呪われたスパルタ人 13
ホメロスはおもむろに空を見上げ、アレウスに視線をもどした。
「そろそろ日が傾いてきた。調査の続きは、明日にしよう」
「なに? そんな、悠長なことでいいのか。試合は明後日だぞ」
「事件の捜査は、戦と同じさ。ときには待つことも大切なんだ。その時間こそが、相手を苦しめ、弱らせることになる場合もある」
「そうか」
アレウスはうなずいたが、その表情には、いくらかの陰りがあるように見えた。
「不安なのかい?」
「そうではない」
ホメロスの言葉を、アレウスは即座に打ち消した。
スパルタの男にとって、我が身の安危を心配して表情をくもらせたなどと思われるのは、心外の極みなのだ。
「何の手柄もあげずに戻ったとあっては、母上がおまえに手厳しいことをおっしゃるだろうと思ったのだ。だが、気にしないでくれ。母上は、雌獅子の心をお持ちなのだ」
「まさしくね」
ホメロスは苦笑した。
「気になどしないさ。……ああ、そういえば、夫のいる女性はオリンピア競技祭を観戦することができないのだったね。それなのに、わざわざ母上がここまでいらっしゃったというのは、やはり、呪詛板の件で、君の身を心配してのことなのだろうね?」
アレウスは一瞬、言葉につまったが、やがて、ためらいがちにうなずいた。
「母親につきそわれてオリンピアに来るなど、スパルタの男にとって、名誉なこととは言えないがな」
「カマリナのプサウミスが君をからかったことを、気にしているのかい?」
ホメロスは、あえて軽い口調で言った。
「それこそ気にすることはない。母親が我が子を守るために、一時も目をはなさずにいようとするのは、自然の摂理というものだ。それを止めようとしたって無駄だからね。
母上が、赤ん坊のマカリオン君を一緒にオリンピアへ連れてきたことが、いい例だ。マカリオン君だけを家に残して、万が一のことがあってはと心配なさったのだろう」
「そうだ」
うなずいたアレウスは、また、何事かためらうように口を閉ざしてから、すぐに思い切った顔でホメロスの目を見た。
「ホメロス、このことは、けっして口外しないでもらいたいのだが。俺の弟は、あまり体が強くないのだ。この長旅が、むしろ弟の体によくないのではないかと、俺は心配だ」
ホメロスは、アレウスの打明け話に真摯な表情で耳をかたむけた。
この時代、スパルタに限らず、生まれてくる子供たちは、強健でなければそもそも養育されることはなかった。
生まれた時点で、丈夫に育つ見込みが薄いと判断されれば、そのまま捨てられてしまうことも当たり前なのだ。
特に、すべての男子が強靭な戦士となることを求められるスパルタでは、選考はさらに厳しいものとなった。
たとえ親が育てると決めたとしても、長老たちによる審査を通過しなくては、養育は許されない。
どうやらマカリオンは、審査にぎりぎりで合格したらしい。
あるいは、アルケシラオス殿の――間接的には、奥方からの――働きかけによって、なんとか合格することができたのか。
「けっして口外しないと、ゼウスにかけて誓うよ」
ホメロスはアレウスの目を見て言った。
弱さを恥とする風潮の強いスパルタで、アレウスがこのことを打ち明けたという事実は、彼が、ホメロスを心底から信頼したことの証でもあった。
「マカリオン君は、きっと大丈夫だ。きみの弟なのだからね」
ホメロスは心をこめてアレウスの腕を軽くたたくと、
「さあ、明日は早朝から、評議会場での宣誓の儀式があるんだろう? 今日はもう天幕に戻って、明日に備えようじゃないか」
とうながした。
「ホメロス、宣誓の儀式には、おまえも来てくれるか」
「ああ、そのつもりだ。ところで、きみは儀式のあと、どんなふうに過ごすつもりでいる?」
「父上とともに、神域にまつられる神々の祭壇を回り、勝利を祈願する予定だ」
「それらをすべて終えるには、どれくらいかかる?」
「真昼を過ぎるころには、天幕に戻れると思う。だが、はっきりとは、わからない。そのあとには、何の予定もない。明後日の本番に備えるだけだ」
「わかった。それなら、僕は宣誓の儀式で君の勇姿を拝見したあと、しばらくは、単独行動をとらせてもらうよ。
いや、心配しないでくれたまえ。昼下がりに、天幕で落ちあおう。それまでに、少しでも調査を進めておくよ。君がいうように、本番は明後日にせまっているのだからね」
「わかった」
今度はアレウスのほうが、ホメロスの腕を叩いた。
「ホメロス、おまえも気をつけろ。俺を狙う者にとって、おまえは邪魔だ。相手は、おまえを先に狙ってくるかもしれない」
「そういう経験は、いやというほど積んでいる。ライヘンバッハに二度落ちるつもりはない」
「ライヘ……なんだって?」
「いや、何でもない。いいかい、それよりも、このことをかならず守るようにしたまえ。まずは、僕がいないあいだ、何があってもひとりにならないこと。二人でも危ない。かならず、三人以上で行動するんだ」
「わかった」
「それから、さしだされた食べ物や飲み物を口にしないこと。知らない人間からはもちろん、家族から手わたされたものであってもだ。どこで、だれが細工をしているか、わからないのだからね。どうしても口にする必要がある場合は、だれかに毒見をさせてからにするんだ」
「わかった。かならず、そうしよう」
「ああ、かならずね」
* * *
夜になり、歩哨に立つ者以外は、みな眠りについたころ、アルケシラオス殿の天幕からわずかに離れた暗がりで、しずかに地面を掘り返す者があった。
「何をしている?」
背後からそう問われて、ホメロスは、地面を掘るための板切れを持ったまま、ゆっくりとふりかえった。
「ああ、来てくださいましたね。約束どおり、ここへ来ることを、だれにも話していないでしょうね?」
「うむ」
ホメロスはするどい目で周囲を見回し、近くに何者もひそんでいないことを確かめると、手にしていた板切れを地面に置き、かわりに、布の包みを持ち上げた。
「ちょうど、これを埋めようと思っておりました。呪詛返しに用いた陶片です」
「なるほど」
アルケシラオス殿は、ホメロスが包みを地面に埋め終えるのを待って、
「ききたいことというのは、何だ」
と言った。
「あなたは、いまの奥方に、たいへん愛され、かつ、尊敬されておいでですな」
両手についた土をおもむろにはらい落としながら、ホメロスは言った。
「僕とあなたとが争っているときに、天幕の入口のすきまから、女性の衣のすそが見えていましたよ。
ただ、あなたを愛しているだけの女性ならば、そのときに飛び出してきたでしょう。しかし、奥方は、そうはなさらなかった。スパルタの男が、よそ者と戦って、妻に庇われたなどということになったら、あなたの名誉に傷がつくと考えたからでしょう。あなたを愛しているだけでなく、深く尊敬なさっているからこそ、そうしたのです」
ホメロスの話を、アルケシラオス殿は表情をかえずに聞いていた。
やがて、彼は、静かに言った。
「いまの、というのは、どういう意味だ?」
ホメロスは微笑んだ。
「アレウス君は、たいへん立派な息子さんです。あなたの跡取りとして、非の打ち所がない。しかし――はっきりと申しあげますが、あなたには、アレウス君よりも年長の、別の息子さんがいるのではありませんか?」
その言葉を耳にした瞬間、アルケシラオス殿の体がゆらいだ。
彼はそれ以上の動揺をあらわすことを懸命にこらえ、なんとか最初の衝撃から立ちなおると、
「なぜ、わかった? このことは、だれにも話したことはないというのに」
と言った。
「変装を見抜くときと同じです」
ホメロスは自分の顔の前でひらひらと手を動かしてみせながら答えた。
「僕は職業上、相手の顔を、髪や髭などの付属物をのぞいて、ありのままに観る訓練を積んでいます。
リカス君の顔の骨格は、アレウス君以上にあなたに似ているといってよかった。前頭骨の傾斜の具合や、眼窩上部の発達のしかたなんか特にね。
息子がいるのならば、その母親となった女性もいるはずです。その女性は、奥方ではありえない。同じ母親から生まれた息子のうち、ひとりは奴隷、ひとりは跡取りというのでは不自然すぎます。だからこそ、僕は、いまのと申しあげたのです」
アルケシラオス殿は、呼び起こされた過去の苦みに耐えるように顔をしかめていたが、やがて、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「若い頃――わしが、まだ兵舎暮らしだった頃、愛した女性がいた」
「いた、というのですか?」
「死んだのだ。彼女は、我が家の奴隷だった。彼女は俺の子を身ごもった。赤ん坊は生まれたが、彼女は産褥で死んでしまった」
「スパルタに限らず、市民と奴隷との結婚はありえないはず。あなたは『愛した』とおっしゃったが、それはあなたの自己満足では? 相手の立場では、断ることもできなかったでしょうに」
アルケシラオス殿の首筋に太い血管が浮きあがり、頬がさっと紅潮したが、彼は大きく息をつき、しずかに言った。
「彼女は……いや、それは、わからん。いまとなってはな。だが、わしは、彼女の死を嘆いた。それはほんとうだ」
ホメロスはうなずいた。
「あなたは昼間に『昔、親しかった者が死んだ。そのすぐ後に、その者を呪う呪詛板が見つかった』とおっしゃった。それは、いま話しておられる女性のことでしょうか?」
「そのとおりだ」
「彼女を呪った犯人に、心当たりは?」
アルケシラオス殿は周囲をうかがい、だれもいないことを確認した。
「けっして他言はするな」
「ええ、けっして」
「彼女を呪ったのは、わしの母上であったのではないかと思う」
「そう考える根拠となる出来事が、何かあったのですか?」
「母上が、地面を掘り起こし、呪詛板を取りだしておられるところを、この目で見たのだ。
そのときは、それが呪詛板だとはわからなかった。母上が奴隷に捨てておくようにと言いつけておられるのを聞き、あとで確かめたら、そこに彼女の名が刻まれていたのだ」
「彼女を呪ったのが、母上であったとすれば、動機は何であったと考えられますか?」
「どうき?」
「ええ。つまり、母上は、なぜ、彼女を呪ったのでしょう?」
「彼女は、身ごもったことが明らかになっても、父親はだれかわからないと言い張った。だが、子供の父親が俺であることを、母上は勘づいたのかもしれぬ。
母上は、たいへん誇り高い方だった。奴隷が自分の血をひく子を生むことが、許せなかったのだろう。彼女には、かわいそうなことをした……」
「そのときの赤ん坊が、リカス君なのですね」
「そうだ。赤ん坊は――リカスは、わしの父によって、山に捨てられることに決まった。わしは、その決定に口をはさむことはできなかった。
だが、リカスをそのまま死ぬに任せることは、わしにはどうしてもできなかったのだ。わしは、捨てられたリカスを拾って、羊飼いに預け、その者の家で養育するように頼んだ」
「やがてあなたは、成長したリカス君を引き取り、跡取り息子であるアレウス君の従卒につけた」
「ああ。母上も、父上もこの世になくなり、遠慮することもなくなったからな」
「アレウス君は、このことを知っているのですか?」
「まさか! 知るはずがない。このことは、誰にも話したことがないのだ」
「奥方にも?」
「むろんだ」
「リカス君本人が、みずからの出自に気づいているという可能性はありませんか?」
「それはない。このことは誰にも話したことがないと言ったであろう」
「ですが、あなたは彼を羊飼いに預けて育てさせたのでしょう? 彼らの口から、リカス君の過去が、断片的にでも本人に伝わったということは考えられませんか?」
「リカスを預けるとき、わしは、自分の子だとは話さなかったぞ」
そこまで言って、不意に、アルケシラオス殿の顔色がかわった。
「ホメロスよ……まさか、おまえは、アレウスの命を狙った犯人は、リカスだといいたいのか?」
「まだ、わかりません。これは単なる推測であって、証拠は何もないのです」
ホメロスは言った。
「ただ、彼がもしも自分の出自に気づいているとしたら、彼には、犯行の動機があるということになります。同じ父親の息子でありながら、自分とはあまりにも立場が違うアレウス君への嫉妬ですよ。
アレウス君は、非の打ちどころのないスパルタの若者であり、あなたから息子として愛され、オリンピアの輝かしい舞台に立とうとしている……」
「ばかばかしい!」
思わず大声をあげてから、アルケシラオス殿はあわてて声をひそめた。
「リカスが、アレウスを殺そうとするなど、ありえん。リカスはアレウスに忠実に仕えている」
「ええ、兄が、弟にね。もしも真実を知れば、驚きと嫉妬が、憎しみにかわるには、じゅうぶんだと思いませんか」
アルケシラオス殿は、はっとして天幕をふりかえった。
いまこの瞬間にも、そこで眠っているはずのアレウスに、リカスが足音を殺して近づいていくのではないかと危ぶんだようだった。
「その心配はありません。ほら」
ホメロスは、まばらな木立のむこうに、かすかに見える人影を指さした。
「リカス君なら、あそこにいますよ。黒犬のメランプース君をつれてね。あそこに立って見張りをするよう、僕が頼んだのです。そうすれば、ここからよく見えますから」
「なるほど」
「こうは申し上げましたが、リカス君がぜったいに犯人だという確証はありません。あくまでも、その可能性がある、ということです。
僕はふだん、確信がもてるまでは自分の推理を口にしない主義で、それをワトスン君にもたびたび非難されるくらいですが、いまは、あらゆる可能性を考慮にいれ、アレウス君を守ることが先決です。だから、あえて不確実な段階で申したのです」
「わとすん?」
「ああ……いえ、僕の友人です。大切な。
とにかく、このことでリカス君を直接問いつめるようなことは、お控えください。疑いを、態度に出すのもいけません。彼が無罪であるならば気の毒ですし、逆に有罪であるならば、決定的な証拠をおさえるまでは泳がせておくのです。
夜明けには、評議会場での宣誓の儀式がありますね。儀式のあいだも、そのあとも、アレウス君をしっかり見守り、けっして目をはなさないようになさってください」
「わかった。かならず、そうしよう」
「ええ、かならず」