第三話
青い空のように純粋に、大切だと思えた時期は遥か彼方。
ハムニア公爵家の庭園で、ティーカップを傾けるイリスはどこか意識もそぞろなジーンを見やり、ため息を吐く。
「それでは、失礼させていただきます」
紅茶を飲み干して、努めて感情をこめずにイリスは流れるような所作で立ち上がる。
そこで初めて、ジーンはイリスを見た。
使用人にイリスが案内された時、ジーンはすでに席に座っていた。その時から、ジーンの視線はイリスに向かず、声もかけていない。
離れたところに控えている侍女や従僕が、イリスに気づかわしげな線を向けたりするほどだ。そして、イリスが立ち上がったことで彼らはほっと安堵の息を吐いた。
「…いきなりなんだ」
「ジーン様。わたくしも暇ではありません。するべきことは多く、責任も重いのです。婚約者との逢瀬でその存在を忘れておられる方を眺めているような趣味も時間もございません」
当たり障りのない発言が多いイリスにしては珍しく、険を含んだ言葉にジーンの眉が寄る。
気付いていないのかもしれない。自分の態度が、婚約者にあるまじきものである、と。
「何のことを言っているんだ。わざわざ、俺が時間を割いて…」
「そうですね。学院では休み時間の度にアリスに会いに行かれ、帰寮時間ギリギリまでアリスと一緒にカフェの一角を陣取り、朝早くにアリスをエスコートする為に寮を出られるジーン様は、非常にお忙しいお方です。ですから、わたくしの為に時間を割かれる必要はございません。えぇ、思う方とご存分に」
暗に仕事をしないことを指摘し、アリスとの仲を知っているのだと示した。
すると、ジーンが驚いたように瞳を見開くので、イリスは頭痛がしてくるような気がした。
あんな公衆の面前でいちゃついておいて、知られていないと思っているとは。
「どこにいても耳目を集める立場であることをご理解ください。そして、人の口に戸は立てられぬものです」
もう言うことはない、と言わんばかりの体でイリスは背を向ける。
引き留めるように名を呼ばれ、足を止めて半身を向ける。
「四日後、王宮でお会いしましょう」
もう呼び止められることはなかったので、迷いのない足取りで屋敷の中を歩く。
ジーンの前を辞したが、屋敷から出るとは一言もいっていない。
廊下を歩くイリスに、通りかかる使用人達は壁際によって立ち止まり、頭を下げる。それに労いの言葉を一言かけて、通りすぎる。
ささやかな、何気ない労りと気遣いができるイリスに、使用人達は親しみと敬意を抱いている。だからこそ、仕える身にあるまじきことながらジーンにたいして苛立ちを抱かずにはいられなかった。
「失礼致します」
扉の前で声をかけ、入室の許可を得てイリスは扉に手をかける。
執事の仲介もなくイリスが一人でここを訪れる時、それは公に属する仕事の話が関係していることを示している。
重厚な執務机につく男性・ハムニア公爵はやや緊張した面持ちでイリスの言葉を待った。
「四日後、王宮における集まりについて、妃殿下から書状を預かっております」
淡々とした声音は以前と変わらないはずなのに、ハムニア公爵は責められているように感じた。それが罪悪感からの錯覚と分かっているのに。
「そうか。そういえば、ジーンと会っていたようだが…」
「アリスの事ばかり気にかけておいでだったので、辞して参りました」
「…申し訳ない」
「いいえ。もう、期待してはおりませんから」
きっぱりとした言葉が、突き刺さる心地がした。感じるべきなのはどこかの誰かなのだが。
「公爵閣下…」
「何かね?」
「よろしいのですか?」
間をあけないイリスの問いかけが意味するところを、ハムニア公爵は理解した。だからこそ、瞳を伏せてそっと息を吐いた。
「君は、優しいな」
「優しさに優しさで返すのは何らおかしくない事かと。公爵夫妻には、良くしていただいておりますから」
それはイリスの本心だった。だが、ハムニア公爵にとっては痛烈な皮肉だった。
裏が無い事を知っているからこそ、ハムニア公爵には何も言えず、何もできない。
イリスは意図せずして、ハムニア公爵に最も鋭い刃を突きつけている。贖罪を許さず、断罪をせずに、ある種の生殺しの状態で。
「…今後とも、何かと君には迷惑をかけることになるだろう」
「迷惑ではありません。将来に対して、必要な事ですので、謝罪は不要です」
きっぱりと、真実そう思っている声音で告げるイリスに、ハムニア公爵は弱弱しく微笑む。
「そうか」
「はい」
要件を終えたイリスは、綺麗に一礼して去っていく。その背中に注がれるのは、落胆の眼差し。ただ、イリスに向けられた感情ではないけれど。
自身に向けられる眼差しの意味を、感情の意味を取りこぼすことなく理解しているイリスは、わずかに疲労を乗せた息を吐く。
緊張感からではなく、重苦しい圧迫感故に。
次期公爵夫人の立場、そこから、変動した立場がそれに拍車をかけた。だが、全ては自分で望んだ結果である。
イリスはそれを分かっているからこそ、弱音を吐かない。ただ一人以外に。
玄関へと降りれば、使用人達が送り出す為に控えていた。外には一台の豪奢な馬車。御者も上質な衣服を身にまとっている。御者のエスコートで馬車に乗り込んだイリスを、使用人達は一糸乱れぬ動作で一礼して見送った。
これまでの間に、ジーンはイリスの前に姿を現すことはなかった。
※※※
馬車が向かうのはジェノヴィア伯爵家の王都屋敷でも学院の寮でもなく、王宮。
イリスは公爵夫人の付き添いで王太后もしくは王妃(または両方)に謁見すること数度、気に入られたらしく何度か茶会に呼ばれている。
その為、通用門の警備兵も馬車どまりの従僕も、イリスの事をよく知っており恭しく礼を取った。
彼らは、イリスの立場と身分を正しく知っている。
労いの言葉を端的に述べて、女官の案内でイリスが向かったのは、王太后の居宮だった。
「よく来ましたね、イリス」
「お久しぶりにございます、ラナリア王太后様」
真っ白になった髪を緩く結い上げた老女・ラナリアは、皺の刻まれた眦を緩ませた。
ラナリアは先々代の第1王女、この国では女に継承権が与えられない為、婿を取って王妃として傍らにあった。その政治手腕、外交手腕は男であったなら、と父王に嘆かせるほどであった為、淑やかな王妃では決してなかった。
ちなみに、ハムニア公爵の母親はラナリアの異母妹である。
「ジェイクは昔から優しい子でしたが、こんなところまで…。優しさと甘さは全く違うというのに…」
ハムニア公爵との会話を簡潔に告げれば、ラナリアは頭が痛いと言わんばかりにため息をついて額を抑えた。ジェイクとはハムニア公爵の名である。
「どうあっても、我が子には甘くなるのが親という者なのでは…?」
「貴方が言うと、痛烈な皮肉になりますね、イリス」
確かに、と自分で言っておきながらイリスも思った。
苦笑を浮かべれば、ラナリアも苦い物を含んだ笑みを浮かべて再び深いため息をついた。
「飴と鞭、とはよく言ったものです。どちらに偏っても歪み、どちらかが欠けても歪む。バランスが大切ですね。それも、相手をよく知った上で、配分を考えなくてはならない。子育てというものは、難しい」
「そのようです」
「思えば、あれはもうハムニア公爵家の血なのでしょう。妹を降嫁させる前にも、面倒事を起こしてくれました」
「…そうなのですか?」
「ジェイクの父、先代のハムニア公爵は妹の降嫁が決まっているにもかかわらず、男爵令嬢と恋に落ちて実質的な正妻に据えようとしていたのです。妹をお飾りにして」
「…頭、大丈夫ですか」
疑問符のないイリスの言葉に、冷徹さを感じ取ったらしい女官(部屋の隅に控えていた)が小さく身じろいだ。
イリスの発言はもっともである。
たとえ王家に近い公爵家とは言え、側妃腹であるにしても王女に対してそんな事をすれば、反逆と問われて一族郎党斬首でも文句は言えない。
「全くです。まぁ、妹が密会現場に乗り込んで双方の頬をはたき倒し、正論と鬱憤をぶちまけて男爵令嬢に身を引かせ、先代公爵に諦めさせたのですが」
「素晴らしい女性ですね。お会いできなかったのが残念でなりません」
当時、王位を継ぐ立場であるラナリアの負担を少なくしよう、何か手助けをしたい、と努力に努力を重ね、気が強い性質だが淑女としての振る舞いが完璧な美姫として、彼女は有名だった。だからこそ、先代ハムニア公爵の恋愛事情は嘲笑の的となった。
彼女は、ジェイクが跡を継ぐ前年、ジーンが生まれる前に亡くなっている。
「妹が生きていれば、ジーンの腐った性根を叩き直してくれたでしょうに」
「そうですね」
その様を思い描いて、イリスは素直にうなずいた。
自分の夫と同じ過ちをしている孫に、烈火のごとく怒り狂ったのではないかと、予想した。
「イリス」
「はい」
「大丈夫ですか」
「…はい」
少しだけ、力弱く声を落としたイリスの頷きに、ラナリアは痛ましげに視線を伏せた。
四日後、全てが、終わる。