第二話
現実を見ずに過ごせることを羨ましいと思ったのは過去の事。
目の前の男子生徒を見て、イリスはゆっくりと一度瞬いた。
怒りをあらわにしている男子生徒は、クレアと同じく他国からの留学生だ。ただし、その立場は違う。
クレアと同じく王族ではあるが、男子生徒は第四子。嫌な言い方をすれば、替えの利く駒でしかない。
だからと言って、イリスは蔑ろにすることはない。軽い立場と言えども、王族を蔑ろにすれば国際問題に発展する。誰もが彼に対して気遣いと敬意を忘れない。それがなくても、イリスは彼を平等に、対等な同級生として接して来た。
そう、彼はイリスと同じく最高学年に在籍している。
ふわふわした癖のある短く切った金髪と大きな紫色の瞳をしたやや童顔気味の男子生徒は、イリスを侮蔑もあらわに睨みつけている。
「君も、いつまでも強情だね。そんなだから、ジーンに厭われるんだ」
「さようですか」
「君と違って、アリスは思いやり深くて優しい、責務や義務を叫ぶばかりのヒステリックな君とは正反対だ」
「さようですか」
挑発するかのように言い募る言葉に、イリスの反応は一貫している。まるで雑音を払うかのような素っ気なさだ。そこにあるのは、面倒だな、という疲れだけなのだが、相手はそうは受け取らなかった。
「その能面の下で、またアリスを虐げる算段でもしているんだろうが、そうはいかない。ボクとジーンが絶対に阻んでみせる」
「…さようですか」
吐き出しかけたため息をなんとか飲み込んだイリスは、次いでこめかみを抑えたい思いを押し殺した。
それにより眉間にわずかな皺が寄ってしまい、見守る友人達はイリスに痛ましい視線を向ける。
実はここ、生徒達がサロンを開く個室が並ぶサロン棟への入り口である。
当然、多数の視線にさらされる。イリスと友人達だけがサロン棟を使用するわけではないのだから当たり前だ。
そんな場所で、こんな話をすればどうなるのか、そんなことにも思い至らないらしい男子生徒には、主に女生徒(ほぼ最高学年)からの険しい視線が向けられている。
2・3年前までは熱い視線だったのだが、今ではすっかり鬱陶しい羽虫を見るような視線だ。貴族として社交界に出てそれなりに見聞きしてきた彼女達は、非常にシビアである。
「口うるさいお方ですのね、アスティル殿下」
いい加減我慢ならなくなった友人の一人が前に出そうになったのを制していたイリスの耳に、出来れば聞きたくない声が届いた。
あからさまな怒りと見下しが込められた声音は、まだ幼い少女の物。
誰もが視線を向ければ、知らぬ者はいないであろう有名な少女が腰に手を当てて男子生徒・アスティルを睨んでいた。
「…これはフィオーラ嬢。貴女もこの業突張りを諌めたらいかがかな。姉と呼ぶにふさわしい人物ではないだろう」
「許しもなく淑女の名を呼ぶなど非礼ですわ。改めていただけます?」
「そんな、ボクと貴女の仲ではありませんか」
「特筆すべき関係はありませんわ。あるとすれば、無関係、ですわね」
はっと吐き捨てる少女は、豪奢な金の髪を真珠の髪飾りでまとめ、大きな淡い灰色の瞳を和らげてイリスに歩み寄る。
「お探しいたしました、イリスお義姉様。わたし、母に呼ばれておりますので今日中に屋敷に戻らなくてはならなくなりましたの。その前に、どうしてもお伝えしたいことがありまして、ご友人の皆様とサロン棟をご利用されるとお聞きしたものですから、先触れもなく無礼とは思いましたがこうしてやってまいりましたの」
朗らかに、弾んだ声音で嬉しそうに頬を紅潮させてイリスに話しかける姿は、何とも可愛らしい。
先ほどの冷徹なまでの姿はどこへやら。
ちなみに、アスティルの言葉を聞いているようで聞いていない様子に、アスティル本人だけが気付いていない。
フィオーラの言葉に、イリスは一瞬だけ痛ましい光を浮かべたがすぐにいつも通りの冷静な眼差しに戻った。
「そうですか。公爵夫人もお忙しい方ですから、遅れるわけにはまいりませんものね。何か、わたくしがすべきことがあるのでしょう?」
「はい。準備が整いましたので、六日後をお楽しみに、と」
弾んだ声音で告げられて、イリスはそうと一つ頷くことしか出来なかった。動かない表情の下で、罪悪感を覚えていた。
「分かりました。両親にも、そう伝えておきます。六日後、また」
穏やかにそう告げれば、フィオーラは嬉しそうに笑って頷いた。そして、ずっとイリスを睨んでいたアスティルを振り返る。その瞳には、侮蔑の光が宿っていた。
「殿下、ここは皆様の憩いの場です。その空気を壊すような無作法な真似はお控えなさいませ。何よりも、事実無根、虚実をもって中身のない愚言をか弱い婦女子に向けるのは男の風上にも置けない下衆の極みですわ。反省なさいませ」
激烈な非難を浴びて、アスティルはショックを受けたように瞳を見開き、イリスをきつく睨みつける。アスティルの中にいるイリスがどんな悪女なのか、イリス自身ちょっと興味が湧いたが気分が悪くなること間違いなしなのでそんなものはなかったことにする。
「フィオーラ様、お口が過ぎます。アスティル殿下はただジーン様の事を思い、気が高ぶった為に少々荒いお言葉になられただけです。友情に篤い方なのです。フィオーラ様の忠告で、以後はお気を付けくださいます」
フィオーラを窘め、アスティルを擁護しているようでその言動を牽制するイリスに、気付かない者の方が少ない。高位貴族出身であれば、気付かずにいるのは無能の証明に他ならない。
当のアスティルは気付いていないようだが。
「…フィオーラ嬢に免じて今日はここまでにしよう。だが、その傲慢がいつまでも続けられると思わないことだよ。公爵夫妻も英断を成されるだろう」
「そうですね。そうであることを、願います」
瞳を伏せて呟かれた言葉は、後半はきっとフィオーラにしか届かなかった。
幾度も呼び方を訂正されているにもかかわらず、フィオーラを名前で呼ぶアスティルは姿勢よく颯爽と去っていく。向けられる女生徒達の視線に友好的なものはない。
「フィオーラ様」
「…だって、あの方、何もわかっておられないんですもの。おバカさんの発言で、お義姉様が煩わしい思いをなさっているかと思うと」
窘めるように静かに名を呼ばれたフィオーラは、イリスから視線をそっとそらしてもごもごと言い訳をする。
気が強くはきはきとしているフィオーラのしおらしい様子に、数度瞬いたイリスは少々不器用な微笑みを浮かべて、そって頭を撫でた。
「その髪飾り、気に入ってもらえたようで嬉しいわ」
「はいっ。お義姉様が下さったものですもの! 毎日磨いて大切にしておりますわ!」
「なら、貴方の事も大切にしてちょうだい」
「…え」
「きつい物言いをしては敵を作ってしまうわ。アスティル殿下に非があるのは事実でも、相手は王族であることを忘れないで。わたくしの為、貴方が不利な立場に置かれたら悲しいわ。…貴方が、わたくしに煩わしい思いをしてほしくない、と思ってくれているのと同じように思っている事を、分かってちょうだい。自分を大切にして、大事に磨いて、いつでも輝く笑顔を見せて。その方が、わたくしはずっとずっと嬉しいし幸せだわ」
砕けた口調で優しく言い募られて、フィオーラは頬を淡く染めて頷いた。
イリスとフィオーラの様子に、イリスの友人達は微笑ましいと言わんばかりの眼差しで見守っていた。
その様子に気付いたフィオーラが慌てて礼を取り、そそっと帰っていく。
「…人前で、頭を撫でるのはダメだったかしら」
ちょっと寂しげに呟くイリスに、友人達は生ぬるい笑みを浮かべて何も言わず、サロンの入口へと促した。
照れたゆえの素っ気なさであるのだが、言った所でイリスはきっと理解しないだろう、と彼女達は十分に理解していた。