呪われたスパルタ人 18
■ ■ ■
窓のそとの嵐はますますはげしくなり、吹き荒れる風が煙突のなかでひゅうひゅうとむせび泣くような音をたてている。
『結局は、プサウミスに雇われたその奴隷が、一連の事件の実行犯だったということなんだね。事件が解決して、よかったじゃないか。君の推理能力の出る幕があまりなかったことは残念だったがね』
椅子を暖炉のちかくへ引き寄せ、熱い紅茶を飲みながら、ワトスン博士は言った。
『アレウス君が殴られたとき、きみが見つけた足跡は、男のものだった。そして、これまでの呪詛板が出たときも、ねずみと犬が死んだときも、その奴隷は家にいたんだろう? つまり、犯行は可能だったわけだ。すべてのつじつまが合っている』
『つじつまが合っているというだけじゃない』
ホームズは激しくゆれる炎を見つめながら、憂鬱そうに言った。
『状況証拠だけでなく、物的証拠の点からみても、まず、まちがいはないだろう。僕はつい今しがた、死んだ奴隷が地面に残した足跡をたしかめたところだ。アレウス君が殴られた現場に残された足跡と、特徴が一致していたよ』
『それじゃあ、やっぱり一件落着なんじゃないか。それなのに、どうしてそんなに浮かない顔をしているんだ?』
『動機がわからない』
『動機だって?』
ワトスン博士はおどろいたような顔をした。
『そんなもの、わかりきっているじゃないか。金だよ。プサウミスに買収されて、アレウス君が出場できないようにしようとしたんだ。不心得な使用人にはよくある話だ。そういう不愉快な例を、これまでにいくらでも見てきただろう?』
『僕がわからないというのは、犯人がとった方法の点なのだよ、ワトスン君。
なぜ、わざわざ何度も呪詛板なんか使ったり、ねずみや犬を殺したりしたんだろう? アレウス君の優勝を阻止したいなら、単純に、馬か、本人を狙えばいいことじゃないか』
『馬には、厳重に見張りがついていて、手出しができなかったのだろう。アレウス君にも、隙がなくて、襲うことができなかったのだろう』
『でも、結局は隙をみつけて、アレウス君を殴っているのだよ。それならば最初から、呪詛板だ、ねずみだ犬だと騒ぎを大きくせずに、ただ襲えばよかったんだ。騒ぎが大きくなればなるほど、警戒も強くなって、犯行は難しくなったはずなのだからね』
『最初のうちは、アレウス君に危害を加えるつもりまでは、なかったんじゃないか? ただ、おどかして、出場をやめさせるだけのつもりだったんだ。ところが、アレウス君がいっこうに怖がるようすがないので、実力行使に出たのだ。たしか、リカス君だって、そんなふうに考えていただろう?
僕は、アレウス君のために、アルケシラオス殿が黒幕でなくてよかったと心から思っているよ。実の父親に命を狙われるなんて、こんな残酷なことはないじゃないか』
『だが……本当に、プサウミスが黒幕だったのだろうか?』
『なんだって?』
『仮にアルケシラオス殿が黒幕だったのだと仮定すると、呪詛板を使ったことにも納得がいくんだ。だって、いかにもプサウミスがやりそうなことだからだ。
あえて何度も呪詛板を埋め、ねずみだ犬だと騒ぎを起こし、周囲の疑いの目を、プサウミスに向けさせる。これならば、行為の動機として筋が通る。
だが、プサウミス自身が黒幕だったと考えると、とたんに筋が通らなくなるんだ。あの狡猾なプサウミスが、相手によけいな警戒心をいだかせ、しかも明らかに自分に疑いが降りかかるようなことを、あえて、何度もするだろうか?』
『するだろうか、と言ったって、ほかに誰もいないじゃないか』
ワトスン博士はあきれたような調子でいった。
『アレウス君が出場できなくなることで、いちばん利益を受ける者は、プサウミスだろう? それに、あの奴隷とプサウミスが実際につながっていたことは、プサウミス自身のことばが、はっきりと証明したのだし』
『それはそうだが、リカス君が言っていた、アルケシラオス殿をたずねてきた相手がいたという話も気になるんだ』
『きみは、あくまでもアルケシラオス殿に疑いを残しているというわけだね。
それじゃあ、アルケシラオス殿が、妻の奴隷に命じて、プサウミスのしわざと見せかけて、息子の出場を妨害していた、というわけかい?』
『いや……』
ワトスン博士の言葉に、彼は眉をしかめ、手にしたパイプをしきりにふかした。
『それは、妙だな。なぜ、わざわざ妻の奴隷に命じるんだ? 危険が大きいじゃないか。奴隷が、夫人に告げ口をするかもしれない。自分の奴隷に命じたほうが確実だ』
『そのとおりだ』
ワトスン博士は大きくうなずいてから、すこしためらいがちに言った。
『なあホームズ、あまり気持ちのいい考えとはいえないが、こういう可能性はないだろうか? つまり、奴隷に命令を下して呪詛板を埋めさせていたのは、実は、夫人だったということだ』
『その場合、夫人の動機は?』
『まあ、息子を思う親心だね。歴史の授業で、戦車競走はとても危険な競技だったときいたおぼえがあるよ。死人が出ることもめずらしくなかったそうじゃないか。夫人は、息子を危険から遠ざけておくために、わざとおどかして、出場を諦めさせようとしたんじゃないかな?』
『だが、スパルタの母親は「勝利か死か」という言葉とともに、息子を戦場にさえも送り出すのだよ。危険だからなどという理由で、競技に挑むことを止めさせたりしたら、母親も子も、みなの笑いものになる。
特に、オリンピアの競技祭は、古代ギリシャの人々にとって最高の晴舞台だ。勝利を得れば、生涯にわたって栄誉をうけることが約束される。そんな機会をみすみす棒にふるというのは、考えにくいな』
『子への愛情のためならば、社会の道徳や常識などかなぐり捨てて行動する母親は少なくないよ』
『だが、アレウス君は、気絶するほどの強さで頭を殴りつけられたのだ。下手をすれば死んでいてもおかしくなかった。危険から遠ざけようとして、逆に我が子を傷つけさせたのでは、本末転倒だろう? やはり筋が通らないよ』
『袋小路だね』
ワトスン博士はお手上げだとばかりに立ち上がった。
『ホームズ、アルケシラオス殿があやしいと思うのなら、彼に直接ぶつかって、例のあやしい客とのやりとりについて問いただすしかないんじゃないか? 彼が、きみを魔術師だと信じているのなら、きみの力をおそれて、あんがい素直に話すかもしれないよ。こっちはもう何もかも知っているんだぞという顔をして、素直に話せば助かる道はある、とでも言えば――』
『そうすべきかもしれないな。だが、ここは我らがイギリスのような法治国家ではないんだ。うまく立ち回らなくては、叩き殺されて道端に捨てられるということにもなりかねない。せいぜい慎重にやるさ』
『はやく戻ってこいよ、ホームズ』
ワトスン博士は心のこもった声でいい、そばへ来て肩に手をおいた。
『きみがいなくてはさびしいからね。置手紙とシガレットケースだけ置いていなくなるなんて、ぼくは承知しないぜ。かならず戻ってきてくれよ、ホームズ――』
■ ■ ■
「ホメロス!」
不意につよく肩をゆすられ、大声で呼ばれて、彼は白昼夢の世界から引き戻された。
アレウスの真剣な顔がそこにあった。
「どうしたのだ、そんなふうに突っ立って? 神託でも受けたのか?」
「ああ……」
ホメロスは百年の眠りからさめた者のようにまばたきをし、頭をふった。
「すまない、アレウス君。祭壇めぐりから戻ってきたのだね」
「ちょうどすべての供儀を終えたところで、奴隷たちがしらせに来た」
ホメロスが周囲を見回すと、その場に、死んだ奴隷の姿はすでになかった。
けがれを嫌い、どこかに運び去られたのだ。
夫人の姿もなかった。
こちらは、天幕に運びこまれたようだ。
天幕のおもてでは、アルケシラオス殿が奴隷たちから報告を受けていた。
彼は火を吹かんばかりの剣幕で、一緒に戻ってきたリカスが必死におしとどめていなかったら、即座にプサウミスを追いかけていって、その頭をねじり取っていたに違いなかった。
そのアルケシラオス殿の目が、ふと、こちらを向くやいなや、
「ホメロス!」
彼は吠えるように言って突進してきた。
ホメロスは思わず身構えたが、アルケシラオス殿は振りあげた太い腕を、ホメロスの顔面にたたきつけるのではなく、両肩に力強く置いた。
「聞いたぞ! 見事だ。あの呪詛板――」
そこで、はっと気づいたように声量を落とし、
「あの皿のことだ。わざと文字を消しておいたのだな。プサウミスのやつ、わしらをおとしいれるつもりだったようだが、そなたは、それを見事にかわしてのけた」
「恐縮です。しかし、お詫びを申し上げなくてはなりません。僕がご一緒していながら、夫人が負傷なさる事態に」
「うむ。あれは、裏切り者をみずからの手で始末した。さすがはスパルタの女、スパルタの戦士の妻だ!」
「あの奴隷は――死体はどうしました? すでに埋葬を?」
「埋葬など、とんでもない! ここから遠く離れた三叉路に打ち捨てるように命じておいた。我が家の奴隷でありながら、金に目がくらんで敵に与し、あろうことかアレウスの命を狙い、我が妻まで傷つけるとは許せぬ! 本来ならば死ぬまで鞭打ちにでもしてやりたいところだが、すでに死んでおるからには、しかたがない。烏の餌にでもなるがいい!」
そこへ、女性用の天幕のなかから、侍女に支えられて、夫人が歩み出てきた。
「こら、何をしておるのだ! 休んでいなさい」
「母上!」
夫人は脂汗のういた顔をあおざめさせながらも、駆けよった夫と息子が手を貸そうとするのを片手で押しとどめた。
「ごめんなさい、アルケシラオス。わたしは、余計なことをしてしまった」
「なにが余計なものか! スパルタの女にふさわしい、見事なはたらきだった」
「だが、わたしは怒りにまかせて、やつを殺してしまった。やつを生かしておけば、尋問して、プサウミスとの繋がりを吐かせることができた……そうすれば、審判団の前で、プサウミスの悪事をあばいてやれたのに」
「なに、過ぎたことだ。気にするな」
アルケシラオス殿は妻の手をとり、優しくなでた。
「その場にいたのがおまえではなく、わしだったとしても、やつの頭をねじ切っておったわ。わしらの息子を手にかけようとした極悪人だ! 怒りをおさえることなど、とても無理な話よ」
そのときだ。
「いや、待てよ……?」
と、ホメロスはつぶやいた。
その声はあまりにも小さく、一瞬のことだったために、その場にいる他の誰も、彼のつぶやきには気がつかなかった。
「プサウミスも、これに懲りて、くだらぬ妨害はあきらめることでしょう」
アレウスがそう言い、夫人の手をとった。
「これで心安らかに明日の競技に挑むことができます。母上のおかげです」
「油断をするな」
あばらの痛みをこらえて顔をしかめながら、夫人はアレウスに向かって言った。
「あのプサウミスのことだ。こちらが安心した隙をねらい、さらなる手を打ってくるかもしれぬ。最後の最後まで、気をゆるめるな」
「はっ」
「さて、それで、客人はこれからどうなさるのかな?」
「ああ……」
かわらず居丈高な夫人の問いに、ホメロスはおだやかな笑みを浮かべてこたえた。
「どうやら、僕の仕事は終わってしまったようです。呪詛板を埋め、アレウス君に危害を加えた当の本人が、僕の呪いが効果を発揮するはずだった、明日の日の出を待たずに死んでしまったのですからね。
いや、たいしたお役に立てずに、申し訳ありませんでした。僕は、これにて失礼します」
「なんだって?」
驚いたように声をあげたのはアレウスだ。
そばに立っていたリカスもまた、何ひとつ口には出さなかったが、目を見開いてホメロスを見た。
「ホメロス、それは、あまりにも突然すぎる。ぜひとも、明日の俺の競技を見届けていってくれ」
「そのとおりだ」
アレウスに続いて、アルケシラオス殿も横から言った。
「たいして役立っていない、などということはないぞ。プサウミスとあの奴隷の企みを明らかにすることができたのは、ホメロスよ、そなたの機転によるところも大きかったのだ。せめて、我らのもてなしを受けていってくれ。
それに、我が妻の言うとおり、プサウミスがしつこく何やらしかけてくる可能性も、まだ残っている。この競技祭が終わるまで、そなたがいてくれれば、こちらとしても心強い」
「身にあまるお言葉、感謝します」
ホメロスはおだやかに続けた。
「しかし、これ以上、僕がこちらに厄介になっていては、かえって皆さんのご迷惑になると思うのです。
プサウミスが、僕のことを呪術師だと大声で言い立てるのを、多くの人間が耳にしています。僕がそばにいては、明日の競技でせっかくアレウス君が勝利を得たとしても、『おかしな術を使って幸運を得た』だの『対戦相手を呪った』だのと、根も葉もないうわさをたてられて、せっかくの優勝にきずがつくということにもなりかねません」
「ううむ、なるほどな」
「もちろん、明日のアレウス君の勇姿は拝見するつもりです。ただし、他の観客たちとまったく同じ立場で、観客席からね。アレウス君、がんばってくれたまえ」
「ホメロス」
アレウスはホメロスの手を握り、力強く言った。
「これまでのすべての力添えに感謝する。おまえに、勝利した姿を見せることができるよう、俺は全力を尽くす」
「ホメロスよ、これを取っておいてくれ」
アルケシラオス殿が自分の従卒に合図し、持ってこさせた小さな皮袋をホメロスに手渡した。
小さくとも重みのある袋の中身は、銀の粒だった。
「スパルタ人は奢侈をつつしむが、必要なものを惜しむことはない。そなたの働きに報いたいのだ」
「いいえ、受け取ることはできません」
「なに?」
とまどったようすのアルケシラオス殿に、ホメロスはほほえんだ。
「僕は先ほど、プサウミスにこう言ったのです。『僕はこちらのスパルタ人の御一家に雇われてなどおりません。偶然にもアレウス君と知りあった縁で、ご親切にも、こちらに泊めていただいているだけです』とね。これを受け取れば、僕が言ったことは偽りとなってしまいますから」
「では、せめて友人からの贈り物として受けてくれ」
「どうかお気遣いなく。僕にとっては、事件に取り組むことそのものが報酬なのですから。それでは、失礼」
そう言うと、ホメロスは身をひるがえし、ふりかえることもなく歩き去っていった。
「本当に、行ってしまった」
「変わった男だったな」
アレウスとアルケシラオス殿は、あっけにとられたようにつぶやきあった。
ホメロスの背中が見えなくなるまで見送ったところで、
「さあ、もう天幕に戻るのだ」
アルケシラオス殿は優しく妻をうながした。
「あばらの骨にひびが入っておるに違いない。あの畜生め、烏に食われろ! これ以上ひどくなっては大変だ。横になって膏薬をあて、なるべく動かぬようにしておきなさい」
「ええ……」
みなが天幕に入ったあとも、アレウスは一人その場に残り、ホメロスが消えていったほうを見つめていたが、
「さあ、アレウス様も」
やがてリカスにうながされ、深い息をひとつ吐いて、天幕に戻っていった。