呪われたスパルタ人 16
ホメロスが駆け足でとってかえしたのは、アルケシラオス殿の天幕がはられた川原だった。
人々は選手たちを一目見ようと評議会場やさまざまな神々の祭壇のほうへ集まっているので、人影は今まで以上にまばらだった。
ホメロスは、今朝まですごしていた男たちのための天幕にではなく、女性たちが寝泊まりするための天幕へとまっすぐに足を向けた。
周囲には数名の奴隷たちがいて、天幕を守っていたが、
「これは、呪術師さま」
なかでもひときわ体格のがっしりとした奴隷が拳をかためてホメロスの前に立ちふさがり、慇懃にたずねた。
「こちらに何か御用でしょうか」
「夫人にお目にかかりたい」
「アルケシラオス様のお許しはありますでしょうか」
「いいや、許可をいただくひまがなかったものでね」
「それではお通しすることはできません」
他の奴隷たちもホメロスを囲むように集まってきた。
ホメロスは平然として言った。
「これは調査に必要なことなのだ。そして僕はアルケシラオス殿から、今回の件についての調査を全面的に任されている。それで、夫人から、すこしばかりお話をうかがいたいのだよ」
「あなたさまが何とおっしゃろうと、旦那様のお許しを得ずに、男をこの天幕に入れることはできません」
「君の職業意識の高さには敬服するが、あとのなりゆきによっては、その判断が、むしろ旦那様の心証を損ねることになるかもしれない」
「自分が受けている命令は、この天幕の入口を守ることです。その言いつけに背いて罰されるのと、言いつけを守って罰されるのとでしたら、自分はあとのほうを選びます」
ホメロスが強引に進み出ようとすると、奴隷もずいと前に出て、両者は試合開始の合図を待つ拳闘の選手のようににらみあった。
「手荒なまねはしたくない。通してくれたまえ」
「自分もあなたの歯を叩き折りたくはない。下がってください」
「昔チャリング・クロス駅の待合室でそれをやったマシューズというやつがいたが、僕のお返しでそいつがどうなったかを知れば、きみもすこしは怯むだろうね」
「本当に歯が折れてもまだそんなふうにおどかすことができるかどうか、やってみましょうか?」
こうして一触即発の事態となったとき、
「かまわん。通せ」
天幕のなかから、夫人の声がきこえた。
「しかし」
「聴こえなかったのか、それとも、わたしの命令がきけないのか?」
夫人の言葉に、奴隷は握りしめていた拳をさげて、神妙な態度でわきへどいた。
「それでは、失礼」
ホメロスは奴隷たちに一礼すると、天幕の入口の垂布を引きあけて中へ入った。
そこには夫人と、マカリオンを抱いた乳母と、夫人の侍女が二人いた。
「おまえたちはしばらく外にいるように」
夫人は乳母と侍女たちを外へ出すと、ひとりホメロスと向き合って立ち、
「何の用だ」
と居丈高にたずねた。
ホメロスはおだやかに笑って、
「あなたが評議会場へおいでになれなかったのは、じつに残念でした。口さがない者たちがアレウス君の悪評をたてることをきらって、行きたい気持ちをおさえておいでなのですね。心のうちでは、どんなにか、アレウス君の勇姿をごらんになりたかったことでしょう」
「勇姿だと?」
夫人はばかにするような調子で言った。
「スパルタの男にとって、勇姿とは、命をかけた戦いに勝利した姿をいうのだ。アレウスがそれを見せるのは、明日のこと。くだらぬ前置きは無用だ。用件を話せ」
「まずは、ねずみと犬が死んだときのことについて、くわしくお話をうかがいたいのです」
「なに?」
夫人は隠そうともせずに顔をゆがめた。
「そのようなことを聞いてどうする? どうせプサウミスのしわざに決まっているが、今となっては、もはや証拠をあげることもできぬのだ」
「アルケシラオス殿は、どちらのときも、家のそばから呪詛板が出たとおっしゃっていました」
ホメロスは夫人の言葉にはかまわず、質問をぶつけた。
「その呪詛板は、だれが、どのようにして発見したのですか?」
「だれが、だと?」
「そうです。呪詛板が埋められているのを最初に発見した人物はだれか、ということが知りたいのです」
「知らぬな」
「どうか、当時のことをよく思い出していただけませんか。アルケシラオス殿におたずねしてもよいのですが、お忙しいところを邪魔立てするのもどうかと思いまして。それに、奴隷たちひとりひとりにたずねてまわるのも、皆に無用の不安を起こさせることになるでしょうし」
「知らぬものは知らぬ。二度とも、わたしが見たときには、すでに呪詛板は掘りだされたあとだった」
「だれが掘りだしたのです?」
「知らぬと言っているだろう! 物のわからぬ男だ」
「『駆けつけたときには、すでにアルケシラオス殿が呪詛板を持っていた』と話した者がいます。アルケシラオス殿が、最初に呪詛板を掘り出したのでしょうか?」
「そうではないだろう」
「おや、なぜ、そのように言い切れます? あなたは、だれが最初に呪詛板を掘り出したのかは知らないと、何度もおっしゃったのに」
「あのとき、奴隷たちが、大騒ぎをしてアルケシラオスを呼ぶ声がきこえたからだ。どちらのときもな。わたしはその騒ぎをきいて機を織るのをやめ、部屋を出ていったのだ。そして、アルケシラオスが呪詛板を持っているのを見た」
「やはり、アルケシラオス殿が呪詛板を持っていたのですね」
「だが、掘り出したのは、彼ではないぞ。奴隷たちがアルケシラオスを呼んでいたと言っただろう。だとすれば、アルケシラオスは、はじめはそこにはいなかったということになる。彼は、あとからそこへ来て、最初に掘り出した者から、呪詛板を受け取ったのだ」
「あなたのお話が確かだとすると、最初に呪詛板を見つけた者は、奴隷たちのうちのだれかであったということになりますね?」
夫人は、ちょっと虚を突かれたような表情を見せた。
「それは、確かにそうだ。そういうことになる」
「奴隷たちのうちのだれか。……だれです?」
「しつこい男だな! なぜ、わたしがそれを知ると思う? 部屋のなかにいて、おもてで騒ぐ声をきいただけなのだから、だれの声であったかなど、分かりようもない」
「なるほど」
ホメロスは上機嫌に言った。
「いや、これは、たいへん参考になりました。お話のおかげで、調査の輪がひとつ狭まったわけです」
「それはよかった。出ていくがいい」
夫人は出口を手で示したが、ホメロスは動かなかった。
「お時間をとらせて申し訳ないのですが、うかがっておきたいことは、まだあるのです。いえ、重大さの点からみれば、むしろこちらのほうが本題と申せましょう」
「ならば先にそれを話さんか!」
「失礼。スパルタ流の弁論の訓練では、僕は落第ですね」
「罰として親指の付け根を噛まれているだろう」
「では、噛まれる前におたずねしましょう。ぜひとも率直なところをおきかせください。あなたは、いったいだれが呪詛板を埋めたとお考えですか?」
夫人は、この外国人は気でもふれたのだろうかという顔をした。
「カマリナのプサウミス以外に、考えられる者がいるか?」
「逆です。カマリナのプサウミスがやったことだなどとは、まったく考えられません」
「なに? おまえは、いったい何を言っているのだ?」
「一枚目の呪詛板……ある女奴隷が死んだときの呪詛板について、申しあげています」
その瞬間の夫人の動揺は激しかった。
彼女は目を見開き、胸を押さえた。
よろめいて、危うく倒れそうになるところを、ホメロスがあやうく腕をつかんで支えたが、夫人はそれを振り払うことも忘れているようだった。
「なぜ……」
「なぜ、僕が、この出来事について知っているのか? それは、アルケシラオス殿が話してくださったからです。ある女性が死に、その直後に、彼女の死を願う呪詛板が見つかったのだと」
「見つかった? いや、そんなはずは」
「いいえ、あの呪詛板は、発見されたのです。アルケシラオス殿の母上によって。
ある人物が、その出来事を目撃していたのです。そして、そのことを僕に話してくれました」
その場に座りこんだ夫人の顔色は、いまや死人のように青ざめていた。
「僕に、この話をきかせた人物は、こんなふうに言っていました。アルケシラオス殿の母上が、呪詛板を掘り起こし、奴隷に命じて捨てさせるのを見た、と」
「では、本当に、お義母さまが……」
「そうです。そのようすを目撃した人物は、アルケシラオス殿の母上こそが、呪詛板を埋めた犯人ではないかという疑いを抱いていました。
しかし、僕は、そうではないと考えました。なぜなら、一度埋めた呪詛板を、埋めた当人がその場所から掘り出すなどということは、ふつうはありえないことだからです。地下の神々に呼びかけて捧げたものを、自分で取り下げるなどというのはね。
では、アルケシラオス殿の母上は、なぜ、そんな行動をとったのか?
奴隷に命じて捨てさせたということから、その行動の目的は、呪詛が行われた事実の隠蔽であったと考えられます。では、何のために? 彼女は、いったい何を……誰を、守ろうとしたのか?」
ホメロスは、夫人をじっと見おろした。
「馬と戦車を維持できるのは、大金持ちだけだ。ましてや、オリンピアの競技祭に出場できるほどの馬たちをそろえるなどというのは、有数の名家にしか不可能なことです。そんな家の息子が結婚するにあたっては、本人の恋心など問題ではない。熟慮をかさねて取り決められた、家同士の約束があったはずです。
アルケシラオス殿には、婚約者がいた。それが、あなたです。
ゆくゆくは自分の夫となるべき人が、ある女性と――それも身分違いの女性と恋に落ち、子供までもうけようとしている。僕は、恋愛感情に関しては専門家であるとは言えませんが、このような出来事が相手の女性を呪うのにじゅうぶんな動機となりうることは、容易に想像がつきます」
「そのとおりだ」
夫人は、ぽつりと言った。
「わたしたちの結婚は、一族どうしの取決めだった。だが、わたしは、彼を愛していた。親が決めた結婚の相手だからというだけではなく、ほんとうに、彼を愛していたのだ。それなのに」
腕が震えるほどの力でこぶしをにぎり、夫人はうめいた。
「わたしは、彼が、奴隷の女と忍びあっているところを見てしまったのだ。何も見なかったことにしよう、忘れようと思った。だが、女に、子ができたと……」
彼女は跳ねあがりそうになる声をなんとか抑え、そのかわりとばかりに、自分の腿を力いっぱい拳で打った。
「許せなかった。彼の子を生むのは私だ。それは、スパルタの女である私の役目だ! それなのに、奴隷ごときが」
「だから、彼女を呪ったのですね」
「そうだ。認める。わたしが呪詛板を埋めた。わたしが、あの女と赤ん坊を呪い殺したのだ……」
夫人の言葉に、ホメロスはうなずいた。
「アルケシラオス殿の母上は、おそらく、おおよその事情をさとっておられたのでしょう。もしかすると、あなたが呪詛板を埋めている、まさにその現場を目撃なさっていたのかもしれない。
とにかく彼女は、奴隷の女性よりも、スパルタ人の娘であるあなたに肩入れをした。将来の息子の妻となるあなたを、悪い評判から守ろうとしたのです。だから、自分の手で呪詛板を隠蔽したのですよ」
「ホメロスよ」
夫人ははじめて彼の呼名を口にし、その衣のすそに手をかけた。
「頼む、このとおりだ。おまえの膝に手をかけて嘆願する! どうか、このことは、アルケシラオスには話さないでくれ。このことを知れば、彼は、けっして私を許さぬだろう……」
「どうか立ってください、さあ」
ホメロスは夫人の手をとって立ち上がらせ、
「僕の目的は、あくまでも真実を追究することにあるのであって、けっして、いたずらにあなたを苦しめようとするものではないのです。
これまでに見つかった四枚の呪詛板のうち、はじめの一枚に関する件だけが、どうにも異質だった。その一枚に関する事情が、これで明らかになったわけです。
そして、この出来事のくわしい経緯を公表する必要があるとは、僕は考えておりません。かつて、不幸な女性がひとり、出産の経過が悪かったために亡くなってしまった。この一件は、そういうことです」
「では、秘密を守ってくれるか」
「紳士の――いえ、誓いのゼウスにかけて。
しかし、問題は、残る三枚の呪詛板です。これらはほぼ同一犯によるものと見ていい。そして、これらを埋めた犯人は、明らかに、この家のなかにいる」
「何だと?」
夫人は目を丸くした。
「ばかな! ありえぬ。だれが……そもそも、いったいなぜ、そんなことをする必要があるのだ!?」
夫人にこたえてホメロスが口を開きかけた、まさにそのとき、天幕のおもてから、大勢の騒ぎたてる声がきこえてきた。