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呪われたスパルタ人 17

 ぱっと天幕の入口の垂布がひらいて、奴隷のひとりが顔を出した。


審判団ヘラノディカイが来ました!」


審判団ヘラノディカイだと?」


 夫人が目を丸くしてつぶやいた。


「何をしにきたのだ?」


 夫人とホメロスがおもてに出ると、そこではちょうど紫の衣を身につけた男たちと、天幕を守る奴隷たちとが、通せ通さないの押し問答をくりひろげていた。

 騒ぎをききつけた野次馬たちがぞろぞろと集まってきて、人垣ができつつある。

 おもてにいた乳母や侍女たちは、すぐに夫人のそばへと下がってきて、マカリオンを守るように身を寄せあった。


「この騒ぎは、いったい何事か!」


 夫人が叫ぶと同時、


「いたぞ、いたぞ! そこにいたぞ!」


 そう叫びながら審判団ヘラノディカイの背後から姿をあらわしたのは、灰色の髪の男、カマリナのプサウミスだった。

 プサウミスは、節くれだった指で、まっすぐにホメロスを指さした。


「その男です! みなさん、ごらんください。卑しい呪術師ですぞ! スパルタ人たちが、その男を雇い、あろうことか、このわたしに呪いをかけさせたというのです。

 わたしの優勝をはばむために、このような妨害をしかけるとは、なんたる卑怯なふるまい! まさに、ゼウス神への神聖な誓いを踏みにじる行為だ!」


 野次馬たちから、驚きと非難のまざったどよめきが上がった。


「貴様!」


 夫人がプサウミスに飛びかかりそうになるのを片手で制し、ホメロスは、ゆっくりと前に進み出た。

 そして、人垣のいちばん隅に立っている野次馬にもきこえるような、朗々たる声で語りかけた。


「やあ、これはどうも、プサウミスさんじゃありませんか。はじめまして、では、ありませんね。昨日、あなたが牛の血入りの壺を持って訪ねてきてくださったときに、一度お目にかかっていますからね」


「何の話だ?」


 プサウミスは、すこし早口になって言った。


「おかしな言いがかりをつけるのはやめてもらおう! そんなふうにして、自分の罪をごまかそうというのだな。わたしを陥れようとしたって、そうはいかん! 壺だって? いったい何の話だ? 出せるものなら証拠を出せ、証拠を!」


「どうか落ち着いてください」


 ホメロスのほうはおちつきはらった態度で両手を見せ、微笑んだ。


「どうやら、我々のあいだには、不幸な誤解が生じているようですよ。

 そもそも先ほどのあなたのご指摘は、はじめから終わりまで、すべてが間違っています。

 僕は、こちらのスパルタ人の御一家に雇われてなどおりません。偶然にもアレウス君と知りあった縁で、ご親切にも、こちらに泊めていただいているだけです。

 そして、あなたに呪いをかけたという話にいたっては、まったくの事実無根、でたらめもいいところです。

 あなたはつい今しがた、証拠を出せとおっしゃったが、それは、こちらが言いたいことですよ。いったいどんな証拠があって、そんなとんでもない言いがかりをつけようというのですか?」


「うむ、言ったな、呪術師め!」


 プサウミスは怒りに顔を引きつらせながらも、にやりと笑った。


「証拠だと? そう、証拠だ! 証拠ならあるとも。おまえが呪いをかけるのに使った陶片こそが、動かぬ証拠だ!」


「何のことです? あなたがいったい何をおっしゃっているのか、さっぱり分かりませんな。何かの間違いでしょう。恥をおかきになる前に、取り消されることをおすすめします」


「あくまでもとぼける気だな、嘘つきめ! おまえがその手で呪いの文句を刻んだ陶片だ。それが出てもまだ、とぼけることができるかどうか、試してやる!」


 プサウミスは激しくののしると、あたりを見回し、そばに小さな茂みがあるのを見つけて、


「そこだ! その茂みのあたりに、穴を掘ったあとがあるはずだ。よく探せ!」


 と叫んだ。

 プサウミスの付き人たちが獲物の臭跡を追う猟犬のように地面を探りまわっているあいだ、野次馬たちや審判団は固唾をのんでその様子を見守り、プサウミスはホメロスをにらみつけ、ホメロスは悠然とその場に立っていた。


「ありました、プサウミス様、ここに!」


「掘り出せ!」


 すぐさま土に汚れた布の包みが掘り出され、プサウミスの手元に届けられた。


「みなさん、ごらんください、これを! 中に入っているのが呪詛板です。そこの男が私を呪い殺そうとしたという、動かぬ証拠です! ……おい、どうだ、呪術師め! これでもまだ、しらを切るつもりか!」


 審判団に包みを渡したプサウミスは、勝ち誇ってホメロスに言った。

 ホメロスが何も答えずにいるうちに、審判たちは慎重に包みをはがし、おそるおそる中身をあらためた。

 そのまま、しばらくのあいだ、だれも、何も言わなかった。


「さあ、どうしたというのです?」


 プサウミスが、しびれを切らしたように叫んだ。


「一刻もはやく、この男を捕らえていただきたい!」


 審判団ヘラノディカイは、なんともいえぬ表情で顔を見合わせた。

 ややあって、一人が、


「これが、呪詛板ですかな?」


 と、プサウミスにきいた。


「ええ、そうですとも! 見れば分か――」


 勢いこんだプサウミスの声は、あっというまにしぼんで消えた。

 審判たちが、周囲の者たちの目にも見えるように高くかかげた陶片は、だれの目にも明らかに、ただの・・・割れた皿・・・・だった。

 どの破片にも、文字を刻んだあともなければ、インクのあとさえなかった。


「僕は、まったく、どうしようもない粗忽者でして」


 ホメロスは、すずしい顔で言った。


「使わせていただいた器を一枚、うっかり割ってしまったのです。危ないので、そこに埋めておきました」


 彼は昨日、陶片に呪文を書きつけるしぐさを見せたが、実のところは、爪の先で陶片をがりがりと引っかいていただけだった。

 実際の陶片の表面には、判別できるような傷は、ひとつも残っていない。

 本物の・・・呪詛・・ではない・・・・のだから、実際に呪文を刻みつける必要はなかったし、万が一『あやしげな術を使った』として訴えられたとしても、物的証拠を残していなければ、言い抜けることもできる。

 ちょうど今のようにだ。


「いや、しかし――いや、そんな――」


 皆の視線が集中した先で、プサウミスは魚のようにぱくぱくと口を開け閉めしてから、


「これは、陰謀だ! わたしは確かに聞いた・・・!」


 激しく左右を見回すと、かっと目を見開いて、夫人が立っているほうを指さした。


あの男・・・だ! あの男が、ついさっき、わたしに、この話を!」


 全員の視線が、一時にそちらへと集中した。


 夫人の背後で、天幕のかげに半ば身を隠すようにして立っていたのは、ひとりの奴隷だった。

 先ほど、天幕の入口の垂布をあけて審判団ヘラノディカイの到着をしらせた、あの男だ。

 彼は一瞬、棒立ちになり、それから、脱兎のごとく逃げ出した。


「捕まえろ!」


 プサウミスの裏返った声が響くと同時、その場にいた者のほとんどが、わっと一斉に駆け出した。

侍女たちや、マカリオンを抱いた乳母は、突き倒されないよう必死で人の流れを避けた。

 ホメロスもまた、獲物が飛び出すのを見た猟犬のように猛然と走ったが、それよりも、さらに先んじた者がいる。

 もっとも奴隷の近くに立っていた、夫人だ。


「待てぃッ!」


 気迫に満ちた叱声が飛ぶ。

 それに一瞬ひるんだかのように、奴隷の出足がにぶった。

 そこへ、狩りをする雌獅子のように、夫人が飛びかかった。


 相手の首に腕を巻き付けながら、全身で飛びかかり、脚をからめて動きを封じる。

 奴隷は両手で激しく宙をかいて体をひねり、夫人もろとも、横ざまに地面に倒れ込んだ。

 激しく繰り出された肘打ちが夫人のあばらにめり込み、夫人の口から苦悶の声がもれるのをホメロスはきいた。

 だが、皆が駆けつけて両者を引きはがすよりもはやく、夫人は手負いの獣の咆哮をあげながら両手でがっちりと奴隷の頭とあごとをつかみ、思いきりひねった。


 ごきりと嫌な音がして、暴れていた奴隷の体が一瞬に脱力した。

 円を描くように集まった人垣の中心で、夫人があばらを押さえ、うめきながら立ち上がったとき、首の骨を折られた奴隷は、すでに誰の目にもあきらかに息絶えていた。


「死んだ」


 プサウミスが呆然とつぶやき、次の瞬間には、舞台に立った役者のように声をはりあげた。


「この女が、殺した! スパルタの女が、聖なる休戦エケケイリアの期間中に、オリンピアで殺人をおかしたぞ!」


「殺人だと?」


 痛みをこらえて額に脂汗をうかべながらも、すばやくさし出したホメロスの片手をてのひらで拒み、自分の足だけで立ちながら、夫人は応じた。


「こやつは、わたしに仕える奴隷だ。それが愚かにも、主人を害した! わたしは相応の罰を与えたまで。殺人として裁かれる筋合いはない。それに、見るがいい。血は流れていない。このとおり、一滴の血も、オリンピアの地をけがしてはおらぬ!」


 腹の底からしぼり出すような夫人の声の気迫にうたれ、ふだんならば喧々囂々、ものもきこえぬほどに騒ぎたてていたであろう野次馬たちも、今は、しいんと静まり返っている。


「私は、あろうことか敵に通じて審判団ヘラノディカイに讒言を吹きこもうとした、心得違いの裏切り者を処罰しただけのこと! ここは聖域アルティスの壁の外ゆえ、我が家の奴隷が死のうが生きようが、だれひとりとして、文句は言わせぬ!」


 そう言った夫人の目がぎらりとプサウミスを見据え、プサウミスは思わずといったように一歩、あとずさった。


「貴様か? ……そうだな? 貴様が、我が家の奴隷を買収し、密偵にしたてていたのだ!

 そうだ、こやつに命じて、これまでの呪詛板を埋めさせたのも、アレウスを殴らせたのも、貴様だろう! だが、貴様の思いどおりにはならんぞ。アレウスは、明日の競技に出場する!」


「待て、待て! なんの話だ!?」


 プサウミスは審判団ヘラノディカイを見たり、野次馬たちを見たりしながら、大声で言った。


「知らん! わたしは、なにも知らん! この奴隷が、さっき、勝手に、わたしに近づいてきたのだ! 

 ……ははあ、そういうことか! 分かったぞ!」


 プサウミスは大仰に目を見開き、夫人を指さした。


「おまえたちだ。おまえたちが、わたしを陥れるために、罠をしかけたのだな! 何も書いていない陶片を地面に埋めておき、自分の奴隷に命じて、わたしに嘘の情報を流す。そうやって、わたしが審判団ヘラノディカイの前で恥をかくように仕向けたというわけだ! 

 仕上げに、こんなふうに奴隷を殺してしまえば、悪事の証拠は、なにひとつ残らない。いやはや、まいった、まいった! スパルタ人のずるがしこさには、お手上げだ!」


「何を言う!? この、大嘘つきの、臆病者めが!」


 怒り狂った夫人がプサウミスに襲いかかろうとするのを、ホメロスが立ちはだかって制止する。

 さすがの夫人も、あばらの痛みが治まらないのか、それ以上強引な動きには出ずに、おそろしい目つきでプサウミスをにらみつけた。


「つまるところ、今回のことは、誤解であったということですな?」


 審判たちが両者のあいだに割ってはいり、とりなすように、口々に言った。


「そこの奴隷が、金欲しさからか、つまらぬ嘘をついたと。それが、この騒ぎの原因だった。要するに、そういうことですな?」


「呪詛板は、なかった。誓約にそむくようなふるまいはなかった。なにも問題はありません」


「両者には、明日の戦車競走で、正々堂々と戦っていただく。それで、双方、よろしいな?」


「よろしいわけがあるものか! このような言いがかりをつけられて、プサウミス殿からの謝罪がないとは納得がいかぬ。我が夫、アルケシラオスがこのことをきけば、怒り狂うだろう!」


「なんだと? そちらこそ、奴隷を使ってわたしを陥れようとしておきながら、それが露見して開き直るとは、ずうずうしいにもほどがある!」


 と、夫人とプサウミスの言いあらそいは、ふたたび激化のきざしを見せたものの、


「双方とも、おしずまりなされ! 呪詛板はなかった。何の問題もなかった。これ以上のあらそいで、オリンピアの地の平和を乱すことはなりませぬぞ。そうなっては、我々は、双方を処罰せざるを得なくなります。どうか、双方とも、自制していただきたい!」


 というもっとも年かさの審判の一喝により、騒ぎはしずまった。

 審判のいった「処罰」が、鞭打ちなどという軽いものではなく、戦車の出走権の剥奪という重いものとなることは確実だったからである。


 審判団ヘラノディカイとプサウミスが去り、群衆は興奮ぎみにささやきあいながら解散した。

 それまで気力で立ち続けていた夫人は、そのときになって、とうとう糸が切れたようにその場にひざをついた。


「奥様! どうぞ、お楽に」


「薬草を! だれか、腫れをしずめ、痛みをとる薬草を持ってこい!」


「なんてこった、こいつがプサウミスの密偵だったなんて……死体はどうする?」


「待て、手を触れるな! アルケシラオス様がお戻りになるまで待つんだ」


「旦那様を呼びに走るか?」


「だが、今、祭壇をまわっておられる最中だろう?」


「ばか、今、そんなこと言ってる場合かよ! こいつは大ごとだぜ。行ってくる!」


 奴隷たちが、口々に言いながら走り回る。

 その騒ぎのなか、


「なぜ……」


 ホメロスはつぶやきながら、まるで白昼夢でもみている人のように、その場に突っ立っていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] おお、すごい騒ぎになっている……! そしてやっぱり奥様は強かった!笑
[一言] さすがスパルタの女……強い…… しかし、殺すまでしてしまうというのは、さすがに何か怪しさを感じる!
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