2話
仕事が終わったとき、外は少し暗くなっていた。
夕方とはいえ、この街が橙色に染まることはない。煙の層は分厚く、太陽の光をほとんど通さない。だから、星は見えないし、月もこの街から見えたことがなかった。
――この世界は、近代の日本に少し似ている。
米っぽい穀物が主食で、服装も主に着物。
ほっかむりに薄汚れた着物姿の女性が赤ん坊を背負い、よれよれシャツの男たちが酒を交わしている。煙のススで黒く汚れていない者などどこにもいない。前後左右、どこを見ても灰色。
「暗い街だ」
ススまみれのシャツで手を拭いながら、夕方の街を歩く。
坑道の仕事が終われば、奴隷たちは寮に戻らなければならない。
寮とは名ばかりの家畜小屋だ。とにかく臭く、清潔感のかけらもない場所だ。壁は隙間だらけで、冷たい風がびゅうびゅう吹き付ける。そこに数十人の奴隷たちが肩を寄せ合って寝るのだから、劣悪極まりなかった。
――疲れ果てた奴隷の子供たちは、だいたいが糸の切れた人形のように眠りを貪る。
奴隷の生活のなかで、息抜きは寝ることだ。眠って辛い現実を忘れる。そして、明日の地獄に備えるのだ。
自分も部屋に戻ったら、すぐに眠りに落ちるだろう。
「ま、今のオレは寝るより、こっちの方が楽しみだけどな」
オレは銅貨を握りしめ、少し弾んだ気持ちで街を歩いていた。
その日、もっとも稼ぎを治めた最優良奴隷には、一時間の自由と煙草の箱が渡される。
今日は、誰もが死神姫の視察で浮足立ち、ミスを連発していた。そのおかげで、一応、殴られることなく、しっかり稼ぎを治めた自分が選ばれた、というわけだ。
ルリカ姫さまさまである。
オレは煙草を吸えないから、すぐに見張り役に売り払い、銅貨一枚に変えてもらう。一時間の自由と銅貨一枚あれば、こちらのものだ。
「なにを食べようかな、やっぱりキノコ雑炊か? いや、豚汁も買えるな」
出店の並ぶ位置を目指す足は、その日の疲れなど感じさせないくらい軽やかだ。
寝て現実逃避をするより、少しでも美味しいものを食べて、明日の活力にする。
それが、長く辛い仕事を続けられる秘訣だ――と、オレは思っている。
奴隷たちの中には「よし、みんなにも美味いものを食べさせてやろう」と、貰った銅貨をパンに変え、ちぎって仲間に渡す者もいるが、そんな良い奴から死んでいく。
オレのように「自分の活力のために」と考える奴が生き残っていくのだ。
「さて――ん?」
ふいに。
視界の端に白い影が映った。
裏路地を駆ける白い髪が見えたのだ。ありえない姿に呼吸が止まり、目が釘付けになる。
――休み時間は、一時間しかないんだぞ。
そんな心の声に逆らうように、裏路地に足を踏み入れる。
そのとき、凛々しい声が路地に響き渡った。
「――邪魔しないで、勇者。私はお父さまの元へ行く必要があるの」
木箱に身を隠しながら、そっと声の方を覗き込む。
すると、白銀の髪が暗い路地に浮きあがって見えた。間違いない。ルリカ・モチヅキ第三皇女だ。その傍らには、昼間もみた屈強な男が姫を守護するように剣を構えている。
「私は第三皇女。お父さまが――皇帝が危険にさらされているのであれば、すぐに駆け付ける責務があるわ」
この位置から、ルリカや護衛の表情は見えない。ただ、彼女の小さな肩が微かに震えているのが分かった。
「クーデターですか。それは、厄介ですね」
困ったように口にするのは、彼女に付き従っていたはずの勇者だ。
ルリカの強張った様子に対し、勇者は飄々とした表情をしていた。端正な顔立ちは悲痛のかけらもなく、むしろこの状況を楽しんでいるようにさえ思える。
――なんだか、無性に嫌な予感がした。
「貴様、その余裕――もしや今回のことを知っていたのか?」
屈強な男が刀に手をかける。少し離れていても分かるくらい、男から濃厚な熱気を感じた。
「最初っから、おかしいと思っていたんだよ。アンタが――うちの姫様のことを蔑視していたはずのアンタが、自ら進んで護衛任務についたことを!」
「やはりそうでしたか……マサノブさん、貴方は最初っから私を疑っていましたね」
やれやれと勇者は首を横に振る。口元は笑っているが、細長の目は笑っていない。まるで、獲物を狩る蛇のような眼光だ。こちらを見られていないはずなのに、ぞくりと背筋が逆立った。
「アンタが騎士の真似事などするわけねぇからな」
警戒するに決まっている、とマサノブは言葉を続ける。
「まさかとは思うが、姫様に下された僻地調査任務――アンタたちが仕組んだことじゃねぇだろうな?」
返答次第では切る、と、マサノブの背中は告げていた。そんな緊迫した状況だというのに、勇者は構えてもない。表情一つ変えることなく、ただ両手を広げて立っている。
「いやですね、マサノブさんも、それから姫様もそんな冷たい目で私を睨むなんて……失礼ですよ、本当に」
勇者は一歩、前に踏み出した。緊張感が格段に跳ねあがる。
「最初からです。皇帝亡き今、セージ様が皇位につき、この国を新しく作り替えます。ですが、ルリカ・モチヅキ。残念ながら、新政府に貴女は必要ないのです」
そして、緩やかに手が刀に伸ばされる。それをマサノブが見逃すはずがなかった。
「勇者としても許せぬ! 喰ら――」
「待ちなさい、マサノブっ!」
マサノブが、ルリカの制止も待たずに飛び出す。その速度、まさに風の如し。慣れた手つきで剣を引き抜くと、まっすぐ勇者に切りかかる。
ところが――
「部下の教育がなっていませんね、殿下」
気がつけば、マサノブの身体は頭から二つに割れていた。
勇者はいつ刀を抜いたのだろうか。まったく気づくことができなかった。だが、現にマサノブの身体は割かれ、彼の刀が音を立てて地面を転がった。
「ただまあ、それだけ慕われているということなのでしょう」
勇者は軽く刀を振る。刀に付着した血が裏路地に飛散した。
「さてと、次は姫様……貴方の番ですよ」
「……愚かだわ、勇者――いえ、この逆賊!」
信頼する部下の死を目撃したというのに、ルリカの可憐な声に動揺はなかった。
「お兄様も馬鹿なことをしたものね。
卑劣な手段で皇位を手にしても、民はついてこない」
ルリカの手が前に伸びた。勇者に向けられた掌が、薄ぼんやり青く染まる。
「『氷結』!」
鈴のような声が空間を震わせた、次の瞬間、勇者の足元に氷の花が咲いた。氷の花は瞬く間に膨張し、数秒も経たずに勇者の肩までを覆いつくした。
「……怖いですね、さすが死神姫。これほどの氷魔術を詠唱なしで成し遂げるとは」
勇者が話す間にも、氷の花は広がっていく。
氷は肩にとどまらず、顎から耳にかけて侵食していた。丁寧に口だけ避けていることから察するに、なにか聞き出したいことがあるのかもしれない。
「貴方の計画もお見通しよ」
ルリカは掌を向けたまま、静かに言葉を紡いでいた。
「もうじき、私の精鋭部隊が到着する。そのまま皇都に向かい、お父さまを救出し、逆賊を討つ。貴方には、裁判で兄の悪事を吐いてもらうわ」
「裁判――果たして、思い通りに進むのでしょうかね。
……大罪術式『強欲』」
勇者の口元が殊更歪む。ぱしり、と氷の花にヒビが入った。
「――ッ、まずい!」
ルリカは弾かれたように飛び退けた。
彼女の背中が急速に近づき、木箱の横を通り過ぎる。ここで初めて、彼女の表情が見えた。昼間の凛々しさは損なわれていなかった。むしろ、研ぎ澄まされている。桃色の唇は真一文字に硬く結ばれ、琥珀色の瞳の奥には、何かに抵抗しているような途方もなく強い光を感じた。
「一の枷、解放」
勇者は、まるで愉快な歌を口ずさむように告げる。
途端、氷の花は四散する。砕け散った氷の欠片は空を舞い、やがて地面に消えていった。氷の中から、自由になった勇者が現れる。
いや、勇者だった者が姿を現した。
――なんだよ、あれ。
声が出ない。
恐怖のあまり、声を忘れてしまった。
勇者は変貌していた。
切れ長の目は血走り、背は酷く曲がっている。艶やかだった髪が逆立ち、爪は獰猛な獣のように鋭く伸びていた。女性を魅了しそうな甘く端正な顔立ちには血管が浮かび上がり、口からは白い牙が見え隠れしていた。
勇者なんて綺麗な存在はいない。
そこいるのは、正真正銘――化け物だった。
「世も末ね」
ルリカは目の前の事象に対して驚くこともせず、淡々と感想を告げた。
「……仮にも、勇者と認められた人間が、怪物の力を借りるなんて」
「おや? 貴方もあるでしょう、死神姫。強情を張らず、使ったらどうです? もしかしたら、この私を倒せるかもしれないですよ?」
勇者は声も変質していた。否。飄々とした声の上に、なにか異質な声が被さっている。
気持ち悪い。
「馬鹿を言わないで。私は人間よ。怪物に自分を預けるのは――」
今度は白い指先を勇者に向けると、眉間にしわを寄せた。
「――絶対にイヤ!」
拒絶の言葉と共に、指先から氷の弾が形成された。先端が氷柱のように尖った弾は、まるでマシンガンのように連射された。
「『氷弾、連射』!」
「またも詠唱破棄。さすがですが、そんな生半可な技では――」
勇者が刀を振る。その一振りで氷の弾幕は敵の身体に傷をつける前に砕け散った。
「――倒せませんよ」
彼はそのまま踏み込むと、ルリカめがけて駆けだした。先ほどのマサノブの走りを風とするなら、こちらは弾丸だ。氷の弾に勢いを削がれることなく、彼女との距離を詰める。
「ほら、つかまえた」
あっというまに彼女の首をつかみ上げ、薄汚れた壁に押し付けた。
「うぐっ……」
「知ってますよ、死神姫。貴方は軍を任されていましたが、実際に人を殺したことはない。指揮官として命令を出し、他人に人殺しをさせるだけ。
つまり、貴女は殺人処女の冷酷女」
彼女はまた魔術を構築しようとしているのか、時折、掌が青白く光っていた。だが、首を絞められているせいで思うようにコントロールが効かないのだろう。灯っては消え、灯っては消えを繰り返している。
「私が何人殺してきたと思っていますか? 貴方とは、攻撃の重みが違うんですよ。殺人処女が、私に勝てる可能性は――もはや、大罪術式しかありません」
勇者は、甘い甘い言葉をかける。
まるで、幼子を誑かす悪い大人のように。
その姿はもはや、勇者に倒される側の存在だった。
――怖い。
怖い、怖い、怖い。
オレは恐怖で目が逸らせなかった。
早く帰ろう、早く逃げよう。すぐに家畜小屋のワラにくるまり、すべてを忘れよう。どうやら、ルリカも勇者だったなにかも、自分の存在に気づいていない。静かに後退すれば、逃げ切れるはずだ。
ルリカは可哀そうだが、見殺しにするしかない。
なぜなら、そもそも自分と彼女は赤の他人だ。命を懸けてまで助ける義理はないし、仮に、数歩先に転がっている刀を拾い、勇者に立ち向かったところで奴隷は奴隷のまま。未来が開けるはずもない。
……いや、そもそも、加勢したところで勇者を倒せるわけないし、こんなところで命を落とすくらいなら、おとなしく炭鉱の仕事を続けた方がマシだ。
さぁ、足よ。動け!動け!動け!!
さっさとこの場から離れて逃げるんだ。
「さぁ、はやく貴女の大罪を開放しなさい」
オレが恐怖で震えている間にも、勇者はルリカをつかんだまま離さない。
「その力を――私が――」
ルリカの白い首筋に、牙の生えた口を近づける。
「喰ってあげますよ」
「――ッ」
ルリカの琥珀色の瞳には涙がいっぱい溜まっていた。
オレは彼女の瞳に釘付けになってしまった。
なぜ、頑なに使おうとしないのだろうか。
「勇者……貴方は今の自分を見たことある?」
「……」
「見たことないなら言ってあげる。怪物よ、暴食の怪物。私は――」
たまりにたまった涙が、つぅっと彼女の頬を伝った。
なぜ、ルリカは逃げない?
オレは逃げる。オレは逃げるから、君もさっさと大罪とやらを開放した方がいい。万が一にも生き残る可能性があるなら、意地を張らずに使えばいいのに――。
「アカツキ皇国 第三皇女 ルリカ・モチヅキ! その矜持にかけて、怪物に魂なんて売ってたまるか!」
ルリカの宣言が空間を木霊する。
大粒の涙を流し、小刻みに震えながらも、それでも諦めない芯の強い声だった。
その叫びを耳にした瞬間、オレの中で、なにかが弾けた。