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幸福の在り処  作者:
本編
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第一話


最早、視界に入れるのすらも億劫だ。






 窓から見下ろせる中庭に仲睦まじい男女の姿を認め、ジェノヴィア伯爵令嬢イリスは無感動に視線を逸らすと歩き始めた。

 腕に抱える数十枚の書類は、イリスが触れる必要のないものだった。本来ならば。


 王立アリエスティール学院。

 13歳から18歳までの6年間を貴族子女が過ごす学舎である。

 初代王妃の名を冠するこの学院は、基本的には生徒主導で運営され、生徒会の権限が強い。将来的に国家運営に携わる立場の者が多いからだ。

 現在、生徒会役員の中で最高学年に所属するのは二人、イリスともう一人は中庭にいた片割れの男、イリスの婚約者であるハムニア公爵家嫡男ジーンだ。

 イリスが持つ書類は、本来生徒会長であるジーンが決済をして管理しなくてはならないもの。だが、隣にいた女にかまけるあまり蔑ろにした結果、書記でありながら年齢も爵位も他の役員よりも上であるため、イリスが請け負わざるを得なくなったのだ。

 ちなみに、ここ3年間ずっと、である。


「失礼致します。第6学年総合科所属、生徒会書記イリス・ジェノヴィアです」


 ノックをして返事を待ってから扉を開け、丁寧に名乗って一礼したイリスに、室内の人々、教師達は朗らかな表情を向ける。礼儀正しい模範生であり、身分に拘らず驕らないイリスは人気がある。直接関わったことがある者、に限定されるが。


 生徒会顧問である老齢の教師に書類を渡し、お茶に誘われたが仕事が山積みであることを理由に丁寧に辞去する。ジーンがちゃんと仕事をしていれば、お茶ぐらい一緒に出来たのだが。


 来た道を戻る途中、ふと視線を向けた中庭に、まだジーンと女がいた。女が笑顔で手を口元に添え、ジーンの耳元に囁いている。ジーンも笑顔で愛しげな視線を向けている。

 その姿が、多数の視線にさらされていると、二人とも理解しているのだろうか、とイリスは若干の呆れをもって思い、再び歩き出す。

 仕事が山積みなのだ。

 公然と婚約者の姉と浮気をしても悪びれない恥知らずに構っている余裕は、イリスにはなかった。



※※※



 教師達にとって礼儀正しい模範生であるイリスの印象は、生徒達の視点からは異なった印象になっている。


 婚約者に執着し、自身の姉と相思相愛であると理解しながら知らぬふりをして仲を潰そうとする悪女。まだ貴族社会のどろどろした部分を実感していない、夢見がちで理想高い1年生や2年生の少数のもの。

 婚約者を引き止められず可憐な姉に奪われながら、立場にすがるしかないみじめな女。伯爵令嬢でありながら、王の従兄である公爵の嫡男の婚約者であるイリスを妬む女生徒達。

 恥知らずの婚約者と非常識な姉を持ち、それを諌めない家族を持った苦労人の女性。妬む事すら出来ない下級貴族や庶民、貴族社会をよく知りイリスを知る者達。


 三つに分かれる印象だが、高学年になるにつれて三つ目、苦労人、という印象が強くなる。それだけ、長い時間を共に過ごしてきた、というのに加えてイリスの寝る間もないほどの公爵夫人としての教育状況を目の当たりにしているからだろう。特に女生徒。

 だが、この状況に一石が投じられてすでに三ヶ月。印象の割合は、大きく変わってきている。


「姉上」


 生徒会室に戻って来たイリスに、紅茶を入れていた少年が笑みを浮かべて出迎えた。他の役員達は休憩に一足先に入ったらしく、紅茶を飲んでほっと息を吐いている。


「アダラの良いのが入ったので、ベネットが送ってくれたんです。姉上もどうぞ」


 会長の席に当然のごとく座ったイリスの前に、少年がカップを置けば普段滅多な事では動かない表情を崩して、イリスは微笑む。


「ありがとう、レヴィル」


 穏やかなイリスの声に、少年・レヴィルはにっこりと笑う。

 レヴィルはイリスの実弟であり、ジェノヴィア伯爵家の次男で末っ子。現在は1年生だ。

 何を隠そう、三竦みだったイリスへの印象の割合を変えたのは、このレヴィルだった。

 家での様子、厳しい教育内容を目の当たりにしていたレヴィルは、口さがない同級生達に入学して半月で怒り爆発した。


 とはいえ、具体的に何か行動に出たわけではない。単純に、無視したのである。怒鳴り散らさなかっただけの理性があったことに、イリス以外の生徒会役員達は褒め称えた。もちろん、ジーンはその中にいない。


 ジェノヴィア伯爵家は伯爵の中でも上位に入る。筆頭ではないが、それなりに上にいるから、末っ子とはいえそこの子息に嫌悪される事態は伯爵以下の令息令嬢はどうしても避けたかった。

 だが、だからといってすぐにイリスに媚びるような発言をしたり、ひたすらジーンとアリスを貶める発言をした者達を、レヴィルが受け入れるわけもない。

 それにより、クラス内で孤立することになったがレヴィルは気にしていない。レヴィルにとって、家族とはイリスと使用人達を差す。大切な家族を侮辱されて、謝罪もしない輩に情けをかける必要性が、レヴィルには見いだせなかった。

 ちなみに、ちゃんと貴族情勢を理解し現実を見ている他クラスの生徒とは親交を持っているので、クラス内に限定しなければボッチではない。


「レヴィ君、おかわり~」


「おかわりは構いませんが…。ミニーナ先輩、レヴィ君、はやめてくださいと…」


「えぇ~、だって、自己紹介の時に好きに呼んでください、て言ったじゃない」


 それを言われるとレヴィルには何も言えない。

 迂闊なことを言った一ヶ月半前を後悔しているレヴィルを見て、イリスは笑みを深める。


 声の様におっとりした雰囲気の少女・ミニーナはコルキート子爵家の令嬢だ。家とか関係なく、ただの先輩後輩で、という心遣いから出たであろうレヴィルの言葉を、正しく理解しながらからかっているだけだと、イリスは知っている。

 イリスの3歳下であるミニーナは3年生。専門課程を選び、知識の幅も底も広く深くなる学年だ。しかも、ミニーナは商売で財を成して子爵位までに成り上がったコルキートの娘らしく、自らも事業展開をしている。その内容をよく知るイリスは、専門課程、生徒会役員業務、事業、と三足の草鞋を履いている現状は非常に疲れるだろうと察する。

 疲労回復に、レヴィルをからかうこと、という項目があるのが何とも言い難いが、実害があるわけではないのでイリスは放置している。


「諦めろ、レヴィル。生徒会室内でのみの事だから」


「カーライル先輩は、不本意なあだ名で呼ばれて気にしないんですか…」


「まさか。徹底抗議の上、実力行使してやる」


 一人だけブラックコーヒーをすすっている少年・カーライルに、それはミニーナの婚約者だからできることだ、とイリスとレヴィルは思ったが口には出さなかった。


 イリスの一歳下であるカーライルはシェルク伯爵家嫡男で、ジェノヴィア伯爵家と同等かちょっと下、という家格だ。生徒会では副会長なので、ジーン不在の場合、決定権はカーライルにある。その裁決をカーライルはイリスにゆだね、一人で処理は絶対にしないが。

 学院に入ってからミニーナと知り合ったようだが、何時知り合ったのかわからない上、知らぬ間に婚約していた時イリスはしばし唖然としてしまった。

 貴族の婚約事情が成立前に流れてこない、なんてことがあるとは思ってもいなかったのだ。貴族社会の女性の情報網を侮ってはいけない。


「そんなことはどうでも良い」


 きっぱり、と和やかな空気をぶった切ったのは、応接用のソファに座る金髪金瞳の少女だ。


「クレア…」


 大きな猫目をつり上げて怒りをあらわにしている少女・クレアに、イリスは困ったような声音で呼びかける。


「いい加減、あの色ボケ男を連れ戻せ。イリスに出来ないんだったら、わたしがしてやる」


「そんな、同盟国の皇太子に…」


「現在進行形でその皇太子に醜態をさらしている事態に気付いていないんだ、わたしの立場で強権発動でもしない限り来ないだろう」


 クレアの発言に、イリス含めて誰もが、あぁうん確かに、と思ってしまった。


 クレアは南の隣国クルミスト帝国の皇太子であり、現皇帝唯一の子。友好関係強化の証として留学しており、イリスの一歳下で5年生だ。

 ふんわりした癖のある髪と白い肌から儚げな印象を受けるが、その口調からもわかる通りに中々に男前だ。自国では男装に帯剣しているのが日常だったらしい。


「ご安心を、イリス嬢」


「ルディアス?」


「聞き分けのない駄々をこねるようなバカを露呈した場合、叩きのめした上で縛り上げ引きずって連れてきます。貴方方が担った苦労分、きっちりと体に分からせましょう。クレア様の手を煩わせはしません」


「全く安心できねぇよ」


 突っ込んだカーライルを無視して、辛辣かつ物騒な発言をした少年・ルディアスは直立不動のままレヴィルから紅茶を受け取ったらしく、手にティーカップを持っていた。


 クレアの斜め後ろに立ち、頑なに座ろうとしないのはルディアスがクレアの護衛として留学して来たからだ。クレアの一歳下なのだが、護衛、という立場から特例で同じ学年に在籍している。

 皇帝を除けば唯一の皇族であるクレアの護衛に、同年代の少年一人では心もとないのだが、がっつり引き連れてきたら友好国への不信を体現したようなものなのだ。ゆえに、クレアの婚約者でもあり最年少の近衛騎士で腕の立つルディアスが選出された、と言うことらしい。

 ちなみに、ルディアスの生家は皇家とも縁戚にあるジルダス大公家で次男だが、政略ではなく完全に恋愛関係から婚約に発展したらしい。


 これがこの場にいる全ての人間であり、ジーンを含めれば生徒会役員集合状態だ。正確には、クレアとルディアスは立場上から生徒会臨時補佐、という形なので微妙な所だが誰も気にしない。ちなみにレヴィルも補佐だが、来年に書記就任が確定している。


「…気持ちはありがたいけれど、大丈夫よ。知っているでしょう?」


 イリスの諦めを含んだ声音に、誰もがため息をついた。

 この場の全員が理解している。イリスが言った意味を。

 だからこそ、クレアもルディアスも言ったのだ。その意味が現実になった時、悲しむのはイリスだから。けして、ジーンとアリスの為ではない。天地がひっくり返ってもそれだけはない。


「もう動き出してます。どうにもなりません」


 レヴィルが吐き捨てるように言って頷けば、クレアはふんと鼻を鳴らして紅茶を飲む。姫君にあるまじき荒々しさだが、誰も諌めない。彼らの前以外では、クレアは非の打ち所がない完璧な淑女であり凛々しい皇太子でいるので問題はない。親しい人間の前では気を抜きたくなるのは仕方ない。


「…本国にはすでに通達済みですが、クレア様」


 静かなルディアスの呼びかけに、クレアは飲み干したティーカップをおいて立ち上がる。


「イリス、わたし達は戻る。何かあればいつでも力になるから、あまり抱え込みすぎるな」


「ありがとう、クレア」


「…お前には借りがある。それを返しているだけだ、気にするな」


 ひらりと手を振って出て行くクレアに会釈を返して、イリスは首を傾げた。


「わたくし、に、借り…? 何の事かしら」


「…ガチで言ってるから、始末に負えない」


 クレア達と同学年であるがゆえに、借りの中身を知っているカーライルの呟きは隣にいるミニーナにしか聞こえなかった。ミニーナも知っているだけにただ小さく頷くだけにとどめた。

 何を言っても無駄だ、と二人は理解していた。


 不思議そうなイリスをレヴィルが言いくるめ、お茶会は続行される。

 ほんの一時、全てが決するまでのささやかで穏やかな時間だった。














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