物語の始まり
静まり返った夜のことだった。
深く、暗い森の奥で、一人の赤ん坊の泣き声が響いていた。
その泣き声は木々の間をすり抜け、普段なら虫の声と風の音しかない夜の空気を震わせるほど大きかった。
だが、不思議なことに――
その声に気づく者は、誰一人としていなかった。
本来なら、このような森では違うはずだ。
血の匂いや、か弱い赤ん坊の泣き声を聞けば、獣たちはすぐに集まってくる。
泣き声は弱さの証。
そして弱さとは、すなわち獲物なのだから。
しかし、その夜だけは違った。
虎も来ない。
狼も来ない。
夜空を舞う猛禽の影すら現れない。
まるで、この世界そのものが――
その泣き声の存在から目と耳を閉ざしているかのようだった。
泣き声はただ、空しく響き続ける。
悲しく、孤独で、すべてに見捨てられたかのように。
その時だった。
空の高みから、淡い光がゆっくりと現れた。
木々の隙間を通り抜けるように、柔らかく輝きながら、光は静かに降りてくる。
そして、まっすぐに赤ん坊のいる場所へ向かっていた。
まるで――
空そのものが手を差し伸べているかのように。
その光は、普通の光ではなかった。
温かいのに、焼けることはない。
柔らかいのに、どこか重みを感じる。
そして何より奇妙なのは、音も振動もまったくないことだった。
ただ、深まる静寂だけが、その光と共に赤ん坊を包み込んでいく。
それから十六年。
俺は、ずっと一人で生きてきた。
自分がどこから来たのかも知らない。
親が誰なのかも、今も生きているのかすら分からない。
この世界は、俺に命を与えた。
だが――答えは何一つ与えてくれなかった。
俺の住処は、一本の大きな木の上だ。
太い枝の上に板を置いただけの簡単な寝床。
屋根もない。
壁もない。
あるのは夜空だけ。
そして毎晩、星たちが俺の寝床を見下ろしている。
ここから遠くを見れば、王国の姿が見える。
地平線の向こうにそびえ立つその姿は、
まるで別世界のようだった。
人々は言う。
ここからあの王国まで行くには、かなりの距離があると。
凶暴な獣や自然の罠に満ちた森を歩いていけば、
何日もかかるかもしれない。
方向を知らなければ、なおさらだ。
だが――
俺は森を怖いと思ったことはない。
本当に怖いのは、
この静けさが、いつまでも俺が誰なのか答えてくれないことだ。
普段の生活は単純だ。
森の果物が、俺の食事になる。
どの木が安全で、どの実が毒なのかは、もう知っている。
この森は、厳しいけれど、
俺にとっては家のようなものだった。
時々、ウサギを捕まえるための罠も仕掛ける。
仕組みは単純だ。
植物の繊維から作った紐と、自分で考えた簡単な仕掛けだけ。
だが、面白いのは――
その餌の方だった。
餌は王国の方から手に入れる。
正確には、森の道を通る商人たちからだ。
もちろん、買ったわけじゃない。
荷車から落ちた食べ物のかけらや、
彼らが捨てた残り物。
時には、彼らが商売に夢中になっている隙に、
こっそり少しだけ拝借することもある。
だが、取りすぎはしない。
罠の餌と、俺が生きていくために必要な分だけ。
彼らは気づいていないのか、
それとも気づいていて見逃しているのか。
どちらにせよ――
森の中にいる名もない子供など、
誰も気にしない。
もし、誰かが俺を気にかけるとしたら、
理由は二つしかないだろう。
一つは、名声のため。
捨てられた子供を助ける。
それは人々の目には、とても立派に映る。
同情を集め、信頼を得て、
時には自分の利益にもなる。
もう一つは――ただの気まぐれ。
退屈しのぎ。
好奇心。
あるいは、他にすることがないだけ。
だが、本当に心からの優しさなんてものは――
俺はまだ、一度も見たことがない。
その朝は、いつもより霧が濃かった。
冷たい空気が骨まで染み込む。
木の上から王国を見ても、
いつも見える高い塔は霧の向こうに消えていた。
俺は寝床から降りて、
昨夜仕掛けたウサギの罠を確認しに行く。
結果は――
空っぽだった。
一匹もかかっていない。
寒さのせいで巣に隠れているのか、
それとも俺の罠を覚えたのか。
少し考えた後、俺は王国へ向かうことにした。
いつもは森の端で残り物を拾うだけだが、
今日はなぜか、もう少し奥まで行ってみたい気分だった。
王国の門には、二人の兵士が立っていた。
槍を持ち、軽い鎧を着ている。
だが俺が通り過ぎても、
彼らは止めもしなければ、こちらを見もしない。
まあ、いつものことだ。
痩せた体。
ぼろぼろの服。
力のない子供の顔。
それだけで俺は、空気のような存在になる。
価値もない。
重要でもない。
だからこそ、
誰にも止められずに門を通れる。
時々、思う。
見えない存在であることも、
一つの力なのかもしれない。
市場は騒がしかった。
商人たちの呼び声。
値段交渉の怒鳴り声。
食べ物の匂い。
俺は目立たないように歩きながら、
屋台を一つずつ見ていく。
その時だった。
「坊や……ちょっとおいで。」
優しい声が聞こえた。
振り向くと、
小さな果物の屋台の奥に、年老いたおばあさんが座っていた。
顔はしわだらけだが、
笑顔はとても温かかった。
彼女は、売れ残りらしい小さな果物を数個つかみ、
俺に差し出してきた。
「ほら、これ。迷子かい?」
その瞬間、俺は言葉を失った。
胸の奥に、妙な感覚が広がる。
温かい。
けれど、どこか知らない感覚。
まるで、
ずっと忘れていたものに触れたような――
いや。
もしかしたら、
最初から知らなかった感情なのかもしれない。
何も言えず、
俺はただ小さくうなずき、笑った。
世界の冷たさの中で生きてきた、
ぼろぼろの少年の、小さな笑顔だった。
夕日が地平線に沈む頃、
俺は市場を離れ、森へと走った。
霧が再び降り始めていた。
夜が来る。
自分の木へ戻り、
いつもの板の上に座る。
そして、もらった果物をゆっくり食べた。
甘い味が広がる。
だが、それ以上に――
胸の中に、温かさが残っていた。
誰かに気にかけてもらうという感覚。
それを、俺はまだよく知らない。
食べ終わった後、
俺は木に背を預けて夜空を見上げた。
その時だった。
無数の星の中で、
一つだけ、やけに明るい星があった。
そして――
ゆっくりと、
少しずつ、
こちらへ近づいてくる。
まるで、俺を見ているかのように。
俺は小さく笑った。
驚きもしないし、怖くもない。
ただ、その光を見つめながら呟く。
「……何か用でもあるのかな。」




