海鳴りの贖罪
1887年、ナポリ。
海沿いの広場に、サーカスのテントが立っていた。「ヴィットーリオ一座」の旗が、潮風に揺れている。
日が傾き始めた頃、観客が集まり始めた。漁師、商人、子供たち。彼らが最も楽しみにしているのは、フィナーレの「奇跡の少年」だった。
マルコは、舞台裏で車椅子に座っていた。十四歳。痩せた体、青白い顔。そして、動かない両足。
「準備はいいか、坊主」
いかつい男——団長ヴィットーリオが、マルコの肩を叩いた。筋肉質の体、傷だらけの顔、鋭い目。元は港の荒くれ者だったと噂されている。
「はい」
マルコは頷いた。
「今夜も満員だ。しっかり演じろ」
ヴィットーリオは、マルコの足を見た。完璧に動かない足。三年間、毎日演じ続けてきた芸だ。
ショーが始まった。
空中ブランコ、火吹き芸、曲芸。そして、フィナーレ。
マルコが、舞台に押し出された。車椅子に乗ったまま、観客の前に現れる。
「皆様、この少年をご覧ください」
ヴィットーリオが、朗々と語る。
「生まれつき足が動かない。医者にも見放された。でも、神の奇跡が、この少年を救うのです」
観客が、息を呑んだ。
マルコは、車椅子から立ち上がろうとする。震える手で、車輪を掴む。何度も失敗する。そして——
立った。
よろよろと、一歩、また一歩。
観客が歓声を上げる。
「奇跡だ!」
「神のご加護だ!」
マルコは、舞台の端まで歩く。そして、再び倒れ込む。車椅子に戻る。
拍手喝采。
これが、マルコとヴィットーリオの商売だった。
足は、本当は動く。毎晩、テントの中で、マルコは普通に歩いている。でも、舞台では動かないふりをする。そして、「奇跡」を演じる。
観客は感動し、金を払う。それで、マルコは生きている。
孤児院から逃げ出した三年前、ヴィットーリオに拾われた。「お前の細い体と、演技力を使え」と言われた。それから、ずっと。
その夜、ショーが終わった後、一人の男が楽屋を訪ねてきた。
「素晴らしいショーでした」
男は医者だった。黒いスーツ、眼鏡、冷静な目。
「ただ、一つ気になることが」
医者は、マルコの足を見た。
「君の足の筋肉、萎縮していないね。本当に動かない足なら、筋肉は衰える。でも、君の足は健康そのものだ」
マルコの顔が青ざめた。
「それに、君の歩き方。本当に麻痺した足を動かす動きじゃない。演技だ」
ヴィットーリオが、医者を睨んだ。
「何を言っている。侮辱か」
「いいえ、事実です」
医者は、警察手帳を取り出した。
「私は医師であり、詐欺捜査の協力者でもある。君たちを、詐欺の容疑で——」
ヴィットーリオが、医者を突き飛ばした。
「マルコ、逃げろ!」
マルコは、車椅子を飛び出し、走った。本当の姿で。健康な足で。
テントの外へ。闇の中へ。
背後から、警笛が鳴り響いた。
マルコは、港沿いの路地を駆け抜けた。
足音が追ってくる。警官だ。
「待て!」
マルコは、必死に走った。でも、どこへ行けばいい?
そして、見えた。
丘の上の、古い教会。
サン・ジョヴァンニ教会。ナポリで最も古い教会の一つ。そして——聖域だ。
昔から言われている。教会の中に逃げ込めば、警察も手出しできない。神の領域だから。
マルコは、教会の門を押し開けた。
「待て、そこは——」
警官の声が、途切れた。
マルコは、教会の中に入った。
重い扉が、背後で閉まった。
中は、薄暗かった。蝋燭の光だけが、祭壇を照らしている。
「誰だ」
声がした。
祭壇の前に、老神父が立っていた。
「助けてください」
マルコは、膝をついた。
「警察に追われています。どうか、匿ってください」
神父は、マルコを見つめた。
「何をした?」
「詐欺です。でも、生きるためでした。孤児院を出て、他に道がなくて——」
マルコは、すべてを話した。
サーカスでの偽装。足が動くのに、動かないふりをしていたこと。観客を騙していたこと。
神父は、長い沈黙の後、言った。
「この教会は、聖域だ。警察も入れない。だが——」
神父は、マルコの足を見た。
「お前は、神を冒涜した。足が動かないという嘘で、人々の同情を買い、奇跡を装った。それは、神の奇跡を穢す行為だ」
マルコは、震えた。
「でも、匿ってくれますか?」
「ああ。だが、代償がある」
神父は、マルコを地下室に案内した。
そこには、古い寝台と、水差しだけがあった。
「ここで暮らせ。食事は与える。でも、外には出られない」
「どれくらい?」
「警察が諦めるまで。一ヶ月か、半年か」
マルコは頷いた。
それから、毎日が始まった。
朝は祈り。昼は掃除。夜は聖書の朗読。
神父は、厳しかった。
「お前は、足が動くことに感謝しなかった。だから、罰を受ける」
ある日、神父はマルコに言った。
「明日から、お前は本当の贖罪を始める」
翌朝、マルコは地下室から出された。
そして、教会の裏庭に連れて行かれた。
そこには、大きな荷車があった。トラックのような、重い荷車。石材を運ぶための車だ。
「この荷車を、港まで運べ」
「一人で?」
「ああ。お前の足で」
マルコは、荷車を引いた。
重かった。あまりにも重かった。
教会から港までは、三キロメートル。石畳の坂道を、荷車を引いて降りる。
一歩、また一歩。
足が悲鳴を上げた。
膝が笑い、太腿が痙攣した。
でも、止まれなかった。
港に着いた時、マルコは倒れた。
そして、立ち上がれなかった。
足が、動かなかった。
「何が……」
神父が、冷たく言った。
「お前が演じていた姿が、現実になっただけだ」
医者が呼ばれた。同じ医者だった。マルコを見破った、あの医者。
「過度の負荷による筋断裂です。しばらくは歩けません。最悪、永久に——」
マルコは、絶望した。
自分が演じていた「足が動かない少年」に、本当になってしまった。
これが、代償だった。
神を冒涜した代償。嘘をついた代償。
三ヶ月が過ぎた。
マルコは、車椅子に乗っていた。今度は、演技ではなく。
足は、少しずつ回復していたが、まだ歩けなかった。
神父が、マルコの部屋を訪れた。
「お前の本当の名前は何だ」
「マルコです」
「それは、お前がサーカスで使っていた名前だ。本名を聞いている」
マルコは、躊躇した。
本名。それは、孤児院でつけられた名前。誰にも教えたことのない名前。
「……ジュゼッペです。ジュゼッペ・ロッシ」
「ジュゼッペ」
神父は、その名前を反芻した。
「いい名前だ。なぜ、隠していた?」
「孤児院の名前だから。捨てられた子供の名前だから」
「違う」
神父は、マルコ——いや、ジュゼッペの目を見た。
「お前が捨てたんだ。自分の過去を。自分の名前を。そして、偽りの名前で生きてきた」
ジュゼッペは、何も言えなかった。
「名前には、力がある」
神父は、古い聖書を開いた。
「神は、アダムに名前をつけた。名前は、存在の証だ。お前が自分の名前を捨てた時、お前は自分自身を捨てたんだ」
神父は、一枚の紙を差し出した。
「これに、お前の本名を書け。そして、誓え。もう二度と、偽りの名で生きないと」
ジュゼッペは、震える手で、紙にペンを走らせた。
『ジュゼッペ・ロッシ』
そして、署名の下に、神父が文章を書き加えた。
『私は、神の前で誓います。自分の名前を偽らず、真実の人生を生きることを』
「これは、契約だ」
神父は、紙を祭壇の前に置いた。
「お前と神との。そして、お前と自分自身との」
ジュゼッペは、その紙を見つめた。
自分の本当の名前。
それが、今、神の前に置かれている。
もう、逃げられない。
半年が過ぎた。
ジュゼッペの足は、少しずつ回復していた。杖をつけば、歩けるようになった。
ある日、教会の鐘が激しく鳴り響いた。
「火事だ!」
誰かが叫んだ。
ジュゼッペは、窓から外を見た。
港の方角が、赤く染まっていた。
そして、その場所は——
サーカスのテントだった。
ジュゼッペは、杖をつきながら、外へ出た。
「どこへ行く!」
神父が止めたが、ジュゼッペは振り払った。
港へ向かって、走った。杖をつきながら、不自由な足を引きずりながら。
テントは、炎に包まれていた。
観客たちが逃げ惑っている。
そして、テントの中から、子供の泣き声が聞こえた。
「誰か、助けて!」
ジュゼッペは、迷わずテントの中へ入った。
煙が充満していた。視界がほとんどない。
でも、泣き声を頼りに進んだ。
舞台裏に、小さな女の子が取り残されていた。五歳くらいか。
「大丈夫だ、怖くない」
ジュゼッペは、女の子を抱き上げた。
そして、出口へ向かった。
でも、足が動かない。
痛みが走る。まだ完全には治っていない足が、重みに耐えきれない。
「くそ……」
ジュゼッペは、膝をついた。
その時、誰かがジュゼッペの腕を掴んだ。
ヴィットーリオだった。
「坊主……お前……」
「団長、この子を!」
ヴィットーリオは、女の子を受け取った。
「お前は?」
「いいから、早く!」
ヴィットーリオは、女の子を抱えて走った。
ジュゼッペは、立ち上がろうとした。
でも、足が動かなかった。
煙が、肺に入ってくる。
意識が遠のく。
ああ、ここで終わるのか。
でも——後悔はない。
少なくとも、最後は嘘じゃなかった。
本当の自分で、誰かを救った。
その時、また誰かが入ってきた。
神父だった。
「ジュゼッペ!」
神父は、ジュゼッペを引きずり、外へ運んだ。
外に出た瞬間、テントが崩壊した。
ジュゼッペは、地面に倒れ込んだ。
そして、意識を失った。
ジュゼッペが目を覚ました時、教会のベッドにいた。
神父が、そばに座っていた。
「目が覚めたか」
「あの子は?」
「無事だ。お前が救った」
ジュゼッペは、ほっとした。
「お前の足は……」
神父は、悲しそうに言った。
「もう、歩けない。医者は、そう言った」
ジュゼッペは、自分の足を見た。
動かなかった。
今度こそ、本当に。
でも、不思議と悲しくなかった。
「いいんです」
ジュゼッペは、微笑んだ。
「これが、僕の足です。偽りじゃない、本当の」
神父は、ジュゼッペの手を握った。
「お前は、変わった」
それから、ジュゼッペは教会で暮らすようになった。
車椅子に乗りながら、孤児たちに読み書きを教えた。
かつての自分と同じような、行き場のない子供たちに。
ある日、一人の少年が言った。
「先生、足が動かなくて、悲しくないんですか?」
ジュゼッペは、窓の外を見た。
海が見える。波が、きらきらと輝いている。
「悲しくないよ。これが、僕だから」
そして、続けた。
「昔、僕は足が動くのに、動かないふりをしてた。今は、本当に動かない。でも、今の方が、ずっと自由なんだ」
少年は、不思議そうな顔をした。
「なんで?」
「嘘をつかなくていいから」
ジュゼッペは、少年の頭を撫でた。
「本当の自分でいられるって、こんなに楽なんだって、初めて知ったんだよ」
海鳴りが、教会まで届いていた。
波の音。風の音。
かつて、サーカスのテントで聞いた歓声は、もうない。
でも、今、ジュゼッペの周りには、子供たちの笑い声がある。
それが、彼の新しい人生だった。
犠牲によって得た、真実の人生。
ジュゼッペ・ロッシとして生きる、唯一無二の人生。




