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台風一過

霧が薄くなった。


薄くなった分だけ、世界の音が戻ってくる。


水。


虫。


遠い鳥。


そして、自分たちの足音。


勝った。


でも、勝ったままでは帰れない。


森は、勝利を置いていく場所じゃない。


生活を、戻す場所だ。


モリは矢を回収する。


刺した場所。


擦れた場所。


折れた羽毛。


一つずつ見て、数をそろえる。


足りている。


無駄がない。


無駄がないのが、いちばん大事だ。


マコトは倒れた霧踏みのアウルベアから、視線を外した。


名残惜しそうに見ない。


誇らしげにも見ない。


ただ、短く頷く。


「うん。終わり」


ユキは鼻先を地面に近づけ、匂いを確かめた。


赤い筋はもう消えている。


呼吸は落ち着いている。


“使って、戻す”。


戻したら、それでおしまい。


それ以上は、持ち帰らない。


帰り道は、いつも通りにする。


速く歩かない。


静かに歩く。


速さは目立つ。


目立つと、人が来る。


人が来ると、森が荒れる。


モリはいつもの手順で、いつもの足で、道をなぞった。


湿地の境を離れると、匂いが少し変わる。


水の匂いが引いて、土が勝つ。


樹脂。


ヨモギ。


ミツバ。


“森の匂い”に戻る。


拠点に着くと、まず火は起こさない。


起こす前に、手を洗う。


泥を落とす。


血の匂いを落とす。


道具の匂いを落とす。


落とせるものは落とす。


落とせないものだけを、残す。


モリは刃を拭く。


布は一度だけ。


二度は拭かない。


二度拭くと、油が足りなくなる。


足りなくなると、また整え直しになる。


整え直しは、音になる。


だから一度。


弓の弦も、薄く。


濡れた境界では遅くなる。


遅くなる前に、ちょうどよく。


マコトは木箱を開いた。


粉。


刷毛。


小さな油。


布。


今度は塗るためじゃない。


落とすため。


「戦化粧ってさ」


マコトは布で頬を押さえながら言う。


「盛るためじゃなくて、戻すためにあるんだね」


モリは答えない。


でも、頷いた。


戻すため。


それは門も同じだ。


森の奥に繋がる門は、目立たない。


鈴も、目立たない。


気づいた人だけが、静かに使う。


静かに使う人だけが、森に残れる。


ユキは寝床のそばで丸くなった。


耳だけ動かして、外の気配を一度だけ確認する。


それで終わり。


守り続けない。


守り続けると、仕事になる。


仕事になると、暮らしが崩れる。


火を起こす。


小さく。


煙も小さく。


湯を沸かす。


湯気の匂いが、勝ちの匂いを薄めていく。


食事は、いつものもの。


乾いた肉。


少しの塩。


香草。


噛む音が、生活の音になる。


生活の音が、森を戻す。


マコトは口に運んでから、ふっと笑った。


「ねえ、モリさん」


「今日さ、私、あなたを強いって言わない」


モリは手を止めない。


言葉だけを待つ。


「強いって、言うとさ」


マコトは指で空をなぞった。


「たぶん、神様みたいになっちゃうの。遠くなる」


「でも、モリさんは遠くないじゃん。ここにいる」


焚き火の光が、手元を照らす。


手元だけ。


それでいい。


「だから私、別の言い方する」


マコトは小さく胸に手を当てた。


「今日のは――作品だった」


モリが、ほんの少しだけ目を上げる。


「罠も、矢も、足場も」


「ユキちゃんの型も」


「私の半歩も」


「全部、同じ一枚の絵になってた」


「霧の中で、壊れずに終わる絵」


褒め方が、いちいち具体的だ。


それが、嬉しさを怖くしない。


モリは短く言った。


「森が壊れなかった」


「うん。それ」


マコトは頷いた。


「派手に勝つより、ずっとかっこいい」


夜が深くなる。


ユキの呼吸が、一定になる。


火が小さくなる。


マコトは荷をまとめた。


去るのが早い。


早いけれど、冷たくはない。


ここに長くいると、森のリズムが変わる。


変わると、モリの暮らしが崩れる。


それを分かっている。


「また、遊びに来るね」


マコトが言う。


約束を、軽く言わない。


軽く言わないのに、重くしない。


モリは指を一本立てた。


合図。


“それでいい”。


マコトは笑った。


声は小さい。


でも明るい。


「うん。じゃ、またね」


「次会うときも、モリさんの暮らし、壊さないで来る」


朝。


霧はさらに薄い。


道具は整っている。


段取りも、整っている。


大物が出た時の手順が、拠点の中に残った。


勝利は誇らない。


ただ、戻す。


戻した分だけ、森は静かになる。


静かになった森の中で、モリはいつも通りの手で、刃をしまった。

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