引き継ぎメモ
運営フロアの朝は、落ち着かない。
騒いでいるわけじゃない。
ただ、手が止まる隙がない。
キーボードの打鍵と、短い呼びかけと、机の上に落ちる紙の音。人が増えるほど、会話は減っていく。ひとつひとつ説明している暇がない。
壁際のボードには、対応待ちのカンバンが並んでいた。
「設置トラブル」「誘導」「口論」「通報」。
似たカンバンが続く。場所が違っても、言い分が少し違っても、根っこは同じだ。
現場担当の若手スタッフ、新井ユウは、カンバンを一枚めくっては、また戻していた。
現場に出れば出るほど、次のカンバンが増える。
止めたつもりが、別の場所で燃え直す。
火を消すだけでは、火種が残る。
「……また、ここか」
ユウは小さく息を吐いた。
机の端に置かれた端末が、短く震える。社内チャット。内部の連絡。外の通報。どれも“今すぐ”を名乗ってくる。
手を動かしても、減らない。
手を止めたら、増える。
ユウは画面を見ながら、ふと、言葉を漏らした。
「先輩、なんで辞めちゃったんだよ……」
声は愚痴にしては小さく、独り言にしては具体的だった。
先輩。
以前この現場で働いていて、今はいない人のことだ。
攻略組の数字も、まったり組の空気も、初心者の迷いも、全部まとめて見ようとしていた。
現場が燃える前に、入口を塞ぐ。
そういう発想が、いつも先に出ていた。
今は違う。
起きた揉めに走って、止めて、また別の揉めに走る。
それを“回している”と言い張っているだけだ。
「……あの人がいたら、って言っても仕方ないんだけどな」
ユウはカンバンをひとつ引き抜き、別の列に移した。
その動きが、今日の仕事の全部みたいだった。
そこへ、運営リーダーの久世ミサキが来た。
肩書きは上。
だが、あの辞めた先輩は、ミサキの部下だった。
それでも現場では、経験が先に立つ。
ユウが「先輩」と呼ぶのは、その順番のせいだ。
歩く速さはいつも通り。声も落ち着いている。
ただ、言葉が早い。
「同じ種類の揉め事、また増えてる?」
「増えてます。場所は違うのに、起き方が同じです。案内不足で迷って、口論になる。そこから通報が出ます」
「……そう」
ミサキはボードを見上げた。
カンバンの列が、短くならない。
一個ずつ片付けても、別の一個が滑り込む。
「GMを出せば止まる。でも、出すほど他が止まる」
ユウが言うと、ミサキは頷いた。
否定しない。
分かっている顔だけが増える。
「入口を塞がないと、永遠に回らない」
ミサキは独り言みたいに言った。
机に戻り、引き出しを開ける。
古いファイルが一冊。
背にラベルが貼ってある。
『引き継ぎ(改善提案)』
辞めた先輩が残していったメモだ。
ミサキは、忙しさの中で何度もその存在を思い出して、何度も後回しにしていた。
今日だけは、開いた。
ページの途中に、線が引かれた箇所があった。
『攻略組の声は強い。数字も出る。
だが、初心者側の迷いは声にならない。
声にならないところで詰まると、揉めとして表面化する。
対策は“現場の声を拾う”ではなく、“声にならない側の導線を拾う”仕掛けを作ること。』
続けて、短い案が並ぶ。
『・同じ揉めを分類する(入口で束ねる)
・「禁止」だけで終わらせず「代替導線」までテンプレ化する
・攻略側/生活側/初心者側の視点を、制度で並べる
(強い声だけが通る構造を崩す)』
ミサキの指が止まった。
“制度で並べる”。
それは、今の運営がいちばん苦手にしていることだ。
目の前の火に水をかけるのは得意だ。
だが、火種の置き場所を変えるのは、決断がいる。
ミサキはページを閉じ、もう一度ボードを見た。
カンバンの列。
同じ件が、場所を変えて戻っている。
入口は、ひとつ。
そして声が強いのは、いつも同じ側。
「……プレイヤーから、助言を集める」
ユウが顔を上げた。
ミサキは続ける。
「ただ集めるんじゃない。分類して、並べる。攻略側だけじゃなく、初心者側の迷いも“拾える形”にする」
言い切ったあと、息をひとつ吐いた。
重さを捨てるためじゃない。
決めたから、軽くなる。
「告知文、作る。今日は骨子まで決める」
ユウの顔が、少しだけ緩んだ。
「……それ、今週いちばん助かります」
ミサキは笑わなかった。
でも、頷いた。
「入口を塞ぐ。走り続けるのは、もうやめる」
ユウは端末を開き、白紙の文面にタイトルを打った。
『プレイヤーアドバイザー募集(試験運用)』
カンバンの列は、まだ短くならない。
それでも、今日の仕事が“火消しだけ”じゃなくなる。
それが、ひとつの前進だった。




