にせ札犬サム
仕立て屋のジェイコブさんがその老犬を連れて帰ってきたのは、日差しがだいぶあたたかくなり、人々がようやく重いコートを脱ぎはじめた頃のことでした。
ジェイコブさんの妻のヘレンさんは、店の入り口の横にある狭いショーウィンドウで、長い冬の間ずっとマネキンが着ていたツイードのジャケットを脱がし、涼しげなブルーのコードレーンのスーツを着せかけていたところでした。
ひと昔前には、季節が変わるごとに新しいスーツを仕立てる人も多くいましたが、最近はお直しの仕事が多く、教会の牧師さんと大学教授の先生が毎年、新しいスーツを注文するだけとなりました。それでもヘレンさんは、ジェイコブさんと結婚してから四十年まかされてきたマネキンの着せ替えをきちんきちんと続けるのでした。
ヘレンさんは手を止めて、右手に大きな紙袋を提げ、左手で犬のリードを引いて通りの向こうから歩いてくる夫の姿をしばらく不思議そうにながめていました。ジェイコブさんはそれまで犬が欲しいと言ったことはなく、近所の犬が通りかかってもその頭をなでたことすらありません。
ジェイコブさんのお祖父さんの時代にはぴかぴかだった「ゴールドバーグ&サンズ」の真鍮の文字が今は鈍い色に光る看板の下、カランコロンと響く乾いたベルの音とともにドアを開けてジェイコブさんが店に入ってきたとき、もう何十年も一緒にいるヘレンさんはその場で大きな声を出したりせず、深呼吸をひとつしてから静かにこう言いました。
「おや、久しぶりにサプライズでお客さんを連れてきたかと思ったら、やれやれ、うちにはそのお客さんに満足していただけるようなステーキはありませんわ」
「レヴィン警部が二週間分のエサを持たせてくれたよ」
「エイブが? この犬はエイブの犬なの?」
市警本部に勤めるエイブラハム・レヴィン警部はヘレンさんの年の離れた弟で、ジェイコブさんは親愛の情をこめてこの義理の弟を『警部』と呼んでいました。レヴィン警部は逃げた小鳥の捜索から子供のイジメ問題まで親身になってみんなの面倒を見るので、近所の人々にとても人気があり、本人も警察官だから親切なのか、世話を焼きたいから警察官をやっているのかわからないくらいでした。どうやら親切すぎてすっかり出世の機会を逃してしまったのも事実のようです。
「正確には警察の犬だった。十年前の、あのにせ札事件を覚えてるだろう?」
店の中を通り抜けて裏庭に出たジェイコブさんを追いながら、ヘレンさんは答えました。
「にせ札? もちろん、覚えてますとも」
ジェイコブさんは犬のリードを裏口のドアノブにかけ、右手に持っていた紙袋からエサを入れる皿を取り出し、植木に水をやるためのホースから水を入れて犬の前に皿を置きました。よく見るとテリアとなにかの雑種のようで、三角に折れた耳と、真っ黒な大きな鼻がとても愛嬌のある犬でした。
「十年前、マーケットストリートにあったソーセージ工場の隠し部屋で、にせ札を作っているのが見つかって、あの警察の大捕り物があったときのことさ」
犬の横にお気に入りの椅子をひっぱってきて腰掛けたジェイコブさんは、ヘレンさんもよく知っている当時のことを話しはじめました。あのときの大騒ぎといったら! あたり一帯は住民の数より警察官の数のほうが多いくらいで、さらにその倍くらいの数の新聞記者で町はいっぱいになりました。実際に住んでいる人たちは家にじっと閉じこもって、カーテンの後ろからそっとあたりの様子を伺うばかりでした。
しかもそのあとしばらくは、どこの店に行ってもお札の製造番号とそれを使った人の住所や名前、電話番号をいちいち記録したので、何もやましいことがないにもかかわらず買い物をするたび変にドキドキしたものでした。
「警察が踏み込んだとき、犯人はすでに逃げてしまっていて、仲間割れのせいで撃ち殺されたとみられる印刷工の遺体と、そのそばを離れようとしなかったこの犬だけが現場に残されていた」
当時の新聞記事によると、にせ札が最後に使われたのは南の州境に近いストリップクラブで、犯人らしき男を目撃したウェイトレスの証言では、暗くて顔は見えなかったものの、公衆電話をかけている右の肘の内側に一ドル札と同じ「ピラミッドと全能の目」の刺青があったのが非常口の灯りでたしかに一瞬、見えたということでした。
「あのとき工場の周りで警備を手伝っていたレヴィン警部がとりあえず警察に犬を連れて帰ったが、捜査の途中でどうやらこの犬はにせ札を嗅ぎわけることができるとわかったらしい」
「にせ札を嗅ぎわける?」
「ああ、現場から押収したにせ札に向かって激しく吠えたんだそうだ。ところが普通の紙幣には見向きもしない。そこでにせ札をすばやく発見できる『にせ札犬』として、警察でこの犬を飼うことになったというわけさ。名前はサム」
自分の名前を呼ばれているのにまったく身動きもせず、年老いた犬は頭を前足にのせて目を閉じていました。
「だが、あの事件から十年、にせ札は一枚も見つかっていないし、そうかといってサムは警察犬として訓練されてはいないので他の任務には使えなかった。すっかり老いぼれて役立たずのまま、とうとう引退させることになったってわけだが……引き取り手が見つからず、レヴィン警部が泣く泣く保健所に引き渡そうとしていたところにちょうど通りかかった」
「まあ……あなたが通りかからなかったら、殺されていたかもしれないってこと?」
「おまえも知っているとおり、レヴィン警部はとても引き取ることができないしなぁ」
レヴィン警部は妻と六人の子供と三ベッドルームのアパートに住んでいます。最後に弟を訪ねて行ったとき、たしかに犬どころかネズミ一匹這い出る隙間もないほどに人と物で息苦しいほどぎゅうぎゅうだったアパートをヘレンさんは思い出しました。
「それであなたが引き取ってきたんですね」
「ああ、うちも商売はさっぱりだが、じいさんがこの店と二階のアパートを買っておいてくれたおかげで、犬の一匹くらいはなんとか食わせていけるだろうよ」
ジェイコブさんとヘレンさんには子供がいませんでしたので、もう長いこと二人だけで日々を過ごしてきました。ヘレンさんは新しく加わった家族を起こさないように、そっとその頭をなでてやりながら言いました。
「そうですね。孫ができたと思ってかわいがってやりましょう」
ちょうど近くに家を建て直している現場があったので、そこでもらってきた廃材でジェイコブさんはサムの犬小屋を作りました。最後に店の入り口を塗り替えたときの残りのペンキで色を塗ったので、濃い緑の、かなり落ち着いた感じの犬小屋になってしまいました。
ヘレンさんはサーモンピンクのワイシャツ地のはぎれでサムの首に巻くバンダナを縫い、ジェイコブさんは紳士物のコートのはぎれで雨の日にサムが着るポンチョを作りました。
サムが来てからも、ジェイコブさんとヘレンさんの静かな生活が大きく変わることはありませんでした。朝、店を開ける前にジェイコブさんはサムを連れて町内を一周し、夕方、店を閉めた後にもう一周、毎日二回の散歩が新しい日課として増えたぐらいでした。
休みの日の朝は散歩の途中でジェイコブさんがあつあつのベーグルを買って帰り、クリームチーズをたっぷり塗って、クロスワードパズルを解きながらヘレンさんと静かなブランチを楽しむのも、サムが来る前と変わりません。
裏庭は店を両側から挟んでいるアパートと共同でしたが、そこに住む人々もおとなしいサムのことがすっかり気に入り、裏庭の隅にある洗濯室に行くときには、眠っているサムを起こさないようにそっとなでて通るのが習慣のようになりました。
その年の独立記念日の週末、ジェイコブさんとヘレンさんは、サムを連れて海岸通りの大きな駐車場に設置された移動遊園地に出かけました。ここはジェイコブさんとヘレンさんが初めてデートした場所です。
当時、高校を卒業したばかりのジェイコブさんは、お父さんの見習いとして働き、お小遣い程度のお給料しかもらっていませんでした。まだ高校に通っていたヘレンさんをデートに誘いましたが、ピンク色の綿菓子をひとつ買って、二人で分け合って食べるのが精一杯でした。
結婚してからも生活は決して裕福ではありませんでしたが、この移動遊園地で綿菓子をひとつ買って、二人で分け合って食べるのを毎年楽しみにして、ずっと続けているのです。
今年は空に薄く雲がかかって暑すぎず、海からの風がさわやかで、歩いているだけで気持ちのいい日でした。遊園地の中は近くの町からやってきた人々の笑い声に満ちて、老人の多いこの町が一気に華やいだ感じです。子供たちがたくさん近づいてきてサムの頭をなでていき、サムもなんだかいつもより元気いっぱいに右左と、さまざまな珍しいにおいを嗅ぎながら歩いて行きます。
いつもなじみの綿菓子屋さんも数年前から代替わりして、陽気なラテン系の女性が器用にくるくると綿菓子を巻き取ってくれます。ヘレンさんは子供のときからこの綿菓子を作る過程を見るのが好きで、できるのを待つ間、目をまんまるにしてじっと見つめています。ジェイコブさんは近くのベンチにすわって、サムに水をやりながら待っていました。
「今年から、五十セント値上がりだそうですよ、砂糖が値上がりだとか……」
ヘレンさんがそう言いながら、できたてほかほかの綿菓子を手にジェイコブさんのところに戻ってきました。のどが渇いたジェイコブさんは、ソーダを買ってこようと立ち上がりましたが、ズボンのポケットからつかみ出した小銭は、数えてみると一ドルにも足りません。
「ほら、あなた、これで」
ジェイコブさんの様子を見たヘレンさんが、綿菓子屋さんでおつりにもらった五ドル札をお財布から出してジェイコブさんに渡そうとした、そのときでした。
それまでおとなしくベンチの陰で水を飲んでいたサムが突然、それまで聞いたことのない恐ろしいうなり声を上げたかと思うと、その五ドル札に飛びかからんばかりに激しく吠えはじめました。
驚いたヘレンさんは五ドル札を握り締めたまま、ジェイコブさんの背後に隠れてシャツにしがみついてしまいました。ジェイコブさんは怖がるヘレンさんの背中をさすってなだめ、ベンチから離れた場所に連れて行きました。それからベンチに戻り、後ろからサムの首を抱いて、ヘレンさんに向かって激しく吠えるサムをなんとか落ち着かせようとしました。
「サム、サム! いったいどうしたっていうんだ? ヘレンのことがわからないのかい?」
ジェイコブさんがどんなに言い聞かせても、強い言葉でしかっても、サムはまるで頭がおかしくなってしまったかのように吠え続け、今にも泡を吹いて倒れてしまいそうでした。
サムの吠え声を聞いて、何が起きているのかとベンチの周りには野次馬が集まってきました。しかたなくジェイコブさんは、身を縮めるようにして遠くから様子を見ているヘレンさんに近づいて言いました。
「ヘレン、私はサムを家に連れて帰るから、レヴィン警部のところで待っていてくれないか? おそらく、イベントの特別警戒に備えて市警本部に詰めているはずだ」
「どうして警察に?」
不安げな表情でたずねるヘレンさんの問いには答えず、ジェイコブさんは、
「私も後で行くから、さっきの五ドル札を使うんじゃないぞ!」
と最後はサムの吠え声に負けじと、怒鳴るように大きな声で言いながらサムのリードをベンチからほどいて、引きずるようにしてサムを自宅に連れて帰っていきました。
残されたヘレンさんは、しかたなく綿菓子をひとりで食べながらジェイコブさんに言われたとおり、歩いて市警本部に向かいました。
ジェイコブさんが市警本部に着いたとき、ヘレンさんは入り口ロビーの片隅にある応接室でレヴィン警部と一緒にコーヒーを飲んで待っていました。
「義兄さん、サムは大丈夫かい?」
床に沈みきったソファにすっぽりはまり込んだように座ったレヴィン警部が、ジェイコブさんに心配そうな顔を向けました。
「サムは家に戻ったら、まるで嘘のようにおとなしくなってね。疲れきってすぐに眠ってしまったが、念のため、厳重に犬小屋につないできたよ」
涙目になっていたヘレンさんは、それを聞いてほっとした表情になりました。しかしジェイコブさんはやや緊張した気配を眉間に漂わせて立ったまま、ヘレンさんにこう言いました。
「ヘレン、さっきの五ドル札を出しなさい」
「五ドル札?」
ヘレンさんは夫がなにをしようとしているのかわからないまま、ハンドバッグの中からお財布を取り出し、おつりにもらった五ドル札をジェイコブさんに差し出しました。
ジェイコブさんは人差し指と親指でそのお札を慎重につまみ、レヴィン警部のほうにひらひらと振って見せます。
「レヴィン警部、ついに出たんだよ!」
「ついに出た? なにが?」
「にせ札だよ、にせ札! こいつはにせ札に違いない。だからサムはあんなに吠えたんだ」
「まさか!」
にわかには信じがたい、という目つきでレヴィン警部はジェイコブさんがつまんでいる五ドル札を見つめました。
「だがね、義兄さん。にせ札というのはたいがい高額紙幣、せいぜいが二十ドル札だ。まさか五ドル札というのは、いくらなんでも……」
「いや、そうでなければ、なぜあんなにサムが吠えたのかの説明がつかん。とにかく、にせ札鑑定の専門家をすぐに呼ぶことだな」
ジェイコブさんがあまりに真剣な顔でそう言うので、ヘレンさんからサムが尋常でなかった話を聞いていたレヴィン警部も、半信半疑ながら念のためにその五ドル札の真偽を確かめる気になりました。
その日は祝日だったので小さな漁船で海釣りに出ていた、というにせ札鑑定の専門家が緊急に呼び出され、汗を拭き拭き市警本部に到着したのは、夕方になってからでした。
リーバーマン巡査と名乗るその男は、大柄なレヴィン警部とは対照的にとても小柄で、片目が小さな望遠鏡のようになった不思議なメガネをかけていました。車輪のついた黒いキャリーバッグから、中に蛍光管が入ったライトボックスと、その男の顔がすっぽり隠れてしまうくらい大きい黒縁のルーペを取り出しました。
サムのことが心配でヘレンさんは先に帰りましたが、ジェイコブさんはまだ応接室にいて、リーバーマン巡査が細心の注意を払いながらライトボックスをまっすぐにテーブルの上に置くのを見ていました。
レヴィン警部が例の五ドル札を渡すと、リーバーマン巡査はそれを注意深くライトボックスの中央に置き、大きなルーペで隅から隅まで一ミリ単位で調べ始めました。
表と裏と根気強く、まったく集中力を切らさずに調べているリーバーマン巡査の様子に、そばで見守るレヴィン警部もジェイコブさんも呼吸の音すらはばかられ、三十分もしてやっとリーバーマン巡査がルーペをテーブルに置くと同時に、二人とも大きく息を吸って吐きだしました。
鑑定を終えたリーバーマン巡査は、何事もなかったかのようにライトボックスとルーペをキャリーバッグにしまいこみ、立ち上がってメガネの位置を直しながら一言ぽつりと、
「これは本物です。報告書は必要ですか、レヴィン警部?」
と言いました。
「いや……報告書は必要ない。休みのところ、すまなかったな」
レヴィン警部はリーバーマン巡査を応接室の外まで送り出し、がっくりと肩を落として言葉もなく座っているジェイコブさんに話しかけました。
「義兄さん、サムはなにか悪い病気なのかもしれないよ。うちでずっとサムの健康診断をしていたコーエン先生に診察をお願いしてみようじゃないか」
サムのお手柄を信じていたジェイコブさんは、結局にせ札ではなかったことを喜ぶべきなのか、サムが吠えた理由がわからなくって不安なのか、自分でも自分の気持ちがよくわからず、あいまいに「そうだな」とつぶやいて市警本部をあとにしました。
市警本部の警察犬の健康管理を任されている獣医のコーエン先生は、サムがにせ札犬として飼われるようになってから、ずっと定期健診をしてきた人なので、ジェイコブさんも安心してサムの精密検査をお願いすることができました。
市警本部内にある犬舎の検査室で、コーエン先生は丁寧にサムの診察を行いました。見た目ではわかりませんが、実はコーエン先生の母方のお祖父さんは中国人で、『伝説の鍼師』と呼ばれた、その世界では有名な鍼の名手でした。アメリカで生まれ育ったコーエン先生もお祖父さんのもとで鍼灸を学び、動物の診療に役立てています。今回の検査でも途中でサムが興奮しないよう、頭に鍼を打って落ち着かせてから、血液検査や尿検査、さらにお腹の毛を少し剃って超音波やX線の検査もしました。
「血液検査の結果を見ないとはっきりしたことは言えないが、特に異常はないと思う。というか、この年齢の犬にしてはむしろ、かなりの健康体だ」
診察用のゴム手袋をはずしながら、コーエン先生はジェイコブさんに何度もうなずいて見せました。言葉はぶっきらぼうでしたが、縁無しメガネの奥にある目がやさしそうで、ジェイコブさんはレヴィン警部のすすめでコーエン先生に診てもらえたことを心から感謝しました。
「しかし、だ」
猫のように黒い目を細めたコーエン先生の言葉に、ジェイコブさんは我知らず身を硬くして構えました。
「老犬が痴呆で突然、凶暴になることもある。散歩中に誰かを噛んでケガでもさせたらたいへんだ。これからはリードを短くしっかり握って、人の少ない早朝に散歩するか、ケージに入れて人気のない場所に連れて行って散歩させたほうがいいだろう」
鍼の鎮静効果の影響なのか、慣れない検査で疲れ切ってしまったのか、自分から歩こうとしないサムを抱きかかえて、ジェイコブさんは自宅に向かって歩いていました。
もしサムが誰かをひどく噛むとか、手に負えなくなるようなことがあれば最悪、この命を終わらせる決断も必要なのだろうか、コーエン先生はそうは言わなかったけれど、とジェイコブさんは考えました。とりあえず健康でよかったと思う反面、心のどこかが凍りついたような痺れと痛みを感じました。
サムを引き取ったときには考えもしなかった命の重さを両腕で抱え、いかにも夏らしくからっと晴れた青空を見上げて信号待ちをしているときでした。
突然、胸にどかっと強い衝撃をおぼえたジェイコブさんは一瞬、なにが起きたのかわからず、軽くなった両手が宙を泳いでよろけました。次々に鳴る車の激しいクラクションを聞いて、サムが自分を蹴っていきなり車道に走り出たことに気付いたのでした。先ほどコーエン先生に注意されたばかりなのに、ジェイコブさんはおとなしくしているサムのリードを握るのを忘れていたのです。
サムは片側二車線の広い通りを横切り、走ってくる車が急ブレーキを踏んで右に左にハンドルを切りながら止まる大混乱をかいくぐって、道路の反対側へとまっしぐらに向かっていきました。
ジェイコブさんもあわてて、止まった車の間を必死で「すみません、申し訳ありません」と大声で謝りながらサムの後を追いました。
「うわっ、なんだ! おい、離せ!」
角を曲がったあたりから男の怒鳴り声が聞こえ、ジェイコブさんが息を切らして角を曲がって見ると、夏だというのに黒い長袖のシャツを着た、体の大きな男のひじの辺りにサムが噛み付いていました。
噛まれた勢いで尻餅をついた男は、怒鳴りながら左手でサムを殴ろうとしていましたが、うまく手が届かず、右腕を無理やりサムの口からもぎ取ろうと大騒ぎしています。
ジェイコブさんはサムの鼻を押さえ、歯の間に自分の指をこじ入れて口を開けさせようとしましたが、その小さな体のどこにそんな力があるのかというほど、思い切り歯を食いしばったサムの口を開けさせることができません。
「義兄さん、下がって!」
通報を受けて市警本部から駆けつけたレヴィン警部が、ジェイコブさんの肩をつかみました。力尽きたジェイコブさんがよろよろと後ろに下がると、レヴィン警部は手に持っていたバケツ一杯の水をサムにざぶんと浴びせました。
「おい、なにやってんだよ、濡れたじゃねえか」
サムに噛まれた男が大声でわめきましたが、それでも男のひじを離そうとしないサムに、レヴィン警部は冷静に次の手を考えていました。
「ちょっと痛いかもしれないが、我慢してくださいよ」
男にそう声をかけて右横にひざまずき、サムの顔を大きな手でがっちりとつかんで警棒をサムの口と男の腕の間にねじ込もうと試みました。
しかし男は、「痛い痛い、骨が折れちまうよう、おまわりさん、このキチガイ犬を早く何とかしてくれ!」と叫びました。
警棒でサムを殴る、首を絞める、レヴィン警部の脳裏にそういった選択肢が浮かんでは消えましたが、どれもサムを必要以上に傷つけ、苦しめることにしかならないと思われました。警察官としてできることは、ただひとつでした。
野次馬を整理するために呼ばれた巡査の近くまで下がって呆然としていたジェイコブさんは、急にあたりが奇妙に静まり返る気配で我に返りました。
カチッ。
ピストルの安全装置が外れる小さな小さな金属音が、まるで自分のこめかみに銃口を当てられたかのように、ジェイコブさんの耳に大きく響きました。
「レヴィン警部! エイブ! やめてくれ、サムは、サムはちょっと興奮しているだけなんだ、すぐにおとなしくなるから、頼む!」
「下がってろ!」
思わず近寄ってこようとしたジェイコブさんをレヴィン警部は、心優しい義理の弟としてではなく、職務を果たそうとする警察官の鋭い一喝で制し、サムの体をしっかりと抱き締めてその耳元で言いました。
「サム……ごめんよ、助けてやれなくて」
レヴィン警部はサムの眉間にあてた銃口が確実に人のいない方向を向いているのを確かめ、それからゆっくりと、ピストルのトリガーを引きました。
パスン、と拍子抜けするほど乾いた音がして、永遠と思われるほど長かった一瞬が過ぎ去り、レヴィン警部が男から離れたサムの体をそっと地面に置きました。ジェイコブさんは声にならない嗚咽にむせびながらその場にくずおれました。
サムに噛まれていた男は「チッ、手間取らせやがって」と言い、シャツに血がにじんだ右ひじの辺りを押さえて立ち上がりました。
「ケガはひどくないですか? ちょっと見せてごらんなさい。救急車が来ているので、すぐに消毒して治療してもらいましょう」
そう言ってレヴィン警部が男の右腕を取ろうとすると、なぜか男は、
「ああ、いえいえ、大丈夫ですから」
と立ち去ろうとしました。
「まさか狂犬病は持っていないと思うが、万が一ということがあるし」
「いや、ほんとに大丈夫ですから」
弟のレヴィン警部と白髪交じりの長い黒髪の男と押し問答をしているところへ、「ご主人とサムがたいへんよ!」と近所の人に知らされ、急いでお店を閉めてきたヘレンさんが駆けつけました。夫のジェイコブさんは、歩道に座ってぐしょぬれのサムを抱きしめ、ただただ泣いていました。
黒いシャツでもそれとわかるほど出血しているのに、治療もしないで立ち去ろうとしている男にレヴィン警部は、なにか怪しいぞ、とピンと来ました。
「いいから見せなさい!」
そう言って力任せに男の右腕を取り、サムが噛み付いたせいで破れたシャツの袖の中を見たレヴィン警部の顔色がさっと緊張しました。
「これは……! おとなしくしろ!」
とっさに男がケガをしていることも忘れてその右腕を背中にねじ上げ、大きな体を機敏に動かして男を押さえつけました。
シャツの破れ目から男の右ひじの内側にレヴィン警部がはっきり見たものは、「ピラミッドと全能の目」の刺青でした。
「にせ札作りと殺人の容疑で逮捕する!」
レヴィン警部はその男を巨体で押さえつけたまま、苦労してズボンの尻ポケットから手錠を取り出し、その手首にカチャリとはめました。義理の兄であるジェイコブさんはもとより、実の姉であるヘレンさんも、テレビや映画で観る刑事のようにさっそうと活躍するレヴィン警部の勇姿を見たのはそれが初めてでした。
逮捕された男は観念したのか、特に抵抗する様子も見せませんでしたが、ジェイコブさんに抱かれたサムの亡骸のほうに向かっていまいましそうに唾を吐いて毒づきました。
「ロッキー……まだ俺のことを覚えてやがったとはな」
市警本部の裏庭の隅に建てられた、小さな小さな墓石の横にハナミズキの苗を植えながら、ジェイコブさんが言いました。
「つまりだ、サムがにせ札にむかって激しく吠えていたのは、にせ札だからじゃなく、その紙幣に自分の主人を殺した男のにおいが残っていたからだったんだ」
当初、レヴィン警部もジェイコブさんも、サムを元の飼い主と同じお墓に入れてやりたいと思いましたが、飼い主だった男はどこか東欧の国の出身で、今となってはどこに葬られたのかもわからないということでした。
そこでレヴィン警部の発案により、にせ札製造および殺人の犯人逮捕のお手柄が認められたサムは、市警本部の敷地内に葬られることになったのです。
ジェイコブさんが土を盛った苗木の根元に、ジョウロでたっぷり水をかけているヘレンさんがふと、手を止めてつぶやきました。
「飼い主は悪いことをした人だったから、もしかして天国では会えていないのかも……」
やれやれ、とスコップを置いて腰をのばし、頭の上に広がるカエデの色鮮やかな緑を見上げたジェイコブさんのささやきは、むしろ自分をなぐさめているようでした。
「……わたしたちが会いに行ってやれるのも、そんなに先のことではないだろうよ」
ジェイコブさんの言葉に小さくうなずいたヘレンさんは、芝生に膝をついて、墓石に彫られたサムの誇らしげな横顔を手のひらでいとおしそうになで、その下に埋め込まれた真新しいステンレスのプレートをいつまでも黙って見つめていました。
「にせ札犬サム、ここに眠る」