草一郎幻夢抄
夕べ見た夢のことをまた考えていた。場末の酒場を出ると、遠い月だけが出ていて、家々はみな鎧戸を閉ざしており、リカオンという生きものが、獲物を探してそこいらをうろついていた。私は銃口の先を切りつめたショット・ガンを手に、目に見える生きものをみな撃ち殺した。そして、自分の殺したものに近寄って見ると、それはリカオンなどではなく、みな人間なのだった。
*
私は風呂に這入っていた。膝を見つめていた。膝が私に語りかけてくるのである。
「青いものを食べたらいい」。
私が驚いて膝に問いかける。
「青いものって?」
すると、膝は言うのだ。
「絵の具とか、緑青とか」
「そんなもの食べて何になる」
「何にもならないさ。だからいいんだ」
「どういうことだ」
「人間は矛盾した生きものだからさ」
「いったい何を言っているのだ」
*
珈琲を淹れるのは、眠気覚ましのためもあるが、珈琲は脳の血管を広げるような気がする。くしゃみをする度に、自分が縮んでゆくようなことになるので、珈琲の力を借りて、縮んだ身体を元通りにしなければ、私は小人になってしまう。
*
トリス・ウヰスキーの薬品のような匂いのままに、いい気分で酔っていると、ジョン・レノンを殺した男が眼の前に現われて、お前の女を寄越せと言う。「俺に女はいない」と言うと、拳銃を取り出して、言う。
「このガンがボブ・ディランを殺した」
「ボブ・ディラン? ジョン・レノンの間違いだろう」
「誰を殺そうが大した違いはない。一つ言えるのは」
「何だ」
「人を殺すのは只でも出来ると言うことだ」
「何だそれは」
「殺人に理由づけするような奴は、俗物だ」
「お前は違うのか」
「違う。だから、ボブ・ディランを殺した」
私は、ジョン・レノンの間違いだろうと言いたかったが、黙っていた。窓辺にむらさきいろの月が上っていた。
*
「月と石ころと、どう違う」
「どう違うって、違いすぎるだろ」
「どこが」
「どこがって、どこもかしこも」
「俺には違いがまるでわからない」
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「空を飛ぼうと思う」
「ほう、飛行機を操縦するのか」
「違う、翼を発明して飛ぶのだ」
「翼?」
「所謂新案特許だ」
「何だそれは」
「鳥の翼を身につけて飛ぶのだよ」
「人間が飛べるものか」
「飛ぶさ。飛べなければどこへも行けぬではないか。なら訊くが、飛べないのなら、人はどうやって天に召されればいいのだ」
「天使に摑まっていけばいい」
「天まで何万メートルあると思っているんだ。その間に腕が疲れて、まっさかさまだ。墜落してまた死んだら、今度は何処へ行けばいいのだ」
「地獄か」
「どうやって行くのだ」
「穴を掘る」
「地底までどれだけ掘ればいいのだ」
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「苦い酒だな」
「そうですかね」
「これは何と言う酒だ」
「麦焼酎でしょう」
「何か混ぜ物をしてあるんじゃないか」
「そりゃあ、水割りですから、冷水で割ってあります」
「いや、そうではなく」
「何が言いたいのですか」
「毒でも混ざっているんじゃないか」
「毒って」
「青酸カリとか」
「そんなものが這入っていたら、一口であの世行きですよ」
「では、ヒロポンとか」
「古いですね。そんな物入れたら、居酒屋さん、後ろに手が廻っちゃいますよ」
「ならばこの苦みは何だろう」
「気のせいじゃないですか。思いすごしとか」
「いやわからないぞ。ここは実は人間の経営している店ではないとか」
「どういうことですか」
「見たまえ。あの店員、狐に似ていないか」
「ああ、そう言えば、そんな気がしなくもないですね」
「そうだろう。この焼酎、狐の小便でも混ざっているんじゃないのか」
「そんなこと、店の人に言わないで下さいよ。叩き出されますから」
「いま、稲妻が光ったな」
「そうですか。わかりませんでしたが」
「そう言えば、他の客も嘴のとんがったような顔だな」
「変なこと言わないで下さいよ。みんなこっち見ているじゃないですか」
「そう言えば、みんないやに毛深いな、あの客なんか手の甲に茶色い毛が生えているぞ」
「怖いこと言わないで下さいよ。みんな見ていますよ」
「そうだな」
「ぼくたち、無事に帰れるんですかね」
*
夕べ自分で煮含めた南瓜が上手に煮えたので、辛口の灘の清酒に燗をつけ、それを酌みながら一人で悦に入っていると、芥川龍之介が現われて言った。
「その南瓜には毒が盛ってあるね」
「そんなはずはないです。自分で作ったんですから」
「では、自分で盛ったのだ」
「そんなわけないでしょう」
「それがあるのだ。私はその南瓜を食べて死んだ」
「何のことですか」
「詳しい話は内田さんに訊け」
「どうやって訊くんですか。百閒先生は故人ですよ」
「それは心配ない。君もその南瓜を食べたのだ」
「確かに食べましたが」
「見たまえ、君はもう亡くなっている」
「死んでいませんよ、何を言うんですか」
「大丈夫だ。その南瓜を食べて生きていられる人はいない」
「生きていますよ。ちゃんとこの通り」
「ならばここに斃れているものは何なのだ」
龍之介が指さしたところには紛れもない自分自身が変な風に体をくねらせて横たわっていた。その顔には悶絶したあとがはっきり見てとれた。唇から耳にかけてひとすじの鮮血が垂れていたが、少し時間が経過した後らしく、心なしか乾きかけていた。
*
ある寒い晩、酒場で思いに沈んでいたら、知らないひとが話しかけてきた。しきりに景気のいい話をするので閉口していたが、どうやらその場の空気がまるで読めない人らしい。私に盛んに儲け話を持ちかけるので、
「そういう話は他所でやってください」
と言ったら、
「お前、漆畑市井人のまわし者だな!」
と怒鳴られた。私は訳がわからないから向こうを向いて飲んでいたら、襟首をつかまれてやにわに殴られた。はっとして相手を見ると、相手はさっさと勘定をして出ていった後だった。私は追いかけて外へ出たが、気味の悪い赤い三日月が出ていただけであった。店に戻ると店のママが、
「何だい、この木の葉は!」
と、レジの中を見て怒っていた。お札がみんな木の葉になってしまったと言う。それにしても、漆畑市井人って誰だろう。ケータイで調べたけれど判らなかった。
*
浜辺を一人で歩いていたら、横を誰かが歩いていた。誰かと思ったら、いつか写真で見た詩人の山村暮鳥であった。暮鳥は渚の足跡を面白そうに眺めていたが、やがて、口を開いて言った。
「君は宇宙をどう考えているのかね」
私は、突然宇宙のことを質問されたので面食らってしまった。
「わかりません」
「判らないことはないだろう。君の意見を述べてくれればいいのだよ」
意見と言われても、私は日ごろ、宇宙のことなど考えたこともない。
「無限の世界だと思います」と、でたらめを言った。
暮鳥はその後ずっと無言で、渚の彼方の雲をずっと眺めていたが、ふいに足許を見て、
「杉野君、見たまえ。赤ん坊の足あとだよ」
そこにはあどけなく、たどたどしい足あとが、ところどころ波に消されてはいたが、波打ち際のはしばしに残っていた。しかし、それにしても私は〈杉野〉などという苗字ではない。一面識もない山村暮鳥と親しげに語らいながら歩いていることと相まって、私にはどうにも腑に落ちなかった。
*
「月、だな」
「月、です」
「何か、わかったか」
「は?」
「ブツは?」
「……月、です」
「……月、だな」
「あなたはどなたですか」
「君は誰だい」
*
石を拾った。帰り路の闇の中で、ふいに足許を手探りしていて見つけた。手触りがいいので家へ持って帰った。
一夜明けた。何かしゃべっている声が聞こえるから、何だろうと思っていたら、石が私の声でぺちゃくちゃとしゃべっている。何を言っているのかと、読者は思うだろうが、日本語ではあるのであるが、何を言っているのかさっぱり分からない。
「発言以来、里中さんがため息なんかつけなくても痛くないのにねって、書斎でも合いますけれど、それからも早すぎたんだよね。語らえるから。だけれどさ、先日午後にされたいです」
私はこの石を捨ててしまおうかと思ったが、持って歩くには危険すぎたし、口をふさぐにもガムテープを貼ったところで、声は聞こえるから、どうすればいいのか、判らない。
あれ以来、私は女性にもてるようになったが、結婚するたびに一週間と持たず離婚する、という暮らしを繰り返した。これもみんな石のせいである。
(世間さまの「耳」が怖くて、私は未だに石を捨てることができずにいる)
*
日頃から、私は手紙を書くのが好きなので、書いていたら、見知らぬ電話番号から電話がかかってきた。
「やあ 、俺だよ、俺。こないだは手紙をありがとう。嬉しかったよ」
「……? ……ああ、喜んでもらえて嬉しいよ。ところで君は」
「それで信ちゃんは元気かい」
「信ちゃん? ああ、あの」
「そうだよ。君の友だちじゃないか」
「そうだけど、それがどうかしたか」
「先日信ちゃんと飲んだばかりだろう」
「先日っていつ」
「ええと、先週、一六日だよ」
「ん? その日は確かに飲んだけれど、酒場でずっと一人だったよ」
「何を言っているんだ。ぼくと信ちゃんと三人で飲んだだろう」
「そうだったか? よく覚えてないよ」
「しっかりしてくれよ。あの時信ちゃんが言ったじゃないか。こないだ女を引っかけてホテルへしけこんだら」
「しけこんだら」
「実はオカマだったって話」
「なんか勘違いしてないか」
「何を」
「信ちゃんは女だぞ」
「男だよ」
「あいつ、性転換したのか。面白い」
「性転換なんかしてない。もともと男だよ」
「ところで君は誰だい」
「君こそ誰だ」