呪われたスパルタ人 11
今だ、今だ、はやく、はやく! の言葉をホメロスが言いおえるよりもはやく、乳母が卒倒した。
彼女はどすんと座りこむように倒れ、あおむけにひっくり返ったが、赤ん坊はしっかりと抱いたまま、はなさなかった。
「ばかもの!」
夫人が金切り声をあげ、またもや泣きだしたマカリオンを倒れた乳母の手からひったくった。
「あぶない! 何をしている!?」
「ワト――じゃない、アレウス君、ブランデー! いや違った、ワインを!」
「申し訳ありません、申し訳ありません」
倒れた衝撃で逆に意識をとりもどしたらしく、乳母はもうろうとした様子で、そうくりかえした。
どうやら、夫人にわびているらしい。
「まったく! マカリオンにけががなかったから、よかったようなものの! これで頭でも打っていてみろ! おまえの頭を叩き割るくらいでは、すまないのだぞ!?」
「ほんとに申し訳ありません、奥様……」
「飲め」
アレウスが乳母に、葡萄酒の入った器をさしだす。
だが、スパルタ人の彼が走って酒を注いできたわけではなく、実際に走ったのはリカスだった。
「申し訳ありません、ほんとに……」
「おい」
不意に、アルケシラオス殿が緊張した声を発した。
「まさか、この女が? ホメロスの術が、効きめをあらわしたということなのか?」
一瞬、ぽかんとした乳母は、次の瞬間、頭がもげそうな勢いでかぶりを振った。
「ち、ち、ちがいます、ちがいます、旦那さま! ただ、気が遠くなっただけです! こちらのお方が、あんまり恐ろしいことをおっしゃるもので……」
「たしかに、ご婦人にはいささか刺激が強すぎたかもしれませんな」
ホメロスはそう言い、手をさしだして乳母を助け起こした。
「アルケシラオス殿、今の失神は、僕の術によるものではありません。僕がこう言ったのをお聞きになりませんでしたか? 『今より三度目の太陽が昇るとき、見えざる虫がその者の体内で孵り』……とね。とても、こんなものではすまない」
アルケシラオス殿が、おう、と口を開けているあいだに、ホメロスはさっさとかがんで、叩き割った皿の破片を拾いあつめた。
「どうか、そのまま。それは私が」
従卒のリカスが慌てて近づいたが、
「来てはいけない! けがをするよ」
ホメロスは強く制止し、注意深くすべての破片を集めおえると、腰紐にはさみこんでいた布をひらいて、重ねた破片をていねいに包んだ。
そして、それを片手に持ったまま、いたって気軽な調子で言った。
「こちらは僕の責任において、儀礼にのっとり、適切に処理しておきます。さて、行こうか、アレウス君」
「なに?」
急に呼ばれて、アレウスはおどろいたようにホメロスを見た。
「行く? どこへ?」
「体育訓練場へ」
* * *
「あっ、アレウスだ」
「スパルタのアルケシラオスの戦車の御者だぞ!」
聖域の壁にそって伸びる道をアレウスとホメロスが連れだって歩くのを見て、たちまち大勢の男たちが集まってきた。
「アレウスさん! あなたが何者かに襲われたって噂が流れていますが、本当ですか!?」
「犯人に心当たりは?」
「あんた、だれ? アレウスさんの付き人?」
「アレウスさん、けがはないんですか? 明後日の出場に影響は?」
「審判団に訴え出たほうがいいんじゃありませんかね!」
「優勝の自信はありますか!? 馬たちの調子はどうです!」
「ちょっと、ちょっと! 何とか言ってくださいよ!」
「さすが、落ち着いておられますね。どんな策を弄してこようと、カマリナのプサウミスなんか、ひとひねりってわけですか?」
すさまじい喧騒のなかを、アレウスはまるで無人の野を行くかのごとく、視線をまっすぐに固定して前進していった。
ホメロスのほうも、右手の壁の向こうに見えるゼウス神殿の破風の威容にばかり目をやって、集まった人々には知らん顔で歩き続けた。
二人の取りつくしまもない態度に、人々は首をかしげたり小声で悪態をついたりしながらも、やがて諦めて散っていった。
「スパルタの男は無駄話を避ける、というわけだね」
「ハエのごとき連中と話すことなどない」
「クセノポンがスパルタ人たちについて語っているとおりだ。『彼らの声を聞くのは石像の声を聞くよりも稀で、彼らの視線は銅像のそれよりも動かない』とね」
「クセノポン? だれだ?」
「僕の知り合いさ。……ああ、見えてきた」
二人の左手に、木立に囲まれた建造物が姿をあらわした。
石造りの古い列柱に屋根をかけ、ぐるりと回廊をめぐらした体育訓練場は、試合に向けて最終調整をする選手たちと、彼らを一目見ようとする見物人たちでごったがえしている。
「さて、彼らはいるかな」
目の上に手をかざして陽射しをよけながら、ホメロスはつぶやいた。
アレウスは、すこしのあいだ、だまってホメロスを見つめたが、
「あのとき、しげみにいた連中か」
と、すぐに言った。
「そのとおり。二人のうち、一人でもここに――」
「奴だ」
ホメロスがまだ言葉を終えないうちに、ざっと周囲を見回したアレウスが、素裸で風のように走っているひとりの青年を指さした。
「青い衣を着ていた男。黄色の衣の男は……今は、いないようだな」
「まるで鷹の目だ」
ホメロスは賛嘆をこめて言い、
「さっそく、彼から話を聞こう」
と、体育訓練場をずんずん横切っていった。
「ああ、そこの君! そう、君だ。少しばかり、聞きたいことがあるのだがね」
だが、青年と話すのは一筋縄ではいかなかった。
かんかんに怒ったコーチが、ホメロスたちと青年とのあいだに割りこみ、まくしたてはじめたからだ。
「おい、おい! いったいぜんたい、おまえたちは何なんだ? ヒッポステネスは練習中だ! 何の話があるってんだ? 調子はいかがですかってか? スパイは絶対にお断りだぞ、おい! 今は大事な練習の――おい、おい!? 何するんだ!」
「話そう。俺と……何か、ちょっと……向こうで」
「何の話だ!? おい待て、ちょっ――」
アレウスがぼそぼそ言いながら、丁重ながらも有無を言わさぬ力でコーチの腕をとって遠ざかるのを見送り、
「やあ、また会いましたね」
ホメロスはにこやかに青年に向きなおった。
汗にまみれた顔をぬぐった青年は、くちびるを引き結び、かたい表情をしていた。
「何です? 俺は、あなたなど知らない。見たこともない」
「おや、そうですか? 我々はついさっき、たしかに会っているのですがね。ああ、僕はあなたを見たが、あなたには、僕を見る暇がなかったのかな? あんなに大いそぎで行ってしまったのだから、それも無理はないが」
「何の話だ? 練習のじゃまになる。帰ってくれ」
青年はいら立ちを隠そうともせず、ホメロスに背を向けようとした。
「とぼけようとしたって、そうはいかない。君の恋人は、すべてを話してくれたよ」
ホメロスが投げかけたその言葉は、青年に対して、まるで背中に突きたてたナイフのような効きめを発揮した。
彼はたちまち足を止め、ふりかえった。
その顔は、真っ青になっていた。
「嘘だ。……嘘だ! デモポンが話したはずはない。彼が、俺を裏切るはずがない!」
「その言葉が、すべてを証明しているよ。だが、安心したまえ。君の恋人は、僕に何ひとつ話してなどいない。なぜなら、僕は、彼とは会っていないのだから」
「なんだって?」
「僕は、まず君に会いにきたのだ。『君の恋人がすべてを話した』というのは、かまをかけたのさ」
「ちくしょう!」
青年は一瞬ホメロスに殴りかかりそうなそぶりを見せたが、すばやく身構えたホメロスの体さばきに何事かを感じたのか、それとも遠くに立っている審判がこちらに向きなおるのを見たからか、拳に訴えるのはやめた。
彼は真剣な表情でホメロスの腕をつかみ、おさえた声で言った。
「このことを、どうかコーチには話さないでほしい。試合を控えたこの時期に、彼と会っていたことが知れたら、どれほど叱責されるか! 彼との付き合いを、今後一切、禁じられてしまう。そんなことになったら、俺は――」
「もちろん、あなたに迷惑をかけようというつもりはない」
なだめるように両手を広げて、ホメロスは言った。
「僕の希望はただひとつ。僕たちの調査に、協力してもらいたいのだ」
「調査だって?」
「なに、ちょっとしたことなんだがね。あのしげみの中で、君たちは、僕たちが近づいてくることに気づき、逃げだした。もちろん、コーチの言いつけをやぶって二人で会っていたことを、人に知られたくなかったからだ。
あのとき、僕たちが近づく前に、僕たちとは別の誰かが、君たちのすぐそばを通っていったはずだね?」
「あ、ああ……そうだ。たしかに、誰かが通っていった」
「その姿を見たかい?」
「いや、見てはいない」
「では、なぜ誰かが通ったことがわかった?」
「枝をかきわける音が聞こえたからだ。枝が折れる音も。すごい勢いで通りすぎていった」
「ふむ。他に、何か、気づいたことはなかったかい? 声とか、においとか、何かを落としていったとか、そのほか何でも」
「いや、何も。ただ、誰かが通った、としか」
「君の恋人が、君が気づかなかった何かを、見たり、聞いたりしてはいないだろうか?」
ホメロスの問いに、青年は気まずそうな顔をした。
「それはないだろうな。デモポンは、俺の下にいたから」
ホメロスは二度、静かにまばたきをしてから、
「なるほど。どうも」
と笑顔を見せて、アレウスに手を振った。
「おい、何なんだ! 何の話だ!? ヒッポステネス、いったいぜんたい、こいつと何の話をしていたんだ?」
「いや、どうも、すみませんでした! 僕の大事な護符を、彼が拾ったのを見たという人がいたもので」
「はあ?」
不審そうなコーチに向かって、ホメロスは大げさな嘆きのそぶりを見せ、叫んだ。
「落としてしまったんですよ、恋人から贈られた、大切な護符を! ついさっき、この体育訓練場の前を通ったときにね。
その護符を、彼が拾ったのを見たという人がいたんだが、よくよく話を聞いてみると、どうも人違いだったらしい。お忙しいところ、お騒がせして申し訳なかった。ああ、そうだ! あなたは見ませんでしたか? 僕の大切な護符を。ちょうど、これくらいの大きさの――」
「知らん、知らん、知らん!」
綿々たる説明をさえぎり、コーチはホメロスをはねとばさんばかりの勢いで腕を振り回した。
「帰れ、帰れ! 練習のじゃまだ! とっとと消えてくれ!」
「いや、でも、このあたりで落としたことは間違いないんですよ! もしも見つけたら――」
「帰れ!」
かんかんに怒ったコーチに体育訓練場の出口まで押し出され、衣をととのえているホメロスのところに、アレウスが追いついてきた。
「君が機転をきかせてくれて助かったよ、アレウス君。なかなかの名演技だった……と言えないこともないかな、君がスパルタ人であることを考えれば、多分ね。だが、君の助力もむなしく、得るところはあまりなかった」
「奴は、犯人の姿を見てはいなかったのか?」
「ああ、残念ながらね。確実になったことといえば『犯人は確かにあの茂みを通って逃げた』という事実くらいだが、これは、もともとわかっていたことだからね。
だが、気を落とす必要はない。事件の調査に、空振りはつきものさ」
「では、次はどうする?」
「そうだな」
ホメロスは一瞬考えこみ、すぐに答えた。
「馬たちのところへ行こう」