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呪われたスパルタ人 19

     *     *     *


 オリンピアに集った多くの者が、早朝からの戦車競技にそなえ、ぐっすりと眠っている。

 選手たちのみならず、観客たちもだ。

 真夏の激烈な陽光のもとで、選手たちの熱戦を全力で応援するのだから、しっかりと眠って体力を養っておかなくては、結果を見届けるまでに倒れかねない。

 だが、眠っていない者たちもいた。

 アルケシラオス殿の天幕の前では、歩哨を命じられた者たちが眠い目をこすり、あくびをかみ殺しながら星あかりのもとにたたずんでいる。


 そんな歩哨たちの目をかすめて、黒っぽい衣に身をつつんだ人影が、天幕のひとつの裏手から、そっとすべり出た。

 人影は、極めてゆっくりと足音をしのばせて天幕から離れ、オリンピアの聖域から遠ざかるように、アルフェイオス川に沿って進んでいった。

 やがて、その足は、鬱蒼たる森のほうへと向かった。


「どこへ行かれるのですか?」


 不意に魔術のように目の前にあらわれたホメロスに、人影はぎょっとしたように足を止めた。

 ホメロスは人影に向かい、


「自らの罪と向き合うことなく、逃亡するというのはいかがなものでしょうか?」


 と、しずかに言った。


「逃亡だと!」


 人影は、かすれた声で言った。


「ええ。そうでないならば何でしょう? あなたは、恐れておられる。真実が明らかになり、自分自身の名誉にきずがつくことを。ですが、スパルタでは、恐怖による敵前逃亡は、最悪の罪とされているはずですよ」


「貴様の望みは、なんだ?」


「僕が求めるものは、ふたつだけです。そのうちのひとつが、真実です」


 ホメロスは、なげかわしそうにかぶりを振った。


「昨日までの僕は、チャリング・クロス駅まで尻を蹴飛ばされても文句を言えないような大ばか者でした。アレウス君を狙う者の目的は、彼の・・出場を・・・阻止する・・・・ことにあるとばかり、思い込んでいたのですから。

 その線で、どのような仮説をたててみても、まったく筋が通らなかった。それも当然のことです。

 あなたの目的は、まったく・・・・別の・・ところ・・・にあったのですから」


 ホメロスは、すべてを見通すかのごとき灰色の目で、ひたと相手を見すえた。


「あなたの目的は、アレウス・・・・君を・・殺すこと・・・・、そのものだった。それを、競技祭の勝敗に関わる陰謀に見せかけようとしたのですね」


「おまえは、いったい、何を言っているのだ」


 人影は、ばかにしたように言った。


「なぜ、このわたしが、我が子を殺す?」


「我が子ではありません」


 ホメロスの言葉は、人影に対して、屠殺用の斧の一撃のごとき威力を発揮した。

 人影は、額を打たれた牛のように大きくよろめき、激しい痛みにあえぎながら、その場にひざをついた。


「そう……アレウス君は、あなたの実の息子ではない。マカリオン君と違ってね」


 頭をおおっていた布がずれ、あらわになった顔で、夫人は信じられぬというようにホメロスを見上げた。


「僕は先ほど、あなたの目的はアレウス君を殺すことそのものだったと申しあげましたが、これでは、表現が不十分です。正確には、あなたの目的は、アレウス君を殺すことによって、実の子であるマカリオン君を、アルケシラオス殿の跡取りとすることだったのですね」


「わたしの心を、読んだのか」


「あなたの守りがあまりにも堅固であったために、非常に難しかったのですが、なんとかね」


 ホメロスは肩をすくめた。


「ですが、過去に関しては、読み切れない部分もあります。

 あなたが、実の母親でないとすると、アレウス君は、いったいだれの子なのですか?」


「知らぬ」


 夫人は、そっけなく言った。

 相当な痛みに耐えているのだろうが、あばらをかばうわずかな身振りと、額に浮いた脂汗のほかには、苦痛をうかがわせるものはなかった。


「わたしが初めて身ごもった、アルケシラオスの息子は……死産だった。生まれたときには、もう、どす黒くて……息をしていなかった。わたしは……絶望した。彼の強い息子を生むことが、それこそが、わたしのつとめなのだ! それができないのでは、わたしには、彼の妻たる資格が、ないことになってしまう」


 夫人の手が、地面のうえで強く握りしめられた。


「わたしが、半狂乱になっているのを見て、産婆が、わたしにささやいた。『だいじょうぶ、ちょうどええ赤子がおるよ。取り替えてしまえば、男には分からんよ』と……

 わたしには、最初、何のことだか分からなかった。ほんとうに、あっという間だった。わたしがまだ出産の床に横たわっているあいだに、死んだ子は、どこかへ運び去られ、どこからか、生きた赤ん坊が連れてこられた。その赤ん坊が、アレウスだったのだ」


「このような秘密が、よく、これまで守られましたね」


「ちょうど、祭儀の期間にあたっていたために、お義母さまがたは、出産に立ち会われなかったのだ。その産婆と、昔からわたしに使えている忠実な侍女たちしか、その場にはいなかった」


「その産婆は、ずいぶんと、口が堅かったのですね?」


「わたしが、口封じのために殺したとでも、疑っているのか? ……たしかに、万が一にも脅されることがあったら、対処せねばならぬ、と考えたことはあった。だが、実際には、そんなことは起こらなかった。

 おそらく、そういうことは、よくあることだったのだろう、多分な。その当時には、とても、そのようには、考えることができなかったが……」


「あなたとアルケシラオス殿のあいだには、そのあと長らく、子供が授からなかった。しかし、アレウス君は申し分のないスパルタ人の若者として成長し、あなたはスパルタ人の妻、スパルタ人の母としての面目を、じゅうぶんに施すことができた。

 やがて、あなたがたは、とうとうマカリオン君を授かった。そのとき――正真正銘、自分の腹をいため、血を分けた息子の誕生をみたとき、あなたのなかに、悪心が芽生えたのです」


「悪心だと!」


「あなたは、実の子かわいさという、極めて自己中心的な理由のために、何の罪もないアレウス君を殺そうとしたのです。これが悪心でなくて、何だというのです?」


 ホメロスは厳然と言った。


「アレウス君の、オリンピア競技祭への出場が決まったときから、あなたの計略は本格的に動き出した。出場者たちの利害がからみあい、陰謀うずまくオリンピアの競技祭は、殺人の動機をおおいかくす絶好の隠れみのだ。

 もっとも簡単な方法は毒殺です。しかし、それでは、実行犯が家の内部にいるということが、すぐにわかってしまう。それに、愛するアルケシラオス殿が、あやまって毒を口にしてしまう可能性だって、ないとは言えない。さらには、アレウス君のそばには常にリカス君がついていて、気づかれずに毒を使う隙はなかった。

 そこで、あなたは、競技祭の勝敗に関わる呪詛に見せかけるという方法をとることにした。呪詛ならば、犯人がどこにいるのかは、わからないのですからね。

 あなたは自分の奴隷に命じて、屋敷の近辺に呪詛板を埋め、ねずみや犬を殺させることで、一連の災厄はライバルからの――おそらくはプサウミスからの呪詛によるものだと、周囲に思い込ませた。

 そして、いよいよ最後の一手です。このオリンピアで、天幕のそばに呪詛板を埋め、アレウス君を殴らせ、現場に、リクガメを転がした。競技祭のあいだ、オリンピアには、ありとあらゆる露天商が集まってくる。リクガメは、そこで手に入れたものだ。

 ヒゲワシが落としたリクガメが、頭にぶつかって即死。呪詛によって引き起こされた、おそるべき災厄……それで、すべてが片付くはずだった。

 しかし、ここに、大きな誤算がありました。打撃の威力がたりず、アレウス君が死ななかったことと、現場に僕が通りかかったことです。

 僕があらわれ、犯人に呪いをかけたことで、実行犯の奴隷は半狂乱になって、あなたに泣きついたことでしょう。このままでは、自分の腹を食い破って、虫が飛び出してくる――

 そこであなたは、その奴隷をプサウミスのもとに走らせ、密告させることにした。僕がプサウミスに呪いをかけるところを見た、証拠を埋めてある場所もわかる、と言ってね。そうすれば、プサウミスがすぐにも審判団ヘラノディカイを引き連れてやってくるだろうと踏んでのことです。

 これは、あなたにとっては苦しい決断だったでしょう。アルケシラオス殿の悪い評判がたち、愛する彼の名誉に、大きなきずをつけることになってしまうかもしれないのですから。

 それでも、恐怖で自暴自棄になった奴隷がすべてを喋り、ことが露見することのほうが、さしせまった問題だった。

 あなたとしては『被害者はこちらだ。あれは呪詛などではなく、呪詛返しだったのだ』と主張したうえで、『それほどまでにご心配なら、その呪術師を呼び、この場で術を解かせましょう』という展開に持っていくつもりだったのでしょう。そうすれば、呪いは解かれ、しかも、これまでの呪詛の犯人はやはりプサウミスだったのだとにおわせることもできて、一石二鳥だ。

 しかし、またもや僕がその場に来合わせたことと、呪詛板そのものが偽物だったために、計画が崩れた。

 もはや、一刻の猶予もない。あなたは、その手で奴隷を始末し、口封じをせざるを得なかった」


「見事だ」


 口のはしをゆがめて、夫人は言った。


「もはや、言い開きをする気はない。そなたの言うとおりだ」


「あなたがしてきたことは、スパルタの女性にふさわしくない、きわめて自分本位の、卑怯なふるまいです。僕の故郷の法に照らせば、あなたは、長い年月を牢獄につながれてすごすことになるでしょう」


「わたしを裁きたいのならば、手を煩わせる必要はないぞ」


 奇妙に落ちついた声で、夫人は言った。


「すべてが見通せるおまえならば、わたしが、これから何をしようとしているかも、わかっているはずだ。そこをどけ」


「僕の呪いは、アレウス君を害した者にふりかかる。――つまり、あなた自身にも。虫が、腹を食い破って飛び出す夜明けまでに、できるだけ遠く、人目につかないところまで行って、そこで、死を待つつもりなのですね」


「ばかめ。わたしは、スパルタの女だ。呪術ごときに、殺されはせぬ。夜が明けるまえに、崖の上から、飛び降りるのだ」


 ふたたびゆっくりと歩き出した夫人の前に、ホメロスは、両手をひろげて立ちふさがった。


「僕が求めるものは、ふたつだけだと、はじめに申し上げたはずです。ひとつは、真実。もうひとつは……依頼主であるアレウス君を、守りとおすことです」


 怪訝そうな顔をした夫人に、ホメロスは、ゆっくりと言った。


「アレウス君は、あなたを本当の母親と信じ、心から尊敬している。そして、スパルタの若者としての誇りをもって生きています。

 僕は、かならず真実を明らかにする必要がありましたが、それは自分自身に対してであって、世間に対して公表することは、必ずしも必要だとは考えておりません。

 そうすることが、依頼人にとってむしろ有害となる場合には、なおさらです」


 ホメロスは常の彼に似ず、懇々と、感情のこもった調子で訴えた。


「あなたは、たいへん誇り高い女性だ。僕は、その、スパルタの女性としての誇りに訴えたいのです。

 このことは、あなたもお認めになると思いますが、アレウス君ほど、スパルタの戦士としてのすぐれた資質を持った若者はいません。そして、彼は、あなたとアルケシラオス殿の息子であり、マカリオン君の兄です。――そうだと信じて、自分に誇りをもって生きているのです。

 このような優れた若者を失うことは、スパルタにとって、非常に大きな損失なのではありませんか?

 そして、このような優れた息子を失うことは、あなたがこの上なく愛するアルケシラオス殿にとって、耐えがたい痛手となるのではないでしょうか?」


 一瞬、彼の息子でもないのだ、と言おうとするかのように、夫人の唇がふるえた。

 だが、それは声にはならなかった。


「そして何よりも、アレウス君本人にとって、真実を知ることは、これ以上ない痛打です。ほんとうは自分がお二人の息子ではなかった・・・・なんて、こんな残酷な悲劇はありませんよ。彼は、あなたがたお二人を、真の両親として敬愛しているのですからね。

 彼が明日の勝利を一心にめざしているのだって、自分自身の名誉のためである以上に、お二人を喜ばせたいためでもあるはずなのです。

 だから……競技の直前に、愛する母上がいなくなってしまうなんて、彼には、とても耐えられないに違いない」


 ホメロスは、夫人の来た道を、まっすぐに指さした。


「戻りなさい。戻って、これまで通りに、家族としてお暮らしなさい。あなたの心中は複雑かもしれませんが、それは、あなたのこれまでの行いへの報いとして、当然受けるべき痛みです。

 その前に、この薬湯を飲みなさい。そうすれば、あなたの体内にいる虫は、孵ることなく溶けてしまいますから。

 アレウス君を――彼の魂を守るために、僕は、あなたへの呪いを、解除します」


 手渡された小瓶アラバストロンを、夫人はしばらくのあいだ、じっと見下ろしていた。

 ながいあいだ、石像のように動かずにいたあとで、彼女は、ゆっくりと手を持ち上げ、小瓶アラバストロンの中身を一息に飲み干した。

 それから、彼女はじっとホメロスを見つめた。

 ホメロスに襲いかかり、口を封じたものか、今の自分の体でそれが可能か、思案しているかのようだった。


 やがて、彼女は瓶を茂みのなかへ放り捨てると、大儀そうに体の向きを変え、よろめきながら、一歩一歩、元来た道を引き返していった。

 彼女は一度も振り返らなかった。

 ホメロスは、手を貸そうともしなかった。

 彼女がそれをけっして望まぬことを、知っているかのように。

 ただ、黙ってその背中を見送ってから、音もなく身をひるがえし、闇のなかに姿を消した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 読み直してきましたが、どこで血が繋がっていないと気づいたのか待ってる分からず。 謎解きを楽しみにしてます。 [一言] ホメロスが本当に原作ホームズのようで、再現性が高い!
[良い点] あああああ……なるほどなぁ! そうかぁ、そうかぁ……。 強いひとにもそういう気持ちが沸き起こることは、きっとあるのだろうなぁ。家族だけに、長い時間を共にあるものですもんな。 この先はきっと…
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