供養
森が荒れている。
荒れる理由は、だいたい“数”だった。
数が集まる。
声が増える。
声が増えると、勝ち負けが生まれる。
勝ち負けが生まれると、森は森じゃなくなる。
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母銀狼が狩られたのは、そういう日の、少し奥だった。
白銀の毛並みが、泥と血で濁っている。
美しかったものが汚れるのを、人は「戦果」と呼ぶ。
モリは遠くから見ただけで、背を向けた。
関わると、責任が増える。
責任が増えると、生活が壊れる。
だから、見ない。
……のつもりだった。
森の浅い方、いつもの導線。
倒木の脇を抜けたところで、草が不自然に寝ていた。
踏み荒らされた跡。
その中心に、小さな白がある。
銀。
いや。
銀に、泥が混ざって灰色になっている。
子どもの銀狼だった。
小さい。
息が速い。
片脚を引きずって、逃げる体力も残っていない。
モリは立ち止まる。
拾わない。
拾うと、連れて帰ることになる。
連れて帰ると、餌が要る。
餌が要ると、稼ぎ方が変わる。
稼ぎ方が変わると、日課が崩れる。
……理屈は並ぶ。
でも。
このままにしておくと、ただ死ぬ。
それは、違う。
モリは腰を落とし、手のひらを見せた。
戦う手じゃない。
捕まえる手でもない。
ただ、触れる前の手。
子狼は唸らない。
唸れない。
代わりに、目だけが動いた。
怯え。
それと、妙に冷えた警戒。
賢い。
……母親の目を、受け継いでいる。
モリは袋から、乾いた肉を一欠片だけ出した。
匂いを風下に落とす。
子狼は鼻を動かす。
食欲が勝つ前に、痛みが勝ったのか、体が小さく震えた。
モリは肉を置き、距離を一歩引いた。
急がない。
急ぐと、また森が壊れる。
落ち着け。
まず、傷。
モリは回復薬を少しだけ、地面に垂らした。
薬は匂いで分かる。
子狼は舌先で舐め、目を細めた。
体の震えが、ほんの少しだけ収まる。
それで十分だった。
抱えない。
ただ、立て直す。
「……動けるか」
独り言。
返事はない。
だが、子狼は自分で立った。
足が震えて、膝が折れそうになる。
それでも、立つ。
モリは息を吐いた。
“生きる方”を選んだ。
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拠点までの道は、いつもより静かだった。
静か、というより。
音が薄い。
森の奥から、空気が重く流れてくる。
嫌な感じ。
運営目線が、少しだけ首を出す。
「……深層、何か動きがあったか?」
仕様じゃない。
匂いだ。
森の“管理”が動いた時の、あの違和感。
モリは考えるのをやめた。
今は、目の前。
拠点に着く。
焚き火跡。
物置。
干し台。
全部が同じ場所にある。
同じ場所にあると、迷わない。
モリは子狼を、焚き火の熱が届かない位置に座らせた。
近づけすぎない。
距離は、守る。
水を置く。
肉をもう一欠片。
それだけ。
子狼は、食べる。
食べながら、ときどき外を見る。
逃げ道を確認している。
賢い。
そして――。
その賢さが、モリに“言葉”を運んだ。
視界の端に、小さなポップアップ。
『ショートクエスト:供養』
文字は短い。
場所。
深層。
目的。
母の倒れた場所で、黙祷。
報酬欄は、空白。
“懐き度が一定以上で発生”
そんな条件は、モリは知らない。
でも、出たなら。
やるか、やらないか。
モリは湯を沸かしながら、子狼を見た。
子狼は、こちらを見返さない。
見返さないのに、目は外さない。
“やれ”と言っている。
モリは頷いた。
「……分かった。順番通りにやる」
順番。
森は、順番で守れる。
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翌日。
森の入口は、まだ騒がしい。
“アドバイザー”の声が、木々の間でも聞こえる。
だが、子狼がいると、道が一本に見えた。
匂い。
足跡。
草の倒れ。
迷宮みたいに曲がった導線の中で、子狼は迷わない。
迷わないというより、迷いを許さない。
小さな体で、ぴたりと止まり、鼻先で示す。
「……案内じゃない。目印か」
モリは小さく笑いそうになって、やめた。
笑うと、緩む。
緩むと、死ぬ。
深層に入ると、空気がさらに冷える。
音がしない。
生き物の気配が薄い。
その代わり。
遠くで、何かが“狩りをしている”気配だけがする。
モリは余計なことを考えない。
供養。
目的は一つ。
母銀狼が倒れた場所は、土が黒く沈んでいた。
血の匂いは、まだ残っている。
モリは膝をつき、帽子のつばを押さえた。
黙祷。
言葉は要らない。
子狼が、隣で座る。
小さな体が、震えている。
モリは手を伸ばしそうになって、やめた。
距離は守る。
守ったまま、同じ方向を見る。
それだけでいい。
しばらくして、風が一度だけ抜けた。
森の匂いが、ほんの少し戻る。
クエスト完了。
表示は短い。
『供養:完了』
そして、もう一つ。
子狼の名前入力欄。
モリは迷わなかった。
「ユキ」
白い。
ただ、それだけ。
称える気はない。
縛る気もない。
生活の中で呼べる音。
それで十分だ。
『銀狼をテイムしました』
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拠点へ戻る道。
森の空気は、相変わらず怪しい。
直っていない。
深層の“何か”が、まだ走っている。
モリは一度、森の外へ出た。
迷宮の縁。
ここから先は、まだ生活じゃない。
焚き火。
湯。
干し台の魚。
戻れる場所に、戻る。
ユキは、モリの半歩後ろを歩いた。
指示は出していない。
ただ、同じ速度になる。
それが、少しだけ楽だった。
楽になりすぎない範囲で。
拠点に着く。
モリは物置の蓋を開け、干し台の魚を裏返した。
手順は、いつも通り。
ただ、足元に白が増えた。
ユキが、焚き火跡の外側に丸くなる。
火には近づかない。
でも、離れすぎもしない。
モリが湯を注ぐと、ユキの鼻が一度だけ動いた。
匂いを確認して、目を細める。
賢い。
モリは小さく息を吐き、干し肉の端を指で折った。
一欠片だけ。
地面に置く。
ユキはすぐには食べない。
一歩、近づく。
止まる。
モリを見る。
モリは見返さず、湯を飲んだ。
それで、いい。
ユキは音も立てずに肉を咥え、焚き火跡の影へ戻った。
噛む音が、短く続く。
モリは干し台の縄を締め直した。
終われば、終わる。
湯が喉を落ちていく。
森の音に、ひとつだけ、呼吸が混じった。
それだけで、今日は十分だった。




