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呪われたスパルタ人 1

 オリンピアという名の町がある。

 賢明なる読者諸氏はすでにお気づきであろうが、オリンピア、という響きがしめすとおり、「スポーツによる平和の祭典」オリンピック発祥の地である。

 より正確には、この場所で、古代の競技祭がおこなわれていた。近代オリンピックは、いにしえの競技祭の逸話に感銘をうけたフランスのクーベルタン男爵が提唱し、1896年からはじまった。

 いま、オリンピアの地をおとずれる者は、木立のなかに広がる壮麗な白亜の廃墟を見るであろう。

 だが、二千数百年前には、ここは廃墟ではなく、生きた競技場であった。

 白ではなく極彩色をまとった建物と、色とりどりの天幕がそこにあり、のどかな小鳥たちの歌ではなく、熱狂した人々の歓声がひびいていた。


   *      *      *


 第83オリンピア紀オリンピアド第1年、すなわち紀元前448年、夏――

 四年に一度の競技祭の開幕を明日に控えたオリンピアの地は、喧騒に満たされている。

 美しい神殿、ひいきの選手をかこんで激励する観客たち、もうもうたる煮炊きの煙に、声を張りあげる行商人たち、朗々と新作をうたう詩人たち。

 出身都市ポリスも、方言も習慣もばらばらな全ギリシャ人たちが集結したオリンピアの地は、まさに、輝かしき混乱のるつぼ・・・と化していた。

 そういう場所では、えてして、事件も起こる――



 オリンピアのはずれ、ふだんは人通りもまばらな道に、大勢の野次馬が輪になって押しあいへしあいしていた。

 その輪の中心に、かわききった地面にうつぶせに倒れた、ひとりの男の姿がある。


 陽にやけた素肌に、赤い上衣ヒマティオン。長くのばした金色の髪。

 何かをつかもうとするかのように曲げられた腕。

 そのかたわらには、ぱっくりと甲羅のわれた、大きなリクガメの死骸がひとつ。

 はるかな上空を、一羽の鳥が、ゆったりと円をえがきながら飛んでいる。


「なんて不運な男なんだ!」


 ぴくりとも動かない男をかこみ、野次馬たちは口々にさけんだ。


「詩人アイスキュロスをみまったのと、まったくおなじ悲劇が、彼を襲った!」


「輝かしいオリンピアの地で、こんな悪運にみまわれるとはなあ」


「かわいそうに」


「これこそ、まさに悲劇だ!」


 そこへ、


「何の事件かね?」


 ひとりの男が、野次馬たちのあいだを割って姿をあらわした。

 野次馬たちのだれひとりとして、これまでにその男を見たことはなかったが、こうして一度見たからには、もはや忘れられない印象を残す男だった。


 ひいでた額に、猛禽類を思わせる鼻。するどい眼光。

 峻厳な顔立ちのなかでも、特に、その灰色がかった両の目は、人の注意をひきつけずにはおかなかった。

 彼にまっすぐ見つめられれば、その者は、輝く目のグラウコピス・アテナ女神アテーナーの前にでも立たされたように、心の底まで見とおされるような気がするにちがいない。

 あらわれた男は、あごを突き出して目を細め、倒れた男と、周囲の地面とを一瞥したが、


「あっ、そこ!」


 急に腕をふりまわして、さけんだ。


「動くな! 気をつけたまえ! 現場を、そんなふうに踏みあらすなんて……だめだ、そこの君、動くなというのに! 貴重な物証を、これ以上、かき乱すんじゃない!」


「げんば?」


「ぶっしょう……?」


 野次馬たちは怪訝そうにつぶやきながらも、するどい目の男の剣幕におされ、おとなしく事のなりゆきを見守った。


「亀?」


 するどい目の男はつぶやき、慎重な足取りで、甲羅のわれた亀の死骸に近づいていった。

 地面を自分の上衣のすそで払うことのないよう注意しながらしゃがみこみ、亀の死骸を指先でひっくりかえす。

 ぐんにゃりと垂れた亀の首や手足、甲羅の割れ目のようすをくわしく調べ、においを確かめ、うっと呻いて、大きく顔をしかめた。

 やがて彼は、亀に触れた指先を、かわいた地面に何度もこすりつけながら、


「第一発見者はだれかな?」


 と、顔をあげて、愛想よくたずねた。


「だいいち……はっけんしゃ?」


「ひょっとして、『この有様を、第一番に発見した男』ってことじゃねえか?」


「おう、それなら、この俺だ!」


 野次馬の輪のなかから、ひげづらの男が、威勢よく話しはじめた。


「ついさっき、俺が、こっちからこう歩いてきたら、そこに、その男が倒れてたんだよ。それで、俺が、こう、みんなを――」


「動くんじゃない!」


 するどく制止されて、ひげづらの男はびくりとし、おもわず一歩踏みだそうとしていた足を、そうっと元の位置にもどした。


「いや、どうも失礼、大きな声を出したりして。しかし、どうか、その場所から、そのまま話していただきたい。証拠の保存のためにね」


「お、おう」


「つまり、あなたがこの場所に来たときには、彼は、すでにこうして倒れていたと?」


「ああ、そうだ」


「この場のなにかに手を触れたり、動かしたりは?」


「いや、全然!」


「あなたが人を呼んで、大勢が集まってきたようだが、そのなかのだれかが、なにかを動かしたということは?」


「いや、全然だ。だれも、いまのあんたほどには、そいつのそばには寄ってねえ。俺も、だれもだ。なあ、みんな?」


「そのとおり!」


 ひげづらの男の呼びかけを受けて、野次馬たちが口々に言いはじめた。


「亀も、いまのまんま、そこに転がってたぜ」


「そうそう、だれも手を触れてねえ。たったいま、あんたが触っただけだ」


「この男も、どこのだれだか知らんが、まだ若いのに、亀にぶつかるなんてなあ。かわいそうに!」


亀に・・ぶつかる・・・・?」


 するどい目の男は怪訝そうにくりかえし、いましゃべった野次馬のひとりを見つめた。


「いまの『亀にぶつかる』というのは、いったい、どういう意味だね? 説明してくれないか」


「説明って……いや、説明もなにも」


「つまり、こうじゃ!」


 哲学者ふうの老人が、続きを引きとった。


「この不運な男は、この場所を歩いておった。そのとき、ヒュー! 空から、亀が降ってきた! それが頭に直撃し、彼の命を奪ったというわけじゃな」


「ハ!」


 するどい目の男は、吐きすてるように笑った。


「ナンセンスだ。あなたがおっしゃったことは、まったくのナンセンスだ! この世に、亀が空から降るような天気があるとでもいうのかね」


 すると、哲学者ふうの老人は、重々しく、ひとさし指を天にむけた。


「ヒゲワシじゃ」


 野次馬たちが、その言葉に、うんうんとうなずく。


「ほら、いまも、あそこを飛んでおる。あんたは、みたことがないかな? ヒゲワシは、じつに頭のいい鳥じゃ。そのするどい鉤爪で、亀をむんずと捕らえると、空高くまで舞いあがり、そこから地面にヒュー、バリン! かたい甲羅をわって、やわらかい中身を食うというわけじゃ」


「では」


 男は、頭痛でもするかのように顔をしかめながら、確かめるように言った。


「その……鳥が落とした、亀が」


「うむ、ヒゲワシじゃな」


「その、ヒゲワシが落とした、亀が……不幸な偶然によって、彼の頭部に激突したと」


「うむ、うむ」


「あなたは馬鹿なのか?」


 するどい目の男は、心底あきれたという口調で言った。


「言うに事欠いて、この亀が、ヒゲワシが空から落としたものだなんて、そんな馬鹿げた話が――」


「でも、あるよなあ」


「あるある」


 男の言葉をかきけすように、野次馬たちが口々に言った。


「なあ、そうじゃよなあ! 名高い詩人のアイスキュロスどのも、それが原因で亡くなったという噂じゃし」


「そうそう!」


「あれは、前回……いや、前々回のオリンピア競技祭の年だから……八年前か」


「そうそう!」


 力強くうなずきあう野次馬たちを、男はしばし唖然として見まわしていたが、やがて、


「つまり……『亀がぶつかる』というのは……このあたりでは、よくあることなのかね?」


 と、しぼり出すように言った。


「よくはねえけど、なくもねえかな」


 最初のひげづらの男が、得々として言った。


「だって、見ろよ、この状況を! それしか考えられねえだろ。絶対、亀がぶつかって死んだんだって!」


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