三つ葉
ブランコに座って眼を閉じる。
慈鴉の髪や項を湿気を含んだ風が、触れる様に撫でていった。
久しぶりの夜の公園は、たいしてして何も変わって居ない。
同じ様な人間がそこかしこで、群れている。
ただ、夏の花が少しだけ色褪せて、虫の声が響き初めて居た。
全身が重く、鉛の詰まった木偶の様に感じられ、動こうとすれば、
何とか意思という糸で引っ張って、操り人形の様に、
無理矢理に力を入れるしかない。
座ったまま、ブランコの鎖に縋る様にしてじっとしていると、
風の匂いを嗅いで居た慈鴉の鼻に、風の匂いと混ざって、最悪の臭いと、
近付いてくる足音が聴こえた。
慈鴉は視線を上げ、男を睨め付ける。
ゼンジは迷いのない足取りでやって来ると、慈鴉の乗るブランコの鎖に手をかけ、
慈鴉の顔を覗き込んだ。
さも可笑しそうに………。
「流石に、いくらお前でも、もうそろそろ限界だろう……?一緒に来い」
確かに、慈鴉はもう極限状態と言えるだろう。
人間を喰ベない鬼がそうなる様に、髪は神々しい程の銀色に、
瞳はすっかり藍色に変化している。
これは、生来の色彩が何色だろうと、こうなる。
どのみち、祥悟が生きていたとしても、覚悟していた姿だ。
この終わりを望んでいたのだから、後悔は無かった。
———ただ、終わりを待つだけの、鬼の中でもより弱い、
生存競争に敗れた者の色彩———
こうなってしまった鬼は、人間を捕らえ喰べる能力すら失っているので、もう、
死ぬしかない。人間を狩る俊敏さも、肉を引き裂く力も、肉を咀嚼する力すら、
無い……本当に、慈鴉にはもう、祥悟の後を追って、
命を終える事以外、願いは何もなかった。
ただ、人間の発する匂いは、飢えた身体に甘い誘惑を囁く。
絶望した殉教者のような生気の無い、暝い瞳で慈鴉がゼンジを見ていると、奇妙な優しい微笑みを浮かべ、立ち去って行った。
深く溜め息を吐いた慈鴉の傍らに、代わりとでも言うように男が寄って来た。
三十代半ばに見える男は、仕立ての良いスーツの色味に、
秋の気配を漂わせ、優しく穏やかな笑顔を慈鴉に向けている。
………記憶にある顔だ。何度か声をかけられて、誘われて付いて行った事もあるのだが、性行為に及ぶ事は無く、高級そうな、慈鴉が少々引け目を感じるレストランで、食事を食べさせてくれ、その後は高級なホテルの一室で酒を飲みながら、部屋で一晩中話し相手をさせられるのが常だった。
弱って体力が落ちている為に、疲れた慈鴉が途中で眠そうにすると、
ベッドで寝るように言い、寝かしつけてきた。
そして朝公園の辺りまで送ってくれると、金を余分な程に手渡して来る。
常に優しげに微笑んでいて、逆に何を考えているのかが読めない。
危険な人間だと考えている。慈鴉が知る中で多分一番の要注意人物だ。
鬼の捕獲や処分を仕事にしている人間は多い。
……出来る事なら祥悟のマンションで死にたいが、それが望めなくとも処分ならともかく、
生け捕りで捕獲されてしまえば、何をされるか分からない………。
しかし、次の瞬間に慈鴉の唇は、やんわりと自嘲的な微笑みの形に歪んでいく。
祥悟はもういないのに、生きている理由もないのに、保身を考える自分がおかしかった。
微笑む慈鴉の瞳に、男の笑顔が映る。
「今晩は慈鴉くん。ご機嫌いかがかな?」
「……悪くは無いよ」
「最近姿が見えなくて、ずっと探してたんだ。心配してたんだよ?会えてよかった……」
心底安心した様子で、少年のように戸惑ってから、男は傍らのブランコに腰を下ろしたが、笑顔を収めて、不安気に慈鴉の顔を見てくる。
「話があって探していたんだけど……顔色が悪いね?大丈夫かい………おなかが減ってるのなら、何でもご馳走してあげるけど……何処か具合でも悪いのかな。変な物でも、広い喰いしたのかな?」
「いや。腹は減ってないし、拾い喰いなんてしないよ」
「でも、おなかが減ってると、何でも、食べたいって思っちゃうでしょう?……どこか、
辛いんじゃないの?」
こいつはある意味奴に似ている。まず間違い無く腹具合を聞いてくる事。
そして、探るような、奇妙な底光りする不気味な瞳と、なんとも言い難い嫌な気配———。
慈鴉の手が男に伸びた。
もう終わりにしたいと思う心だけが、空回りする。
これが、あの月光の中で見つけた〖幸福〗だというのだろうか……?
この煉獄のような場所が〖幸福〗だというのなら、あまりにも残酷ではないだろうか……?
それは俺と出会ってしまった祥悟から俺への〖復讐〗じゃないのか?
この、誰もいない狂った月の中で、一人堕落の象徴である荊を抱えて、人間の獣性である犬を従えて、
弟アベルを殺した為にエデンを追われ、神によって印を刻まれて、唯独り月の中を彷徨えと言う……誰も、
カインを殺さないよう、神が刻んだ印は、一体いつ消えてくれるのだろうか……?
「手。繋いでくれるか?……少し、そうしていて欲しいんだけど……」
伸ばした手は、何の躊躇いも無く取られた。
「私も慈鴉くんにお願いがあるんだけど……少し休んだら、一緒に来てもらえないかな?」
「………構わない。好きにしたらいい」
———殺したければ、早く殺せ———
そんな苛立ちとは別の、怒りに似たやり場の無い何かが、慈鴉を苛む。
こんな、手を繋いだだけの状態で喰べられる程に、男の心からは感情が流れ込んでくる……しかも、
あまり、美味しいとは言い難い……。
「うーん。なんだか、ご機嫌斜めだね?実は、お願いがあって探していたんだけど、
少し落ち着いて話がしたいんだ」
この男の傍にいると、いつも怒りのような奇妙な感情で一杯になって、尚更に飢えてしまったような、
そんな後味があって、正直に言うと嫌いだった。近付きたくない。喰べたくもない。
もっと単純で愚かな、根源的な獣のような欲望の方が、ずっといい———喉が熱い。
身体中の細胞が窒息する様に感じるのに、繋いだ手も放せないし、身体が動かない。
男の足が地面を蹴って、ブランコが揺れる。
「慈鴉くんと居ると、何だか凄く心が安らぐんだ。優しくなれる気がする……
穏やかな気持ちになれるんだ」
彼の笑顔は、慈鴉の胸の中に得体の知れない、冷たく光る何かを、
閃光のように拡げる。
すぐに消えてしまうけれど、とても痛い。
「……気がするだけなら、錯覚だ」
「でも、心が安らぐのは本当だよ。私は君とこうして話す事が、今、一番の楽しみなんだ。出来る事なら、ずっと一緒に居たい。変な意味じゃなく、家族みたいに……私の弟か、息子だと思ってくれると良い……
ただ、傍に居たいんだ。勿論、私に出来る事なら、何でもしてあげるよ。今みたいな生活は、もう、
しなくて良くなる」
あまりに真剣な声につられて、男を見ると、真っ直ぐに慈鴉を見詰める黒い瞳があった。
「……俺の事は放って置いてくれ」
立ち上がって、男の手を振り解いた慈鴉の手首を、男が思い切り掴んだので、放そうとしたのだが、
真摯な光を宿した黒い瞳に捕らえられて、思わず怯んでしまう。
その隙に慈鴉の手は、男の両手に包み込まれるように、捕らえられていた。
喰べたくもない得体の知れない感情を喰べさせられて、嫌悪感に慈鴉は無理矢理その手を捥ぎ離した。
「俺は人間じゃないっ!」
傲然と言い放ち、その場を後にしようとした慈鴉の手を、再び男が捕らえて言う。
「嫌なら無理にとは言わないけれどね………
そんな言葉で私の心は変えられないよ………?」
言うなり男は慈鴉の腕を捕らえると、引きずるようにして公園から連れ出し、
野良犬を捕獲する保健所の職員の様な手際の良さで、車に詰め込んでくれた。