? あんた、あの、ああ……そうだ、ホメロスさんじゃねえか!?」
ぐいぐいと肩で押してきた男が、こちらの顔を見て、おどろいたように叫んだ。
「きみは……ああ、アルケシラオス殿のところの」
馬丁頭の中年男だった。
彼の後ろには、馬丁見習いの若者たちもいた。
彼らもまた、戦車どうしの競り合いがもっとも白熱するこの場所へ、勝負を見届けに来たのだ。
「こんだけの人のなかで、まさか、あんたと隣同士になるとはねえ! いや、あんたが急に行っちまったってんで、アレウス坊ちゃんが残念がってましたぜ。こうしてあんたも観に来てると知りゃあ、坊ちゃんもさぞ奮い立つこったろう」
「彼の勇姿を見届けると約束したからね。朝早くから、この場所にがんばっていたのだよ」
「場所取りなんざ、若え奴らに任せりゃよかったのに」
「弟子は一人も取っていないんだ」
「へえ! そりゃあ何かと不便――おう、来た、来た、来た!」
中年男が子供のように両手を打ちあわせて叫び、若者たちも爪先立って伸びあがった。
つややかな毛並を誇る四頭の馬たちにひかせた戦車の上で、左手に鞭、右手に手綱をつかみ、足首まである白い衣を着たアレウスは、堂々と胸をはっていた。
「坊ちゃん! いや、アレウス様! 行け、行け、ぶっ飛ばせ!」
「アレウス君! がんばってくれたまえ!」
渾身の声援は、はたしてその耳に届いたかどうか。
アレウスは、まっすぐ前に向けた視線をいささかも動かすことなく、悠然と戦車を操って観客席の前を横切り、スタート地点へと向かっていった。




