呪われたスパルタ人 10
「そなたが、呪詛板をつくるというのか?」
アルケシラオス殿が言った。
「ええ」
「だが、そなたは『文字の読み書きができぬ』と言ったぞ」
「さすがアルケシラオス殿、聞き落としてはおられませんでしたな。たしかに私は文字の読み書きはあやしいですが、象徴記号ならば不足のない程度に知っています」
「からくてれす?」
「ああ……ひょっとして、すこし新しかったかな。神々に呼びかけるための特別な記号ですよ。特に、冥界の神々にね」
冥界という言葉が出たとたんに、その場の空気がはりつめ、沈黙がおりた。
「しかし」
緊張を打ち破るように、アレウスが言った。
「それは危険ではないか? この時期に、呪詛板の材料など買い求めているところを見られたら、どんな噂をたてられるか分からないぞ」
「見られる? 誰にです?」
「むろん、カマリナのプサウミスだ。つい今しがた、奴がしようとしたことを見ただろう? 奴は、今も、我々の動きを見張らせているかもしれない」
「なるほどね」
ホメロスは微笑んだ。
「では、もっと入手しやすいものを使うことにしよう。アルケシラオス殿、料理番に言いつけて、皿もしくは杯をひとつと、豆をひとつかみ、用意させてください」
「豆だと?」
「ええ、食用の豆であれば、種類は問いません。料理番が持ち合わせているものでけっこう。用意ができたら、この旅の同行者全員を、ここに集めていただけますか」
ほどなくして、狭い天幕のなかに、大勢が集められた。
アルケシラオス殿のかたわらに夫人とアレウスが立ち、反対側には奴隷たちが肩を寄せあって並んでいる。
突然よびだされた奴隷たちは、いったい何事がもちあがったのかと、不安を隠しきれない様子だ。
「これで全員ですか?」
豆がいっぱいに詰まった袋と、陶製の皿とを受け取りながら、ホメロスはアルケシラオスにたずねた。
「ああ」
アルケシラオス殿はうなずいたが、
「いいえ、まだ全員ではありませんね」
ざっと全員の顔を見渡し、ホメロスはそう断じた。
「たとえば、犬のメランプース君が来ていませんよ」
「なに、犬もか?」
「人も、犬も、馬もです」
さすがに目を丸くしたアルケシラオス殿に、ホメロスはうなずいた。
「とにかく、あなたがスパルタからともなってきた全てのものたちを集めてほしいのです。僕の術の効果が、全員におよぶようにね」
「それは難しい」
不意に、断固とした口調でアレウスが言った。
「馬たちをここへ連れてくることはできない。今、彼らを神経質にさせるわけにはいかないからだ」
「なるほど」
ホメロスはうなずき、少し渋い顔をした。
「それはわかるが、困ったな。僕の術を、馬にも、馬番たちにもかけておきたいのだが」
「なるほど」
アレウスはしばらく考えていたが、
「いや、やはり、だめだ。厩舎からここへ連れてくるには、足元が悪い場所を歩かせなくてはならない。今、馬たちが脚をいためたら、すべてがだめになる。馬たちを動かすことができない以上、馬番たちも、ここに来させることはできない」
と、はっきり拒絶した。
「なるほど」
とホメロスはまた言ったが、今度は、それ以上に食い下がることはせず、
「では、馬たちと馬番たち以外の、残る全ての者たちを、ここに集めてください」
とアルケシラオス殿をうながした。
アルケシラオス殿は、しばらく考えてから、夫人のほうをふりかえった。
「あの子も、この場に連れてこさせなさい」
「でも」
「よいから」
アルケシラオス殿はそう言ったが、夫人は明らかに気が進まない様子だった。
「あの子は、まだほんの赤ん坊です。今回の件に関わりがあるはずはないし、関わらせたくもない」
「だが、相手が、アレウスだけを狙ってくるとは限らん。万が一、あの子にも呪詛が降りかかったとき、それを跳ねのける守りが必要だろう?」
夫人は何か言いたげに口を開いたが、結局は何も言わず、奴隷のひとりを呼びにやらせた。
やがて、大柄な乳母が赤ん坊をだいて入ってきた。
乳母の体格がよいことを差し引いても、ずいぶんと小柄な赤ん坊だった。
「末の息子、マカリオンだ。アレウスの弟だ」
とアルケシラオス殿が言った。
「坊や、はじめまして」
とホメロスは小さく手を振りながら赤ん坊の顔をのぞきこもうとしたが、乳母は無表情に一歩さがり、夫人は雛を守ろうとする親鳥のように、ずいと前に出て立ちふさがった。
赤ん坊はむずかって、弱々しく泣きはじめた。
夫人はホメロスをにらみつけると、赤ん坊に向きなおって、別人のように愛情深い声をかけた。
「しいーっ……ほら、ほら、母様だよ。しいーっ、泣くのはおやめ……スパルタの男は、外国人の前で泣いたりしないものだよ……」
そこへ、奴隷のひとりが真っ黒な毛並みの犬をつれて入ってきた。
犬は機嫌悪そうにうなっていたが、ホメロスの姿を見るなり、猛然と吠えかかって噛みつこうとした。
「こらメランプース、よさないか! ……申し訳ございません!」
引綱をつかんだ奴隷が犬をしかりつけ、ホメロスに向かって平伏する。
「失礼いたしました。この犬は、とても気性が荒いのです」
「ああ、君は」
ホメロスは、猛犬のうなり声も、奴隷の謝罪もほとんど耳に入っていないような顔で、じっと相手の顔を見た。
「さっきも会いましたね。ついさっき、僕とアルケシラオス殿とのあいだに、ちょっとした見解の相違が起きたときに」
「はい」
奴隷は、意外そうな顔になって答えた。
よほどの美少年でもなければ、わずかな時間、同じ部屋にいあわせただけの奴隷の顔など、はっきり記憶する者はまずいないのだ。
「息子の盾持ち従卒です」
「リカスといいます」
アルケシラオス殿とアレウスが、続けてそう言った。
「ああ」
アレウスと同じくらいか、少しばかり上に見えるリカスに、ホメロスは笑いかけた。
「君もずいぶん鼻が高いでしょう。仕えた相手が、優秀な若者で」
「はい」
リカスは、スパルタ人に仕える従卒の常として、ただそれだけ答え、あとは視線を伏せて沈黙を守った。
「それでは、はじめましょう」
ホメロスは不意に威儀を正し、一同を見わたした。
「はじめにはっきりと申しあげておきますが、人間が関わるすべての呪いには、それに対抗するための術がちゃんとあるのです。神々ならばいざ知らず、死すべき人間のなすことには、必ずや限界があるのですから」
「しかし、呪いは、神々の力を借りてかけられるものではないか」
「ですから、こちらも神々の御力を借りるのです」
アルケシラオス殿にそう答えて、ホメロスは、陶製の皿を目の前に持ち上げた。
そして、その皿をいきなり地面にたたきつけた。
激しい音を立てて皿は割れ、奴隷たちは飛びあがり、メランプースは吠えたけり、せっかく泣き止んでいたマカリオンは再び泣きだし、ひどい騒ぎになった。
「何をする!」
怒る夫人を手で制し、ホメロスはかがんで、大きめの破片を拾いあげた。
「呪詛板をつくるために大切なのは、そこに記されたことがらであって、素材ではない」
ホメロスは、陶器の破片をがりがりと爪で引っかきながら、独特の抑揚をつけて奇妙な言葉を唱えた。
「ヴ・イ……ク・トゥ・オ・ル……イ・ア……ル・エ……グ・イ・ヌ・ア」
その言葉を三度唱えたあと、ホメロスはかたわらに置いてあった豆の袋をあけて一粒とり、口の中に放り込んで、ごくりと飲みこんだ。
そして、おもむろに、豆の袋をアルケシラオス殿に回した。
「今、僕がしたように、一粒飲んでください。ご自身がすんだら、みなさんにも。全員が確実に飲んだかどうか、確認をお願いします。呪詛返しのために必要なのです」
「噛み砕いてもいいのですか?」
と、アレウスが言った。
「ええ、効果は変わりませんから」
「赤ん坊に豆など! 喉に詰まらせでもしたらどうする」
夫人は、不満をあらわにしている。
「ああ、確かに。では、後で、煮てやわらかくするなり、すりつぶすなりして、マカリオン君にも飲んでもらってください。それ以外のみなさんは、どうぞ今、この場で。さあ、アルケシラオス殿、お願いします」
アルケシラオス殿は、やや得心がいかぬ様子ながらも、ホメロスから受けとった豆を一粒とり、丸薬でも飲みくだすように飲みこんだ。
それから、アレウス、夫人、乳母、リカス、奴隷たちと順に飲んでいった。
ホメロスはそのあいだ、爪の先でかりかりと陶片に何やら書きつけながら、奇妙な言葉を繰り返し唱え続けていた。
「ヴ・イ……ク・トゥ・オ・ル……イ・ア……ル・エ……グ・イ・ヌ・ア」
奴隷たちの最後のひとりに豆を飲ませ、大きく口を開けさせて喉と舌の裏側までも確かめてから、アルケシラオス殿は、ホメロスにうなずいた。
ホメロスもうなずき返し、次の瞬間、朗々と声をはりあげた。
「冥界のヘルメス神の名において! ヴイ・クトゥオル・イア・ルエ・グイヌア。卵、幼虫、蛹、成虫に。すべてがこの通りになるように。御身の名において、罪なき者は守られ、害は害をなした者に跳ね返るように。我は、その者を冥界のヘルメス神に引き渡す。ヴイ・クトゥオル・イア・ルエ・グイヌア。卵、幼虫、蛹、成虫に。今より三度目の太陽が昇るとき、見えざる虫がその者の体内で孵り、牙でその者の内臓を食い破るように。その者の全身が絶え間ない苦痛におそわれるように。その者の肉体が食い荒らされ、切り裂かれ、恐ろしい苦痛にもだえ、二度と立ち上がることのできぬように! ヴイ・クトゥオル・イア・ルエ・グイヌア! 卵、幼虫、蛹、成虫に! 今だ、今だ、はやく、はやく!」




