最悪女の敵
キーンコーンカーンコーン。本日の授業終了のお知らせ。国内にはチャイムが鳴らない学校も多々あるとか。余談。
「じゃあねー、英恵」
放課後に入り、騒がしい教室の中で、学生カバンを肩にかけながらはるかが別れを告げる。
「また明日。部活動がんばっ」
遠慮がちに手を振りながら、椅子に座ったまま友人を見送る綾野川。手を振り返すと、はるかは駆け足で教室を去っていった。
クラスメイトが消えたことを確認すると、鞄に手をかけ、自分もさっさと帰ろうと立ち上がる。廊下側一番前の席の利点は、生徒の荒波にもまれずにさっさと廊下に出れるところも挙げられる。
「あ、綾野川さん」
その時、後ろからかわいらしい声が綾野川を呼んだ。
「!」
前の方を見据えたまま、綾野川の眉間に力が僅かに入る。
「何?芥川さん」
綾野川が爽やかな笑顔を造りながらゆっくり振り返ると…そこには声に違わず、小柄でかわいらしい少女が立っていた。背まで伸びる長髪を肩の位置で二つ縛りにしているところも高ポイント。
「これ、楠村先生から渡してくれって頼まれたの。次の風紀の委員会で話し合う議題についてだから目を通しておいてくれって言ってたよ」
「ああ…わざわざ、ありがとう。芥川さん」
渡されたプリントにさらっと目を通すと、再び、眼の前にいる小動物を見つめ、清らかそうな笑顔で礼を言った。
よくやるもんだ、といった顔で、綾野側たちの様子を教室の掃除をしながら糸倉が観ていた。
「ふふ、どういたしまして」
ピシッ。
気のせいだろうか。次の瞬間、ラップ音が聞こえた気がした。糸倉は、音の発生源を見つけようと、辺りを見回す。
「…でも、楠村先生もひどいよね。芥川さんに『面倒事』を押しつけて」
笑顔のまま、綾野川が何やら言いだし始めた。
「受け持っている委員会のプリントを『その辺にいる』生徒に『押しつける』なんて…。誰でもできる『簡単』なことなのに。これじゃあ、まるで芥川さん『パシリ』じゃない?『なめられて』いたりしてー…」
所々、強調しながら、芥川相手にまくし立てている。表情は穏やかながら、綾野川の後ろには数々の戦場で戦ってきたなんか凄そうな歴代の戦士たちが見える。そいつらが、今にも芥川を襲いそうな面持ちで睨んでいる。少なくとも、少し離れたところでこれまでをみほうけていた糸倉にはそう見えた。
「…」
じっと、綾野川を見つめる芥川。さあ、この意味不明な攻撃にどう返す。
綾野川も負けずと笑顔でい続けている。
…次の刹那、芥川の口元が緩んだ。ゆっくりと。その数秒とも経たない間の表情の変化を綾野川は観ていた。
「ふふ、楠村先生そんな人じゃないよ」
にこやかに、彼女は言った。
「先生、体調悪そうだったから仕方なかったんだと思う」
ピシッ ピシッ
またしてもラップ音。糸倉が再び辺りを見回す。
「でも、大事な委員会のプリント、私に信用して渡してくれたんだよね。そういうのってなんか嬉しいね」
ピシッ ピシッ ビシンッ
「なんだ!?壁にいきなりひびが入ったぞ!」
綾野川のすぐ近くにいた男子たちが近くにある壁を見て驚く。
照れながら笑む芥川が言い終えるのが早いか、壁が割れるのが早いか、糸倉には判断し難かった。
「そっそうね…」
綾野川は笑っている。しかし、唇は若干痙攣している。
「私、そろそろ、部活あるから」
「あ…、頑張ってね…」
少し控えめな声で、芥川を見送ろうとする綾野川。
芥川は綾野川に背を向け、自分の席にあった鞄を肩にかけた。その後、向き直り、
「綾野川さんも次の委員会頑張ってね!」
…もう、それはち切れんばかりの輝きをまとった笑顔で、綾野川を激励した。
「…っ!」
綾野川に流れる電流。芥川が教室から立ち去った後も、彼女は立ちすくんでいた。表情は見えないが、その様子を見て何かを察知したのか。糸倉が駆けだす。窓の方へと。
ピシッ ピシッ ピシッ
ラップ音発生。
「なんか聞こえない?」
近くにいた女子がそう言うのを、糸倉は聞いた。そして、彼は窓に手をかける。
「優?」
彼の行動を見たクラスメイトが驚いたように声をかける。
ビシンッ ビシンッ ビシンッ
「壁がああっ!?どんどん割れていくぞ!!」
ようやく騒ぎ出す生徒たち。と、同時に糸倉は身を乗り出し―――外へと飛んだ。
「…!」
俯いていた綾野川は顔を上げ…そして、眼を見開いた。
次の瞬間、
「うぐわぁぁぁっ!!頭が!!割れるように痛い!!」
「うっ腕があ!!関節があ!!」
「吐く!吐くうううぅうぅ!気持ちわ…うぼっ●▼■×」
「大丈夫だ…みんな」
自分が脱出してきた二階の教室を見上げながら糸倉が独り言を言う。
「一分の辛抱だ…長くは続かない。それに…」
眼を伏せながらゆっくりと静かに、青年は歩き出す。
「受ける身体的損傷はすぐ回復する程度だ」
絶望的な悲鳴が響く中、風だけが、静かに吹いていた。
「ありえないだろ」
いや、お前の能力の方が人間的にあり得ないよ、いろんな意味で、と思いながら、糸倉はいきなり家に押しかけて来た眼の前の知り合いを見ていた。
「…何のこと」
「芥川だよ!芥川文乃!」
「…放課後話してたな」
私服姿の綾野川英恵は偉そうに、親父座りをしながら、憤っていた。時刻午後七時五分。夕飯時なので、糸倉の部屋で一緒に二人はカレーを食っている。
「…何が気に食わないわけ。普通に良い子じゃん」
ぼそり、とカレーを口に含める前に糸倉が言った。
「…ああんっ!?」
それを聞いた綾野川は物凄い形相で睨んでくる。
「お前、マジで解からないの?『普通に良い子』だからだろうがよっ」
「…は?」
いくら、凄んで言われても解からないものは解からない。
綾野川は、ふぅっ、と息を吐きながら頭を振った。
「ったく、馬鹿な知り合いを持つと苦労するな」
そう言うと、キッと糸倉を睨んだ。
「いいか!?」
「普通、人間というモノは恨み妬みその他もろもろの汚いものが混ざってできているんだ。そして、自分の利害を無意識に計算し、それに最良な行動をとりたいと願っている。親切やらなんちゃら綺麗なものなど、ずぇぇぇんぶっ!偽善だ!見返りを求めないものなどどこにいる!?勤労によって金を!奉仕によって愛を求める!そのやましい気持ちが裏切られると、人間は『常識がない』などと言って、根拠もへったくれもないくせに、あたかもそれが悪いことのように責め立てる!それが人間というモノな・ん・だっ!」
そこまで言い終えると、一気にしゃべりすぎて疲れたのか、はたまた興奮しているのかは知らないが、綾野川は息切れをしていた。
「…で?」
そんな様子を無表情で冷静に眺めながら、糸倉が聞き返す。
「…しかし、そんな人間は絶対ボロが出る」
少し落ち着きを取り戻し、綾野川が続けた。
「所詮、自分の行為を力任せに正当化しようとする愚か者たちだ。頭が弱い。…ま、例外としてこの俺様がいるがな」
鼻高々と言った様子で胸を張る。
「だが…俺様は、そういった人間の愚かな一面を見ることによってある種の優越感に浸れることも事実…しかし…あの…芥川文乃は…っ」
綾野川は、表情を険しくし、ギリっと歯ぎしりした。そして、テーブルを叩き、叫んだ。
「全然、その汚さが垣間見えないのだっ!!」
「…」
数秒の沈黙。
「…それは、だから、…良い子なんだろ?」
綾野川を見ながら糸倉が静かに確認する。
ぷっちーん。綾野川の中で何かが切れた。勢いよく糸倉の胸ぐらをつかむ。
「だああああかああああらああああ!!『良い子』は『良い子』でもそれが『異常』なんだよ!!いいかあ!?さっきも言った通り、人間っていうのは汚いものが少しでも混じってるんだよ!!そして、滲み出る!!」
「それがなんだ!あいつは、それを少しも見せやしねえ!!っつーことは、あいつが俺より上手か、百パーセント純粋な非人間だってことだろうが!」
「ちょ…カレーこぼれる…それがどうしたの」
カレーに気を取られながら、糸倉が聞く。
「いいか?糸倉。俺様は俺より完璧に近いものが嫌いだ。まあ、その分俺様は向上心もあるから、俺様が嫌いなものはゼロに等しい。…が、あの芥川のやつの場合、するりと俺の斜め上を行きやがる。いくら、汚い面を引き出そうとしても、効きやしない。…もし、あいつが上手く隠しているだけなら、俺様もまだ、これから勝てる可能性は大いにある。しかし…、もし…あいつにそんなものがないとしたら…」
少し俯いた後、再び糸倉を見つめ、綾野川は言った。
「それは俺の敗北を意味する」
「…なんで」
普段あまり見ることのない真面目な表情の綾野川を見つめたまま、糸倉は聞いた。
綾野川は、目を細めて、言う。
「いいか、俺様の場合、どんなに完璧を目指し、純粋な良い子キャラを装ったとして九十九パーセントはいけるだろう。…だが、それを目標にしている時点で完全な『良い子』にはなれない。なぜなら、それは『良い子を目指している人間』だからだ。だから俺は…『良い子』には絶対になれない…悲しいことにな」
彼女は、言いながら、眉間に皺をよせ、悔しそうな表情をする。
「だが、最初から汚いものなどなく、純粋な良い子という成分しかないのなら…!いや、善悪など、地域によって違うから『良い子』という表現は絶対的なものではないが、…そうだな。何かを排除しようと思わない自分本位の気持ちがこれっきしも無いのなら…『それ』は百パーセントになり得るっ…」
「その場合、俺は…勝てないんだ…っ」
言い終えると、綾野川は糸倉の服を掴んでいる手を離しはしなかったが、そのまま、うなだれた。
「…綾野川」
そんな、彼女が痛々しく見えたのか。彼が少し、慰めるように声をかける。そして、右手を彼女の頭へ…。
「大体だ」
突然、綾野川がバリトン並みの低い声で言った。
そして、勢いよく立ちあがり、服を掴んだままの手を首に移行させ、上に挙げ、糸倉を爪先立ちにした。
「大体、名前も気に入らねえっ!なんだ!『芥川』って!『綾野川』とかぶるじゃねえかっ!『文乃』も下手すりゃ『アヤノ』って読めるしよぉっ!
「楠村が体調悪そうだと!?ただ、面倒だっただけだろ!!あんなの年がら年中じゃねえか!アイツに崇高な教師的思想があるか!!ヤブ医者ならぬヤブ教師だろうが!たんなるニコチン中毒だろうがっ!!なんだ!!疑わずして罰せずのアピールですか!!良い子アピールですか!!」
「あと、背低いとか!かわいらしいキャラとか!ハンデありすぎだろ!不公平だ!アイツ俺より今年告られた数多かったら完璧につぶしてやる!!」
意識が薄らいでいく中、天井を見上げたまま糸倉は思った。ああ…こいつは、ただ単に、自分を少しでも自分のキャラを脅かす存在が気に食わないだけなんだな…。
そろそろ、糸倉が死にそうになったところで、綾野川が糸倉をベッドに投げ飛ばし、彼の命は一応救われた。
「昨日、ポルターが椅子と減少が起こったんだって?」
本日の天候は雨。朝、綾野川が席に着くとはるかが聞いてきた。教室には昨日の現象の残痕が痛々しく残されていた。
「うん、怖かったよー」
少し、おびえたような表情を造りながら彼女は平然とほざく。
「えー、その場にいたかったなあ。良いネタになったのに」
「おはよー」
「!」
そこへ、ある意味、事件の根源である芥川が登校してきた。
「おー、おはよー。文乃ちゃん」
はるかに続き、綾野川も笑顔で挨拶を返した。
「何の話してたの?」
「実はさー…って文乃ちゃん、鞄、なんか動いてるけど」
芥川の鞄の違和感に気づき、指を向けるはるか。
「え…!あの…」
芥川は言いづらそうにモジモジしだした。
「…!」
その様子を見た綾野川の眼が光る。口元を…邪神のように緩める。
「どうしたの!?芥川さん!!すごい気になる!鞄見せてね!!」
「え?あっ、あの」
困惑している芥川なぞ何のその。相手の了解など得る気もない。有無を言わせずに、勢いよく身を乗り出し、鞄のファスナーに手をかける。
『さあて。一体、どんな都合の悪い品物が入っているのかなあ?』
目を三日月のように歪ませ、そして、手を思いきり横に移動させた。
「…!」
芥川の鞄が開帳された次の瞬間、綾野川は思わず、目を見開いた。
「ミャー」
…黒猫であった。芥川の鞄の中には小さい黒猫が入っていた。
「…ね…こ?」
呆気にとられつつも綾野川は芥川をゆっくりと見上げた。
「え…とね」
バツの悪そうに芥川が口を開く。
「その…その子…登校中に捨てられているの見つけて、持ってきちゃだめなのは解かってたんだけど…今日雨で寒いし…」
「少しでも暖かいところにおいてあげれたらって…」
ブツブツッ
綾野川の身体に蕁麻疹の子が生まれる。
「え…と…」
「えー、可愛い!!いいじゃん!伊藤ちゃんに預かってもらおうよ。保険医っていっても暇そうだし」
綾野川が言葉に詰まっていると、隣にいたはるかが、声高く言った。その声を聞きつけた他のクラスメイト達が集まってくる。
「どうしたん?」
「捨て猫、文乃ちゃんが保護してきたんだって。雨だから」
「うわあ、可愛いなあ、名前は?」
「黒猫だからクロ?」
「わー、ありきたり」
いつの間にか芥川たちの周りに大勢が集まり、盛り上がっている。しかし、そんな様子を見ている綾野川の笑いだけは少々乾いていた。
「でもさあ、捨てられている猫を学校に運んできちゃうなんて」
輪の中で子猫を抱えている女子が小動物の頭を撫でながら、芥川に向き直って言う。
「やっぱり文乃って優しいよね!」
ピシッ
ほんわかとしたムードがクラスを包む中、ラップ音がしたことに気がついたのは窓際に避難している糸倉だけであった。