呪われたスパルタ人 15
朝日に照らされた評議会場前の景色は壮観だった。
神々の像にも似て美しい体つきの男たちが、続々と集まってくる。
美しく鍛え上げた腿や脛をオリーブ油で光らせた走者たち。
牡牛のようにがっしりとした体格を見せつける、レスリングや拳闘の選手たち。
やや小柄で鞭のように引き締まった体つきをしているのは、騎手たちや御者たちだ。
ともにオリンピアにやってきたコーチや家族たち、見物人たちが人垣をつくって見守るなか、選手たちは列をなし、緊張と晴れやかさのまじった面持ちで評議会場へと入っていった。
アルケシラオス殿とアレウスも、戦車の持ち主と御者として、ともに石段をのぼってゆく。
外に残された者たちは、あけはなされた扉から、なかの様子をうかがい知ることができた。
選手たちを出迎える、あるいは威圧するかのように堂々と立つ青銅の神像は、誓いのゼウスだ。
像の両脇には、紫の衣をまとった審判団がいかめしい面持ちで並び、選手たちを待ちうけている。
選手たちは順にゼウス神と審判団の前へと進みでて名乗りをあげ、自分が十ヶ月のあいだ鍛錬に励んできたこと、定められた規則にのっとり競技を行うことを、供物として捧げられた猪の肉にかけておごそかに誓った。
評議会場のなかには、カマリナのプサウミスと、その御者の姿もあった。
彼らはそのきらびやかないでたちで注目を集めながら、あえてアレウスたちのほうを一度も見ようとはせずに、堂々と宣誓の儀式を終えて下がっていった。
「いよいよ明日、運命が決する」
アルケシラオス殿の関係者一行にまじって宣誓の儀式を見物していたホメロスは、急に横をむいて、そうささやきかけた。
おどろいたように見返したリカスに、ホメロスは愛想よく笑いかけ、身ぶりでついてくるようにとうながした。
人垣からすこし離れ、人に聞かれる心配のないあたりまで下がると、ホメロスはさっそく、
「リカス君、きみは、どういう結果になると思うかね?」
とたずねた。
「それは、もちろん、アレウス様が優勝なさるにきまっています。私たちはみな、そう信じています」
リカスの返答に、ホメロスはうなずいた。
「まったくたいした若者だ。こんな状況だというのに、顔色ひとつ変えないのだから」
「ええ、アレウス様の肝の据わっていることといったら、おどろくばかりです。ひいき目で申すのではありませんが、同じ年頃のスパルタの若者のなかでも、あれほど度胸のある方はなかなかいらっしゃいません」
「おや、僕は、きみのことを言ったつもりだったのだよ」
「私の?」
リカスは怪訝な顔でホメロスを見た。
ホメロスは、その目をじっと見返した。
「昨夜と今朝、僕はアレウス君たちと食事をともにした。そのとき、きみがアレウス君の食事の毒見をしていたのを、僕は見たのだ。
アレウス君はいま、何者かに命を狙われている。だとすれば、毒見役のきみの危険もいっそう大きくなるわけだ。それなのに、きみは、慎重にではあったが、まったく怯えることなく食べ物や飲み物を口にした」
ホメロスは言いながら、リカスの反応を詳細に観察していた。
この状況で、なぜ、毒見の役目に恐怖を感じなかったのか。
それは「この食事には毒は入っていない」と、彼自身が知っていたからではないのか?
「きみはまるで、敵を目の前にしたスパルタの戦士みたいに落ち着きはらっていたよ。なぜ、あんなふうに泰然としていられたのかね?」
「それは、慣れておりますので」
「え?」
リカスの返答には、不自然な間も、声のかすれも、視線の揺れもなかった。
「あの方が――アレウス様が、オリンピアの競技祭に出場なさることが決まってすぐのころから、毎日、私が毒見役をつとめてきました。もう、習慣になっております」
「おや、それは……ほう……」
ホメロスは両手の指先をあわせ、軽く打ち合わせた。
「そうだったのか。それはまた、どうしたきっかけで、そうすることに決まったんだね? 誰が言いだしたんだ?」
「私が自分で、アレウス様に申し出ました。ねずみが死んだからです」
「それでは」
ホメロスの目が鋭くなり、ほとんどリカスをにらみつけているようになった。
「きみは、その時点で、ねずみたちは毒によって死んだものと判断していたことになるね」
「はい。しかし、旦那様は、呪いによって死んだと考えておられます。現に、呪詛板も見つかっておりますし」
「呪詛板が出たにもかかわらず、ねずみたちは毒によって死んだと、きみが考えたわけをきかせてくれたまえ」
「私は、一匹のねずみが死ぬ、まさにその瞬間を、目の前で見たのです。私は、幼い頃は羊飼いの家におりました。まちがえて毒草を食べた羊が死ぬところを、この目で見たことがあります。ねずみの死に方が、そのときの羊にそっくりだったのです。泡をふいてもがき、やがて、体全体をつっぱらせて……」
「黒犬メランプース君の気の毒な兄弟犬も、同じようにして死んだのだったね」
「そうです」
「そのときにも呪詛板が出たはずだ。それでも、呪いによる死だとは考えなかったのかね」
「むしろ、同じ毒が使われたという確信をもちました」
「なぜ? 死に方が似ていたからかね?」
「はい、それに……同じにおいがしたのです」
「におい?」
「ねずみたちが死んだ日、屋敷のなかで、独特のにおいを感じたのです。そのときには気にもとめませんでしたが、犬が死んだとき、同じにおいを感じて、ぞっといたしました」
「しかし、犬はにおいには特に敏感なものだ。仮に、その毒物に人間が感じるほどの臭気があるのだとしたら、メランプース君の兄弟犬が、それをうかつに飲みこんだりするだろうか?」
「食べ物のにおいではありません。死骸から……死骸そのものから、においを感じたのです」
「なるほど。確かに、胃液と反応することによって独特の臭気を発する毒物は存在する。きみが感じたというのは、そういう種類のにおいだったのかもしれない。
リカス君、きみは、その考えを……つまり、ねずみたちや犬は、毒によって死んだのではないかという考えを、他の人間に話したことは? たとえば、アレウス君に」
「いいえ! とんでもない。それでは、まるで」
リカスは、言いかけた言葉をのみこむようにして、中途で口を閉ざした。
「それではまるで、内部の者の犯行だと言っているようなものだから、かね?」
リカスはあいまいに、察してくれというような身振りをした。
ホメロスは、さらに切り込んだ。
「どうやら君にはすでに、毒を使った犯人の目星がついているらしい」
「いいえ……そのようなこと、とんでもない」
「家のなかに、アレウス君が競技祭で優勝しないことを望むものがいる?」
「まさか!」
「いいや」
ホメロスは輝ける目のアテナ女神のごとき鋭い視線でリカスを見据えた。
「君は今、嘘をついている。視線の動きも身ぶりも、先ほどまでと、まるで違っているよ。
君は最初から、毒を使った者を知っていた、あるいは見当がついていたのだ。そうでなければ、ねずみがたくさん、おそらくは毒によって死んだからといって、どうしてアレウス君の毒見を買って出る必要があるのだ?
犬の一件が起きたあとというならば、まだわかる。だが、ただねずみが死んだというだけで、君はその出来事を、何者かによる単なる嫌がらせではなく、アレウス君を狙う者のしわざだと、はっきり判断したのだ。だからこそ、アレウス君を守るために、みずから毒見を買ってでた。
ずいぶんと一足飛びの判断だよ。犯人と、その動機とに、まったく心当たりがないにしてはね」
いま、やリカスは目に見えて動揺していた。
ホメロスはずばりと言った。
「話したまえ。君が知っていることを、なにもかも包み隠さずに。もしも、君が、本心から、アレウス君の助けになりたいと考えているのなら」
ホメロスのその言葉で覚悟が決まったというように、リカスは顔をあげた。
「このことは、あなたさまお一人の胸にしまっていただきたいのです。けっして他言はしないでいただきたいのです。特に、アレウス様には」
「わかった。紳士の名誉にかけて誓おう」
「しんし?」
「誓いのゼウスにかけて」
「それでは、申しあげます。私は、旦那様を――アルケシラオス様を、疑っております」
さしものホメロスも、この告白にはすこし目を見開いたが、それ以上表情を動かすことなく、ゆっくりとたずねた。
「なぜ?」
「私は、ねずみの一件が起きる、ほんの数日前に、旦那様が、ある客人と密談をなさっているのを聞いてしまったのです。聞こえたのは、とぎれとぎれにでしたが、話の内容ははっきりしていました。
客人は、旦那様に、今回のオリンピア競技祭での勝利を譲るようにと持ち掛けていたのです。そのために、アレウス様を御者として出場させないように、と」
「ある客人というのは、誰だ?」
「誰かは存じません。顔を隠していたのです。ただ、話す言葉は、スパルタなまりではありませんでした」
「カマリナのプサウミスではなかったかい?」
「わかりません。しかし、客人は一人でした。プサウミス殿本人ならば、一人で出歩くということはないでしょう。ただ、プサウミス殿が、配下の者をよこしたということはあるかもしれません」
「なるほど。アルケシラオス殿は、それに対して、なんと答えていた?」
「むろん、断っておいででした。しかし、客人はしつこく要求をくりかえし、黄金と引き換えに、勝利を譲るようにと迫っていました」
「その話は、最終的には、どのように決まったのだね?」
「わかりません。ちょうどそのとき、誰かが近づいてくる気配がして、それ以上は立ち聞きをすることができなかったのです。
私は、どうしていいか分からず、途方にくれました。アレウス様は、父上をたいへんに尊敬しておられます。こんな話を私の口からお聞かせするわけにはまいりません。ですが、そうこうしているうちに――」
「ねずみたちが死んだ?」
「ええ、そうです。私は、すぐに旦那様を疑いました」
「アルケシラオス殿が、毒を手に入れ、それを使ったのではないかと考えたのだね」
「そのとおりです」
「父親が、金のために、息子を殺そうとしたと?」
「いや、それは……殺そうとしたとまでは……いえ、私には、わかりません。ねずみや犬を殺したのは、ただ、アレウス様に恐怖を抱かせ、競技祭への出場をあきらめさせるための脅しだったのかもしれません。
ですが、アレウス様はあのとおりの御気性です。物静かでいらっしゃいますが、おそろしく肝の太い方で、脅しなど、まったく気にかける方ではないのです。私は心配でした。アレウス様が、どうあっても出場をあきらめる気がないとわかれば、もしかしたら――」
「最終手段として、本人に対して毒を使うかもしれない、と」
「はい、考えたくはないことですが」
「それで、今日まで毒見を続けてきたわけか。見上げた心がけだが、なぜ……いや、こんな言いかたをするのもなんだが、なぜ、そこまでするんだね? 主人に対する忠誠は一般的な美徳だが、命をかけてまでそうする者は、実際にはまれだ。何か、特別な理由でも?」
「私は、あの方に命の借りがあります」
まじめな顔でリカスはそう答えた。
「あの方に、命を救っていただいた御恩があるのです。私は、それを返したいと思っているだけです。しかし、私は従卒失格ですね。アレウス様が後ろから殴られたときに、おそばにいることができなかった。毒のことばかりを気にかけていたせいです」
リカスは無念そうに首をふり、まっすぐにホメロスを見た。
「ホメロス様、あなたには、私たちには見えないものが見えるのでしょう? アルケシラオス様の心を覗いて、ほんとうに旦那様がアレウス様を狙ったのかどうか、確かめていただけませんか。
そして、もしも、旦那様がほんとうに……もしも、そのことを、旦那様が後悔していらっしゃるのでしたら……そのときは、どうか、命を助けてさしあげてください。忌まわしい話が、アレウス様の耳に入らないようになさってください。
あなたの術の期限は、明日でしたね? もしも、父上があなたの呪術で亡くなるようなことになったら、アレウス様は、心にどれほどの痛手を受けられることか。どうか――」
リカスはなおも言いつのろうとしたが、そこで、ちょうど宣誓の儀式を終えたアレウスとアルケシラオス殿が評議会場から出てきた。
「リカス君、最後に、ひとつだけ教えてくれ。ねずみが死んだとき、呪詛板を最初に地面から掘り出したのは誰だったか、きみは見たかい?」
「え? ……いいえ。私は、騒ぎをきいて駆けつけたのです。そのときには、旦那様が呪詛板を手にしておられ、屋敷じゅうが大騒ぎになっていました」
「わかった。リカス君、これからも、けっしてあの親子から目をはなさないでくれたまえ」
「え、どこへ行かれるのです? これから、皆で祭壇をまわって――」
「すまないが時間がない。頼んだよ!」
あわてて呼び止めるリカスにそれだけ告げると、ホメロスはさっさと人のあいだを抜けてその場を離れ、次の目的地に向かって走った。