第五話 上
現実は厳しくも甘い物、けれど、どちらかだけが続くことはありえない。
王妃との謁見は、茶会、という形で設けられた。
女のみの場、ということで、ジーンのエスコートは不可能となった。それに不満げに頬を膨らませるアリスと宥める家族。女のみ、と言いながらレヴィルは出席するから不満らしい。
もう一時間ほどこの状態なので、イリスはそっと女官をうかがう。表情から時間が迫っている事を知り、息を吐いたイリスはレヴィルに視線を送るとアリス達に一歩近寄った。
「アリス。時間がないわ。早くして」
冷たく聞こえかねない声音で言えば、アリスは大げさなまでに肩を震わせて怯えたように視線を泳がせる。ジーンがそっとアリスの肩を抱き寄せ、伯爵夫妻と兄はイリスを睨む。
時間がない、という意味を、その先に待っている人物の事を、全く考えていない彼らに、レヴィルが氷のようなまなざしを送っている。
「イリス様」
きびきびとした厳格な声がイリスを呼んだ。
「カレン様」
「王太后殿下並びに妃殿下がお待ちです。イリス様とレヴィル様をお通しするように仰せ付かっておりますので、どうぞこちらへ」
女官服に身を包んだ初老の女性・カレンは、きびきびとした動きでイリスとレヴィルを促す。
それに顔を見合わせた二人は、小さく頷いてカレンについて歩き出す。
気付いていないらしいアリス達は完全放置である。
カレンはいっそゴミを見るような眼差しを向け、黙殺した。
進んだ先は、正妃専用の居宮・睡蓮宮の庭である。
名前の通り、澄んだ池が庭の大部分を占め、中心に作られた小島に瀟洒な彫刻の施された東屋とそれを囲む花々が咲き誇る。
東屋には、すでにラナリアと王妃が座っている。
給仕の為に女官が控え、警備の為に距離を置いて近衛騎士達が等間隔に配置されている。
女官や騎士が恭しく首を垂れ、ラナリアと王妃が笑顔で手を振りイリス達を歓迎した。
「よく来たな、イリス。待ちわびたぞ」
武骨な口調ながらうきうきと楽しげな弾んだ声音で、王妃が告げればイリスはほんのわずかに口元を緩めて、略礼をとった。レヴィルは跪いて正式な礼を取るとそのまま沈黙する。
上位から許可が無ければ、顔を上げることも発言することもできないのは、どれだけ親しい間柄でも変わらない。
「そちらはジェノヴィアの末子殿ですね」
おっとりとしたラナリアの声に、それを許しと取ったレヴィルは顔を上げる。
「爵位第四位ジェノヴィア伯家当主アルドラが末子、レヴィルと申します。王太后殿下並びに王妃殿下には拝謁の栄誉を賜りまして、恐悦至極に存じます」
滑舌良くはっきりと告げるレヴィルに、王妃は瞳を猫の様に細めてじっと見つめる。
出身であるネリス王国特有の金の瞳が、猫のような印象を強め、レヴィルは我知らず喉を引き攣らせた。
「イリス、お前の言うとおりだな」
ふっと瞳を和らげた王妃は、イリスに朗らかな声をかける。
イリスの表情も安堵したような力を抜いた緩んだものになる。気の抜けた表情でいるイリスを見たことのないレヴィルは、一瞬ポカンとしてしまったがすぐにラナリアと王妃の存在を思い出して表情を引き締めた。
「頼りになる、しっかりとした、末であるのがもったいない、とイリスからよく聞いていますよ」
ころころと楽しげに笑うラナリアの言葉に、レヴィルは歓喜した。もちろん、表には出さない。
家族内唯一、敬愛を抱いているイリスに褒められている、という事実に上機嫌になるのも致し方ない。
表に出していないつもりでも、夫と共に国を統治していたラナリアと貿易を主産業とする海洋国から嫁いできた王妃には、筒抜けであったらしく、微笑ましげにレヴィルとイリスの二人を見ている。
「事実ですから」
さらり、といつも通りに平淡な声音で言うイリスだが、その目元は柔らかく緩んでいる。
気の置けない人しかいない為か、『貴族令嬢の見本』の如き淑女然とした姿はない。だが、それでも十分に令嬢達の見本として成り立つ立ち居振る舞いだ。
楽しげなラナリアに促されて、イリスと共にレヴィルも席に座る。
カレンがしずしずとそれぞれのカップに紅茶を注いで、少し離れた位置で待機する。
そうすれば、朗らかな茶会の始まりだ。
学院での勉強、友人関係、将来的な目標、様々な視点からの問いかけをラナリアと王妃がして、イリス達が答える。偶に脇にそれながら、話は尽きない。
子供の話が聞きたくて仕方ない大人達、の構図で非常に和む。
控えている女官達も警備している騎士達も、ほっこりした気分になる。
すぐに、それを壊す者が現れたのだが。
「酷いわ、イリス。どうしてあたしを置いていくの!」
大きな声を上げて歩いてくるアリスに、イリスもレヴィルも一瞬苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。
王妃の庭園で、王太后が出席している茶会で、大きな声を上げるだけでも落第だ。その前に、許可も得ずに声を上げている時点で、追放だが。
「招かれざる者だ。追い出せ」
「はっ」
近場に控えていた騎士は警備責任者であるらしく、王妃のうっとおしいと言わんばかりの命令に、本人も眉間にしわを寄せながら部下に視線と手ぶりで指示を出す。部下も厳しい視線をアリスに向ける。
騎士に行く手を阻まれたアリスは、涙をこらえた瞳で上目遣いに甘えた声を出し始めた。
王族の警備をする騎士は最精鋭だ。色仕掛けも考慮に入れ、あらゆる分野に対する対処法と冷静な観察眼を持つことが最低条件とされている。
世間知らずの小娘の駄々程度にほだされる騎士は、ここにはいない。
「お茶会に呼ばれたのはあたしなのに、イリスが…」
いつも、家族に、ジーンに、イリスが悪いという印象を与える言葉選び。故意か無意識かは分からないが、イリスにとってはうんざりしかしない。
「私はあの娘を招待した覚えはないのですけれど」
苦笑を浮かべたラナリアの言に、カレンがそっと息を吐く。表情はあからさまに同意を示している。
「そうですね。私も、招待したのは『ジェノヴィア伯爵令嬢と令息』であると記憶しています。『令嬢達』を招いた覚えはありません」
王妃の言葉は、詭弁、ととられるかもしれないが、アリスを追い出すには十分な言い分になる。
イリスとレヴィルはラナリアがそっと首を振ったことで、口出しはしないことにした。下手に動けば、アリスを増長させるからだ。
「よしんば、招いていたにせよ、あの小娘は礼儀を知らない。追い出されても文句は言えない」
吐き捨てるような王妃に、イリスとレヴィルは別れる前のアリスの姿を思い出す。
鮮やかな赤に金糸で蔓薔薇の刺繍が施され、ほっそりとした肩をむき出しにするデザインだった。そういうデザインは、胸が無いと不格好になりかねないのだが、アリスの胸元は慎ましいを通り越して平原だったな、とイリスは遠い目で思う。ちなみに、イリスは平均よりも豊かな方である。
王妃は赤を好む、という情報通りに、王妃のドレスは鮮やかな真紅に金糸で大輪の薔薇を裾に刺繍し胸元をビーズで装飾している。詰襟型だが肩を出すタイプのもので、凹凸のはっきりした艶めかしいスタイルの王妃には良く似合っている。
色と刺繍が被さっているこの現状、社交界デビューしたての少女ならば、基本的に寛容で気さくな王妃は許容しただろう。だが、デビューして数年が経過し、イリスという情報通がいて、忠告も行っているアリスに許容する理由も容赦する必要もない。
貴族令嬢であるがゆえに力づく、というわけにもいかない騎士に対して、涙ながらに何やら訴えているアリスは東屋に近づこうとし続ける。諦める様子が無い。
その様に、こめかみをひきつらせた王妃は、すっと立ち上がると一歩二歩とアリスに近づいていく。その背が纏うのは、苛烈なまでの怒気だ。思わず、イリスとレヴィルがすくみ上るほどに。
王妃の接近に気付いた騎士が、天を仰ぎたくなる気持ちを必死に抑えて、脇にそれた。
唐突に正面が開けたアリスは、きょとんとして何度も瞬きを繰り返す。
女性平均よりも上背のある王妃は、アリスを見下ろして神秘的な金色の双眸をすうと細めた。
だが、王妃が口を開くより先にアリスが空気を凍てつかせる言葉を放った。
「あなた、だぁれ?」
イリスは悲鳴を上げるのをこらえるのに精いっぱいだった。レヴィルは真っ青になって卒倒しそうだし、ラナリアは額を押さえて小さく呻いた。
王妃は西方最大ラムダ王国王太后の姪にして、同規模の大国アレイム王国先王の姪、海洋国として大国と同等の繁栄と財力を持つネリス王国先王の第一王女だ。その容貌は、ネリス王国のそれ。
艶やかな波打つ漆黒の髪と滑らかな褐色の肌、煌めくが如きの金色の瞳をしている。
この国にはない特徴を有する王妃を、初見で見間違える者はまずいない。まして、ここは王妃の居宮である。
いない、はずだった…。
「哀れな娘だ」
それが何を差しているのか、アリスに察することが出来るわけがない。
すい、とごく自然な動きで王妃は扇を振り、一閃。
布地を裂く音とともに、アリスのドレスが胸元から臍下まで破かれ、慎ましすぎる胸元がおおよそ露わになっている。うっかり視界に入れたレヴィルが、不快なものを見たと言いたげに表情を歪めて視線をそらした姿に、イリスが少し心配げだったことに気付いたのはラナリアだけだった。
一拍後、悲鳴を上げて胸元を隠しうずくまるアリスを、王妃は侮蔑を込めて見下ろす。
「身の丈に合わぬドレスをまとっているのは哀れだ。今後は、身の丈に合った慎ましい装いを心掛けろ」
王妃が持つ扇には、護身の意味も込めて鉄と鋼糸が仕込まれている。布地くらいなら、簡単に切り裂ける。もちろん、一定以上の技量は必要になるが。
震えながらうずくまるアリスを無感動に見下ろした王妃は、騎士に連れていくように言おうと視線を外した。
その瞬間、アリスは顔を覆って泣きながら駆け去っていった。
病弱とは、と首を傾げるほどの見事な走りっぷりだった。
唐突過ぎる上に意外な行動に、王妃はしばらくポカンとしていたが、まぁいいか、と嘆息して元の席に戻る。
「10歳の少女の方が、よほど発育が良いのではないか?」
一息ついてから、辛辣極まりない感想を零した王妃に、誰もがそっと視線をそらした。イリスもレヴィルも言ってくれるな、と言わんばかりの渋い表情で、騎士や女官の中には肩を震わせている者もいる。
何より、平均よりはるかに豊かな胸元に鍛えられ引き締まった長身である王妃が言っては、誰も何も言えない。というか、うっかりアリスに同情してしまいそうになる。
その後、アリスに関しては第二陣が待ち構えているから、というラナリアと王妃に言われて、イリスとレヴィルはお茶会を続行した。
第一陣(ラナリアと王妃)の晴れやかな笑顔に、背筋が寒くなったのはイリスとレヴィルだけではないだろう…。