追う狼
森に入ると、音が変わる。
石畳の反響が消え、葉擦れが増え、湿った土が足の裏に返ってくる。
背後の拍手と歓声は、もう風の向こうだ。
それでも、あの金属音だけは耳に残っている。
モリは走る速度を上げない。
上げれば音が出る。音が出れば“追っている”が伝わる。
追跡は競争じゃない。狩りだ。
運営の癖が、言葉より先に手順を出す。
ユキが先に入る。
白い毛が闇に沈み、耳が立ち、鼻先が低く動く。
アラシは見えない。見えないのに、いる。
影の縁が一度だけ濃くなり、次には別の木の根元へ移っている。
匂いはまだ細い。
油。血。香辛料。人の汗。
式典会場で混ぜられた匂いが、森の中でもしつこく残っている。
混ぜた者は、混ぜ方を知っている。
だが森は、嘘を薄める。
風が一定の方向に流れ、湿り気が匂いを地面へ落とす。
人間の足跡は、葉を裏返し、苔を剥ぎ、枝を折る。
折り方にも癖が出る。
モリは、その癖だけを拾う。
速く逃げた者の足は直線になる。
直線になった場所には、必ず“戻し”がある。
視線を外し、追う者の手順を乱すための戻し。
ユキの喉が低く鳴った。
鼻先が左へ切れる。
モリの頭の中で、その音が一つの線に変わる。
――いる。近い。
木々の間に、わずかな空白が見えた。
森の作法を知る者は、空白を通らない。
空白は視線が通る。射線が通る。
だから、空白の“縁”を使う。
縁に、影があった。
布。刃の光。呼吸のない気配。
カルマイン。
距離は、もう声が届くほどじゃない。
刃が届くほどの距離だ。
モリは息を殺し、道具袋の口を指で押さえた。金具が鳴るのを嫌う。
――捕まえられる。
そう思った瞬間、森の空気が一段だけ厚くなる。
前からじゃない。横だ。
横の闇が割れ、足が一本、滑り込んだ。
「そこまでだ」
声が出る。
プレイヤーの声。
しかも、躊躇がない。
男が立っていた。
軽装。機動重視。だが装備の噛み合わせが“実戦”の匂いを持っている。
刃の角度。距離の詰め方。
カルマインのやり方を、真似ている。
忠誠。
あるいは崇拝。
カルマインに誓ったプレイヤー。
モリは、視線だけで背後を確認する。
カルマインはもう動いている。
止まらない。止まらせるための“壁”が用意されている。
「お前が……時間を稼ぐのか」
男が笑う。
「稼ぐ? 違うな。これは“守る”だ。
あの人が行く道を、汚す奴を狩る」
言葉が熱い。熱いのに、目が冷たい。
矛盾がある。矛盾のまま固まっている。
思想が、人を便利な形にする。
モリは、相手の足運びを見る。
踏み込みが浅い。
浅いのに、刃は届く。スキルだ。距離を短くするタイプ。
次の瞬間、森が“戦闘”になった。
男の刃が来る。速い。真っ直ぐ。
モリは受けない。受ければ腕が折れる。
代わりに、半歩ずらす。
ずらした先に、木の根がある。根を踏まない。踏めば転ぶ。
足の裏で地形を読む。
読んだまま、紐を投げる。
輪は相手の手首じゃない。刃の柄と腕の間。
引けば刃の角度が変わる。変われば、当たらない。
男が舌打ちし、刃を捨てるみたいに回した。
紐が切れる。切れる速度が速い。
切れるなら、次だ。
モリは腰から短い棒――普段は道具として使うものを抜き、相手の膝の内側を叩いた。
倒すためじゃない。角度を崩すため。
男が一瞬だけ沈む。
その一瞬に、別の刃が来る。
蹴り。体当たり。小石。
森の中では、全部が武器になる。
死闘だった。
派手じゃない。
派手にすれば森が鳴き、他が寄る。寄ればカルマインが逃げる。
だから、互いに“静かに殺す”に寄っていく。
ユキが低く唸り、男の背後へ回ろうとする。
だが男はユキを見ている。見えていないのに、見ている。
獣の動きを読む訓練をしている。
アラシの影が、男の足元へ伸びた。
影が絡む。足が止まる。
止まった瞬間、男がスキルで地面を蹴り、影を振りほどく。
影すら“抜ける”方法を知っている。
モリは息を吐き、吸い直す。
ここで勝っても、カルマインはもう遠い。
だがここで負けたら、次がない。
男が言う。
「追うな。あの人は、お前の“正しさ”じゃ届かない」
モリは返さない。
返す暇があったら、手順を出す。
紐はもう一本ある。
砂袋の代わりに、土。
棒の代わりに、木の枝。
森は材料をくれる。
モリは足元の湿った土を掴み、相手の視界へ投げた。
砂じゃない。土だ。重い。張りつく。
男の瞬きが遅れる。
その瞬間に、ユキが横から体を寄せた。
噛まない。噛めば血が出る。血が出れば匂いが増える。
代わりに、体で押す。間合いをずらす。
モリはそのずれに合わせ、男の足首へ紐を掛け、木の根に固定した。
引かない。固定するだけ。
動けば転ぶ。動かなくても、追えない。
男が笑った。
悔しそうに笑った。
「……いい。十分だ」
その言葉が、モリを刺す。
十分。時間は稼げた。カルマインは逃げた。
モリは、森の奥を見た。
匂いは、もう繋がらない。
ユキの鼻先が一度だけ動き、すぐに止まる。
アラシの影が、戻ってくる。
逃げおおせた。
モリは拳を握り、ほどいた。
怒りを握るのは贅沢だ。
だが、今夜だけは贅沢をしてしまいそうになる。
遠くで、式典の光が消えたはずの空が、まだ白い。
講和は成立した。
だが森の中では、講和は何も止めていない。
モリは息を吐く。
「……次は、段取りを上書きする」
声は森に吸われた。
ユキの耳が、まだ高い。
アラシの影が、まだ揺れている。
そして、カルマインの影は、森のさらに奥へ消えた。




