間 クレア
愚者はどこにでもいるが、殺意を抱くほどの愚者は稀である。
クルミスト帝国皇太子であるクレアは、帝位継承者として物心つくかどうかという年ごろから厳しく教育されて来た。その傍らに、現在の婚約者であるルディアスが常にいた。
幼馴染であり、常にともに会った存在。
親しくなり、密接な関係を持ち、心を通わせ、恋愛感情を抱くようになるのは必然だった。おそらく、父である皇帝も周囲の重臣達もそれを期待していた。
それを、クレアもルディアスも十分に理解している。だが、自分達の感情は確かなものであると信じているから、それにこだわることはない。
だからこそ、目の前にいるアスティルに呆れるしかない。
貴賓であるクレアの部屋は学院の寮ではなく王宮に設けられている。同じく貴賓であるアスティルも離れた位置の離宮であるが、王宮内に設けられている。ちなみに、ルディアスの部屋はクレアと同じ離宮に設けられている。
「つまり、ラムニアの王子殿下はこうおっしゃりたいのですね? イリスと親しくすることはわたくしの不利益になるからやめろ、と」
普段の勇ましさは鳴りを潜め、おっとりとした淑女の微笑みを浮かべたクレアは、その瞳に侮蔑を浮かべる。気付かれてもいい、と思ってのあからさまなものだが、アスティルは気付かない。空気が少しばかり強張った事に、クレアの背後に立つルディアスだけが気付いた。
「やめろ、とまでは言っていない。控えた方がいい、と言っているんだ」
砕けた口調で、仕方がないと言いたげにため息を吐く様子は、物を知らない幼子に教える大人の様だが、事実は真逆であるだけに失笑ものだ。
王族としてある種の敏感さは絶対的に必要である。それがなければ気付けない種類の視線と気配を、クレアはこれ見よがしに向けている。それなりの腕と鍛錬を積んでさえいれば、例え武芸者で無かろうと気付ける類の物。
武芸者ならば、こう表現する。
殺気、と。
「バカバカしい」
淑女としての楚々とした所作を捨てて乱雑に前髪をかき上げ、おっとりとした微笑みを消して不愉快そうに表情を歪ませたクレアに、アスティルはポカンとする。
間抜け面をさらす様に、本気でクレアを『お姫様』と認識していたことを再確認して、ルディアスは憐れみを込めた視線を向ける。いかに第4王子と言えども、この鈍感さは救いようがない。
「今までで十分に理解していたが、改めて認識した。お前に王族を名乗る資格はない。母国に戻ったら、王籍を返上して野に下れ。貴族位にあるのすらおこがましい」
吐き捨てるように言えば、徐々に理解が及んだらしいアスティルは頬を引き攣らせる。
「…それが本性か。あの傲慢で強欲な女と友人なだけあって、仮面をかぶって皆を騙していたのだなっ! 恥を知れっ!」
「本音と建前の使い分けは王侯貴族に限らず、対人関係では必須だろう。それの何が恥だ。相手の裏を読み取りもできず、他国の王宮で他国の皇太子の前で醜態をさらすお前の存在そのものがラムニアにとっての恥だ」
冷ややかに一刀両断するクレアに、ルディアスは確かにと内心で頷く。
どう考えても、クレアの言い分の方が正しい。
「ラムニアの第4王子。本来なら、お前を教育し正道に立たせるべきはラムニア王家の責だ。だが、ここにはいらっしゃらないし、わたし自身も我慢の限界だから言わせてもらう」
一拍置いたクレアは、肩を怒らせて自分を見下ろしてくるアスティルの瞳に視線を合わせたまま、ゆっくりと立ち上がる。
「お前がイリスに言ったこと、色ボケ公爵令息と花畑伯爵令嬢を応援したこと、その全てが赤っ恥もいいところの的外れ極まりない愚劣で下劣な言動であったことに、お前はまだ気付いていないのだろう?」
「なっ…」
「イリスと色ボケ公爵令息の婚約は、色ボケ公爵令息が言い出し、公爵夫妻が伯爵家に打診して成立したものだ。伯爵位の中でも上位とはいえ、王家に近い公爵家に嫁ぐのにジェノヴィア伯爵家は釣り合わない。周囲からの注目と粗を探して足元をすくおうとする悪意、あらゆる重圧、表に出れば出るほど高まる期待と警戒、当時、10歳のイリスがよくぞ潰れなかったものだとわたしは感心しているくらいだが、お前は違うんだな」
初めて聞いた、と言わんばかりの表情でアスティルは立ち尽くす。
クレアが言ったことは、ラティルカ国内、とりわけ、貴族社会では有名な話だ。
筆頭貴族とも言える公爵家の婚約事情だ。誰もが注目したし、情報を集め続けていた。
最高株(王族は雲上の存在なので視野に入らない)を奪ったに等しいイリスに嫉妬と悪意が集まったが、時を経るにつれて王族に嫁ぐのと同じくらい厳格な教育を施され、苛烈なまでの家族からの重圧と監視にさらされているイリスに、周囲は同情を向け始めていたくらいだ。それほどまでに、イリスが受けた公爵夫人になる為の教育は熾烈を極めた。不必要なほどに。
「通常、上位、しかも王家に近く王太后の妹姫が降嫁した公爵家からの申し出を、たかが伯爵家に払いのけることは不可能だ。たとえ、強制ではない、と公爵夫妻が言った所で、断れば周囲から不遜不敬と誹り蔑まれるのだから、断る、という選択肢は元から存在しない。…先に言っておくが、公爵夫妻はイリスを名指ししている。『ジェノヴィア伯爵令嬢』ではなく、『ジェノヴィア伯爵家のイリス嬢』と」
ここで、アスティルは気付くべきだった。
クレアの言葉を裏返せば、自分が言ったことが的外れであると気付けた。そして、自身の未来を守ることが出来た。
「…だから、どうした。ジーンとアリスの想いを知りながら、公爵家から打診された婚約を解消することもできたのにその事実を盾に、二人を悲しませて引き裂こうとしている事実に変わりはないだろう!」
「お前のそれは妄想だ」
確固たる意志で言い切ったアスティルだが、クレアに両断される。
イリスがジーンとアリスの想いを知っていたのは事実だが、婚約を盾に引き裂こうとしたことはない。将来の公爵夫人として積み重ねるべきことが多すぎて、途中からは別の理由も混ざって、多忙だったから二人に対して、積極的に接触すらしていない。
引き裂くとかそういう話以前の問題だし、そもそもとして、婚約解消をイリスから申し出られるわけがない。
「公爵家からの申し出を断ることが不可能であったように、身分が下である伯爵家の令嬢如きが婚約解消を提言することすら不可能だ。下手をして、一家取り潰しになったらどうする。公爵夫妻はおっとりし過ぎているほどに穏やかだが、それだけの権力がある。まして、公爵家にとってみれば、こちらから望んだ婚約であるにもかかわらず解消理由は色ボケ公爵令息の心移り、とくれば絶大な醜聞になる。表立っては誰も言わないかもしれないが、表立つことはないからこそ、大きなダメージになるだろう。まして、先代の醜聞はまだ語り草だ」
ジーンの祖父がやらかした(実際は未遂)前例がある為、尚の事、公爵家にとって婚姻関係におけるトラブルは控えたいだろう。
ならば、どうするか。
イリスに泥を被ってもらうしかない。
人が良い所のある公爵夫妻だが、二人とも王族にほど近くあるから、腹黒い事も軽くこなせる。
息子の醜聞を表向きと言えども払拭する為に、解消理由をイリスの心変わり、ということにしてしまう事は可能だ。
醜聞だけならばイリスは構わなかっただろうが、害を受けるのはイリスだけではなく、伯爵家と領民だ。
筆頭公爵に立てつき、怒りを買った。
と誰もが想い、ジェノヴィア伯爵家と距離を置くだろう。そうなれば、経済や流通にも支障をきたし、総括的に領民の生活を危ぶませてしまう。少し考える頭を持った貴族ならば、即座にそこにいきつく。
行き着かないアスティルは、不満げに眉を寄せる。
「お前の感情なんざ知らん。言い分も知らん。正しいと思うのなら、その通りにすればいい。結果、どうなるかはわたしには関係がない事だ」
冷たく突き放して、クレアはアスティルから視線を外し、ルディアスを見る。
「お帰り願え」
「はい」
一国の王子の襟首を問答無用でつかんだルディアスは、平均的な身長と体重であろうアスティルを軽々と引きずる。
離宮にはこの王宮に仕える女官や従僕が配属されているのだが、誰もがルディアス達から視線をそらして知らぬ存ぜぬを通す。
女官は貴族、最低でも騎士階級の出身者ばかりであるし、従僕とて貴族社会に触れる事のある家柄の者ばかりだ。考えるまでもなく、アスティルが間違っていると彼らは理解している。
さらにいえば、大国の皇太子であるクレアと予備にもならない中堅国の第4王子であるアスティルでは、立場の重みが違う。クレアを重視したとて、何も問題はない。
離宮の入り口まで引きずってきたルディアスだが、その間、アスティルがずっと喚き続けていたことは丸っと無視している。
「大公家の次男如きが、一国の王子に手を上げるなど言語道断! 適切な処罰が下るだろう!」
「私は一度として、貴方に触れておりません」
「貴様っ、今まさにボクを…」
「あぁ、衣服には触れましたね。それが手を上げた、と? なら、貴方のどこに怪我があるのでしょうね。手を上げた、ということは暴行した、ということでしょう? どこにも怪我は見当たらないようですが?」
近くに居た女官は目を丸くしてあたりを見回し、挙動不審になる。警備の為にいる衛兵も庭師も、あんぐりと口を上げて驚愕をあらわにしている。
彼らの心は一つだった。
ルディアス様が喋った、と。
正確には、長文を喋った、だろう。
ルディアスは感情の起伏が表に現れにくい上、口数が少ない。口を開いても、非常に短く端的だ。クレアに対してだけは言葉を惜しまないが、その事を知る者は少ない。気心知れた幼馴染でもある二人は、一言二言で意思の疎通が出来てしまう為だ。当然、イリス達生徒会メンバー(ジーンは除く)は知っている。
そんなルディアスが、蔑みを隠しもしない眼差しを向けて、アスティルに長々と言葉を向けたことに周囲は驚愕したのだ。
アスティルはそもそも接触が全くと言って良いほどなかったので、その事を知らない。言われた言葉への反論が出てこず、顔を真っ赤にしてルディアスを睨みつける。
その様子に、ルディアスは小さくため息をつく。
「貴方は、何年間王子として過ごされて来たのですか」
「は?」
意味が分からない、と言いたげなアスティルに、ルディアスは淡々と思ったことだけを告げる。
「私は大公家の者ですが、祖父が先帝の従兄弟である為、皇族と同じ教育を施されてきました。クレア様の婚約者になってからは、尚の事。教育の間中、言われ続けました。統治者は統治する存在あってこそ、と」
「…何を当たり前のことを」
「貴方は、当たり前、と仰るがそれは貴方の『当たり前』ではないでしょう。文字を知っているだけ、理解しているわけではない。人を殺してはいけない、というような幼子でもわかるほどの常識として貴方は頭に置いているだけ。その実を飲み込んでいらっしゃらない」
だからそこまで愚かな言動が出来るのだ、とルディアスは続けなかった。
疑問符を浮かべ続けるアスティルには、何を言っても無駄だと理解したのと同時に、視界に収めるのも嫌だ、と思ったからだ。
「…他国の皇太子への非常識な言動は、後日、国を通してラムニアに抗議させていただきます」
ルディアスの振りまく気配が剣呑すぎて近づけなかったアスティルの従者達が、ようやく動き出す。ルディアスが背を向け、離宮内に戻っていったからだ。
アスティルが何を思ったのか、どうでもよかった。
何を思っても、もう遅い。
ルディアスが部屋に戻れば、クレアは行儀悪くソファに寝そべっていた。
ひじ掛けに腰掛け、ふわふわと癖のあるクレアの髪に指を絡ませて、ルディアスは瞳を細める。
女官も従僕もいない空間に、恋人同士の甘い空気が流れる。
「…ルディアス」
「何だ」
二人きりだから、いつもなら敬語を崩さないルディアスはぞんざいな口調でクレアに応える。
「わたしは、一国を預かる立場として、多分間違っている」
クレアの断言に、ルディアスは何も言わない。それが肯定であると、長い付き合いのクレアにはわかった。
「個に肩入れせず、全を見て、全を思い、全に尽くし、全と共に在るべし。わたしは、かつて、父上にそう言って説教をした。なのに、今では個に肩入れしている。皮肉だな」
落とすように続く言葉は、独白の様。
聞く者の返しを、望まないものだ。
「…ルディアス以外はいらない、と拒絶していたわたしを世界に引っ張り出してくれたイリスの味方で居たい。でも、それは本当は間違っているんだ」
留学以前の事件が原因で、クレアは自分の父にですら心を許せなくなった。そのことを、皇帝は心から反省して鋭意努力中だが、現状、クレアは心を許していない。
皇太子という身分も手伝い、留学しても話しかける者はいなかった。
生徒会役員で先輩、ハムニア公爵継嗣の婚約者という立場にあったイリス以外は。
きっと、それは義務だった。責任だった。
当たり障りのない話し方、内容、適切な距離感。
貴族令嬢の見本、としか言いようのない完璧さでイリスはクレアに接し続けた。それでいいとクレアは思っていたし、責任故の言動は楽でもあった。
イリスもまた、表に出さないだけで打算と下心でもって自分に近づいているのだ、とクレアは思っていた。
それをひっくり返されたのは、他の女生徒数人に囲まれているイリスに遭遇した時だ。イリスは気付いていなかっただろう。
「わたくしはわたくしの意思で、クレア殿下の隣に腰掛ける権利が欲しいと思ったまでです。おこがましい事は重々承知のうえで、わたくしはクレア殿下の友になれたならば、と思って行動しているだけ。貴方方も、真実そうありたいと思うのであれば、臆することなくクレア殿下にお声をかければよろしいでしょう。…誠意ある方をむげに扱われるような、非道な方ではありませんよ」
女生徒との話を全部聞いたわけではない。だが、おそらくは、クレアに唯一話しかけて一見すると近しく親しくしているように見えるイリスに、女生徒達は嫉妬の矛を向けたのだろう。きっと、ルディアスの存在もある。女性が好きそうな、男らしくも繊細に整った容貌は、十分に美形と言える為、子供の頃から女性の視線を集めていたからだ。
文句を言われたイリスはただ淡々と告げ、さっさと踵を返した。
イリスの意思を、その時初めて知った。それが上辺だけの建前かもしれない可能性は十分にあったが、その後、イリスはクレアに同じことを告げて瞳を細めた。
あの時、うっかり立ち聞きしてしまったクレアに気付いていたらしい。
「もしも、御不快でないのなら隣に腰掛ける権利を、お嫌いでないのなら一時語らう権利を、いただきたいと思います」
常から変わらない表情をわずかに緩めたイリスの言葉に、クレアはかけてみた。
結果は、皆の知る通り。
イリスと友になり、カーライルとミニーナと知り合い、王太后や王妃とも交流を持った。
世界は、目に見えて広がった。
もう、ルディアスだけで良い、とはクレアは言えない。
そして、それはルディアスも同じだった。
「確かに間違っている。でも、人としてそれは正しい」
静かなルディアスの肯定と否定。
「今、ここにいて、動いて、話しているのはクルミスト帝国の皇太子クレア・ラヴァリス=クルミストじゃない。ただのクレアだ。国家に関わることを話し合っているんじゃないから、友人を優先しても問題ない。―――あのバカみたいに、公私混同さえしなければ、何も問題ない」
アスティルを例として出すが、あれは非常に極端だ。同時に、非常にわかりやすい。
「明日、全てが終わる。その時、クレアは笑顔でイリス嬢を祝福すれば良い」
それだけでいい。
ルディアスの単調ながら柔らかな声が告げれば、クレアは弱弱しい笑みを浮かべる。
皇太子として、友として。
板挟みになったが故の葛藤を良く知るからこそ、ルディアスは肯定し否定する。
髪を撫でるルディアスの手を握り、クレアはそっと瞳を閉ざした。
世界を広げてくれた無二の友人に、情けない姿を見せない為、今はただ明日の為に眠る。