プロローグ
「――――…アンタなんかっ、産むんじゃなかったッ……!」
「……っッ。」
……静かに、しかし、はっきりとした"憎悪"と"拒絶"の視線を乗せ放たれたその言葉に。息を呑み、フルフルと潤む目尻から零れた熱い筈の涙が。急速に、その熱を失い。頬を冷たく濡らす"少女"――――"上梨 令奈"4歳は…。
その後、わんわんと泣き喚く令奈を"躾"と称し。何度も、母と呼ばれる女から叩き蹴りの暴行を加えられ。無理やりその体を毛布で包まれると。令奈は外のベランダへ半ば、投げ捨てられる様に締め出されると。…カーテンが閉められた窓越しに聞こえる、母の苛立ち募るドタバタという足音や物音に怯え。ズキズキと痛む体中の真新しい痣を庇い。嗚咽を呑込み、令奈は啜り泣く…。
次第に小さく落ち着き始めた、母のものであろう足音と。「…バタンッ!!」っと、八つ当たりの様に閉められたマンションのドアの騒音を耳にし…。ほっと、微かに湧き上がる安堵する気持ちに。また幾度目かの母の長い外出を思い、母恋しさと寂しさ孤独が入り乱れ。令奈の心をぐしゃぐしゃに掻き回し、その闇を濃く深くしていく……。
「…っ、さむいよぉ……。」
季節は、極寒の真冬の最中…。
唯一、その身を庇う毛布は薄く。身に纏う衣服は撚れて、何処か喫えた匂いが沁みつき。満足な防寒着は勿論、その小さな手足に手袋や靴下さえ履かされていない…。日に焼けず白く、無垢で軟な素肌を容赦なく撫でる凍てつく風に。ちらほらと白い綿雪が混じり始めた頃には。
…冷たいセメントのベランダに触れ、仄かに赤紫に染まり出す指先と。面白いくらいカチカチと子気味よく鳴る小さな歯に、痙攣する様に小刻みに震える体を抱きすくめ。独り、暗く濁り焦点の合わない瞳で。白と灰色が鬩ぎ合う、重く圧し掛かる様な雪雲に覆われた空を見上げる令奈は…。
……徐々に薄れ、失われてゆく生気と。場違いな程心地良い睡魔に、その瞼をゆるゆると閉じると。さっきまで感じられていた、痣の痛みと耐え難い寒さが緩み始め。耳元で響く微かな辺りの騒音が遠のき、温かく、穏やかな暗闇の世界が目の前へ広がったかと思うと…。
その暗闇の中で、痛みもなく、寒さもなければ。あの恐ろしくも恋しい…。"母"へ対する言葉で尽くし難い愛憎や執着、強烈な劣等感と罪悪感に。骨身に沁みた恐怖心と諦観、それら全てから解放され。今迄に感じた事の無かった、開放感と自由に…。唯々歓喜し、晴れやかな気持ちで暗闇に閉ざされた世界を駆けると。
…束の間の、この一時で初めての"静寂なる平穏"を独り甘受する令奈は――――既に、自身の身に起こった事全てを悟り。その「最後の審判」を今か今かと、待ち詫びていた……。
『――――ニュースをお伝えします。昨日1月17日、日曜日、午前9時30分頃…。××市××町×番地の「ビルテンズ・マンション」10階の部屋のベランダで、少女の遺体が発見されました。
発見された少女は"上梨 令奈"ちゃん4歳で。近隣のマンション住民からの児童相談所への通報により、母親の"上梨 奏子"氏との話し合いの為。児童相談所職員がマンションを訪問した際…。
何故か開いていたドアを不審に思い、児童相談所職員が室内へ入ったところ…。母親の奏子氏と娘の令奈ちゃんは居らず、部屋は酷く荒らされており。物取りの犯行かと、職員が警察へ通報。警察が室内を調査中。
……ベランダの外で、毛布に包まれ放置されていた令奈ちゃんが発見され。その後、「死亡」が確認され。死因は、長時間の極度な低気温下での体温低下による「凍死」と断定されました…。
母親の奏子氏は、今も行方が分かっておらず…。2年前に夫と離婚し、それから女手一つで一人娘である令奈ちゃんを養育していたとみられますが――――…。 』