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海鳴りの贖罪

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/15

1887年、ナポリ。


海沿いの広場に、サーカスのテントが立っていた。「ヴィットーリオ一座」の旗が、潮風に揺れている。


日が傾き始めた頃、観客が集まり始めた。漁師、商人、子供たち。彼らが最も楽しみにしているのは、フィナーレの「奇跡の少年」だった。


マルコは、舞台裏で車椅子に座っていた。十四歳。痩せた体、青白い顔。そして、動かない両足。


「準備はいいか、坊主」


いかつい男——団長ヴィットーリオが、マルコの肩を叩いた。筋肉質の体、傷だらけの顔、鋭い目。元は港の荒くれ者だったと噂されている。


「はい」


マルコは頷いた。


「今夜も満員だ。しっかり演じろ」


ヴィットーリオは、マルコの足を見た。完璧に動かない足。三年間、毎日演じ続けてきた芸だ。


ショーが始まった。


空中ブランコ、火吹き芸、曲芸。そして、フィナーレ。


マルコが、舞台に押し出された。車椅子に乗ったまま、観客の前に現れる。


「皆様、この少年をご覧ください」


ヴィットーリオが、朗々と語る。


「生まれつき足が動かない。医者にも見放された。でも、神の奇跡が、この少年を救うのです」


観客が、息を呑んだ。


マルコは、車椅子から立ち上がろうとする。震える手で、車輪を掴む。何度も失敗する。そして——


立った。


よろよろと、一歩、また一歩。


観客が歓声を上げる。


「奇跡だ!」


「神のご加護だ!」


マルコは、舞台の端まで歩く。そして、再び倒れ込む。車椅子に戻る。


拍手喝采。


これが、マルコとヴィットーリオの商売だった。


足は、本当は動く。毎晩、テントの中で、マルコは普通に歩いている。でも、舞台では動かないふりをする。そして、「奇跡」を演じる。


観客は感動し、金を払う。それで、マルコは生きている。


孤児院から逃げ出した三年前、ヴィットーリオに拾われた。「お前の細い体と、演技力を使え」と言われた。それから、ずっと。


その夜、ショーが終わった後、一人の男が楽屋を訪ねてきた。


「素晴らしいショーでした」


男は医者だった。黒いスーツ、眼鏡、冷静な目。


「ただ、一つ気になることが」


医者は、マルコの足を見た。


「君の足の筋肉、萎縮していないね。本当に動かない足なら、筋肉は衰える。でも、君の足は健康そのものだ」


マルコの顔が青ざめた。


「それに、君の歩き方。本当に麻痺した足を動かす動きじゃない。演技だ」


ヴィットーリオが、医者を睨んだ。


「何を言っている。侮辱か」


「いいえ、事実です」


医者は、警察手帳を取り出した。


「私は医師であり、詐欺捜査の協力者でもある。君たちを、詐欺の容疑で——」


ヴィットーリオが、医者を突き飛ばした。


「マルコ、逃げろ!」


マルコは、車椅子を飛び出し、走った。本当の姿で。健康な足で。


テントの外へ。闇の中へ。


背後から、警笛が鳴り響いた。


マルコは、港沿いの路地を駆け抜けた。


足音が追ってくる。警官だ。


「待て!」


マルコは、必死に走った。でも、どこへ行けばいい?


そして、見えた。


丘の上の、古い教会。


サン・ジョヴァンニ教会。ナポリで最も古い教会の一つ。そして——聖域だ。


昔から言われている。教会の中に逃げ込めば、警察も手出しできない。神の領域だから。


マルコは、教会の門を押し開けた。


「待て、そこは——」


警官の声が、途切れた。


マルコは、教会の中に入った。


重い扉が、背後で閉まった。


中は、薄暗かった。蝋燭の光だけが、祭壇を照らしている。


「誰だ」


声がした。


祭壇の前に、老神父が立っていた。


「助けてください」


マルコは、膝をついた。


「警察に追われています。どうか、匿ってください」


神父は、マルコを見つめた。


「何をした?」


「詐欺です。でも、生きるためでした。孤児院を出て、他に道がなくて——」


マルコは、すべてを話した。


サーカスでの偽装。足が動くのに、動かないふりをしていたこと。観客を騙していたこと。


神父は、長い沈黙の後、言った。


「この教会は、聖域だ。警察も入れない。だが——」


神父は、マルコの足を見た。


「お前は、神を冒涜した。足が動かないという嘘で、人々の同情を買い、奇跡を装った。それは、神の奇跡を穢す行為だ」


マルコは、震えた。


「でも、匿ってくれますか?」


「ああ。だが、代償がある」


神父は、マルコを地下室に案内した。


そこには、古い寝台と、水差しだけがあった。


「ここで暮らせ。食事は与える。でも、外には出られない」


「どれくらい?」


「警察が諦めるまで。一ヶ月か、半年か」


マルコは頷いた。


それから、毎日が始まった。


朝は祈り。昼は掃除。夜は聖書の朗読。


神父は、厳しかった。


「お前は、足が動くことに感謝しなかった。だから、罰を受ける」


ある日、神父はマルコに言った。


「明日から、お前は本当の贖罪を始める」


翌朝、マルコは地下室から出された。


そして、教会の裏庭に連れて行かれた。


そこには、大きな荷車があった。トラックのような、重い荷車。石材を運ぶための車だ。


「この荷車を、港まで運べ」


「一人で?」


「ああ。お前の足で」


マルコは、荷車を引いた。


重かった。あまりにも重かった。


教会から港までは、三キロメートル。石畳の坂道を、荷車を引いて降りる。


一歩、また一歩。


足が悲鳴を上げた。


膝が笑い、太腿が痙攣した。


でも、止まれなかった。


港に着いた時、マルコは倒れた。


そして、立ち上がれなかった。


足が、動かなかった。


「何が……」


神父が、冷たく言った。


「お前が演じていた姿が、現実になっただけだ」


医者が呼ばれた。同じ医者だった。マルコを見破った、あの医者。


「過度の負荷による筋断裂です。しばらくは歩けません。最悪、永久に——」


マルコは、絶望した。


自分が演じていた「足が動かない少年」に、本当になってしまった。


これが、代償だった。


神を冒涜した代償。嘘をついた代償。


三ヶ月が過ぎた。


マルコは、車椅子に乗っていた。今度は、演技ではなく。


足は、少しずつ回復していたが、まだ歩けなかった。


神父が、マルコの部屋を訪れた。


「お前の本当の名前は何だ」


「マルコです」


「それは、お前がサーカスで使っていた名前だ。本名を聞いている」


マルコは、躊躇した。


本名。それは、孤児院でつけられた名前。誰にも教えたことのない名前。


「……ジュゼッペです。ジュゼッペ・ロッシ」


「ジュゼッペ」


神父は、その名前を反芻した。


「いい名前だ。なぜ、隠していた?」


「孤児院の名前だから。捨てられた子供の名前だから」


「違う」


神父は、マルコ——いや、ジュゼッペの目を見た。


「お前が捨てたんだ。自分の過去を。自分の名前を。そして、偽りの名前で生きてきた」


ジュゼッペは、何も言えなかった。


「名前には、力がある」


神父は、古い聖書を開いた。


「神は、アダムに名前をつけた。名前は、存在の証だ。お前が自分の名前を捨てた時、お前は自分自身を捨てたんだ」


神父は、一枚の紙を差し出した。


「これに、お前の本名を書け。そして、誓え。もう二度と、偽りの名で生きないと」


ジュゼッペは、震える手で、紙にペンを走らせた。


『ジュゼッペ・ロッシ』


そして、署名の下に、神父が文章を書き加えた。


『私は、神の前で誓います。自分の名前を偽らず、真実の人生を生きることを』


「これは、契約だ」


神父は、紙を祭壇の前に置いた。


「お前と神との。そして、お前と自分自身との」


ジュゼッペは、その紙を見つめた。


自分の本当の名前。


それが、今、神の前に置かれている。


もう、逃げられない。


半年が過ぎた。


ジュゼッペの足は、少しずつ回復していた。杖をつけば、歩けるようになった。


ある日、教会の鐘が激しく鳴り響いた。


「火事だ!」


誰かが叫んだ。


ジュゼッペは、窓から外を見た。


港の方角が、赤く染まっていた。


そして、その場所は——


サーカスのテントだった。


ジュゼッペは、杖をつきながら、外へ出た。


「どこへ行く!」


神父が止めたが、ジュゼッペは振り払った。


港へ向かって、走った。杖をつきながら、不自由な足を引きずりながら。


テントは、炎に包まれていた。


観客たちが逃げ惑っている。


そして、テントの中から、子供の泣き声が聞こえた。


「誰か、助けて!」


ジュゼッペは、迷わずテントの中へ入った。


煙が充満していた。視界がほとんどない。


でも、泣き声を頼りに進んだ。


舞台裏に、小さな女の子が取り残されていた。五歳くらいか。


「大丈夫だ、怖くない」


ジュゼッペは、女の子を抱き上げた。


そして、出口へ向かった。


でも、足が動かない。


痛みが走る。まだ完全には治っていない足が、重みに耐えきれない。


「くそ……」


ジュゼッペは、膝をついた。


その時、誰かがジュゼッペの腕を掴んだ。


ヴィットーリオだった。


「坊主……お前……」


「団長、この子を!」


ヴィットーリオは、女の子を受け取った。


「お前は?」


「いいから、早く!」


ヴィットーリオは、女の子を抱えて走った。


ジュゼッペは、立ち上がろうとした。


でも、足が動かなかった。


煙が、肺に入ってくる。


意識が遠のく。


ああ、ここで終わるのか。


でも——後悔はない。


少なくとも、最後は嘘じゃなかった。


本当の自分で、誰かを救った。


その時、また誰かが入ってきた。


神父だった。


「ジュゼッペ!」


神父は、ジュゼッペを引きずり、外へ運んだ。


外に出た瞬間、テントが崩壊した。


ジュゼッペは、地面に倒れ込んだ。


そして、意識を失った。


ジュゼッペが目を覚ました時、教会のベッドにいた。


神父が、そばに座っていた。


「目が覚めたか」


「あの子は?」


「無事だ。お前が救った」


ジュゼッペは、ほっとした。


「お前の足は……」


神父は、悲しそうに言った。


「もう、歩けない。医者は、そう言った」


ジュゼッペは、自分の足を見た。


動かなかった。


今度こそ、本当に。


でも、不思議と悲しくなかった。


「いいんです」


ジュゼッペは、微笑んだ。


「これが、僕の足です。偽りじゃない、本当の」


神父は、ジュゼッペの手を握った。


「お前は、変わった」


それから、ジュゼッペは教会で暮らすようになった。


車椅子に乗りながら、孤児たちに読み書きを教えた。


かつての自分と同じような、行き場のない子供たちに。


ある日、一人の少年が言った。


「先生、足が動かなくて、悲しくないんですか?」


ジュゼッペは、窓の外を見た。


海が見える。波が、きらきらと輝いている。


「悲しくないよ。これが、僕だから」


そして、続けた。


「昔、僕は足が動くのに、動かないふりをしてた。今は、本当に動かない。でも、今の方が、ずっと自由なんだ」


少年は、不思議そうな顔をした。


「なんで?」


「嘘をつかなくていいから」


ジュゼッペは、少年の頭を撫でた。


「本当の自分でいられるって、こんなに楽なんだって、初めて知ったんだよ」


海鳴りが、教会まで届いていた。


波の音。風の音。


かつて、サーカスのテントで聞いた歓声は、もうない。


でも、今、ジュゼッペの周りには、子供たちの笑い声がある。


それが、彼の新しい人生だった。


犠牲によって得た、真実の人生。


ジュゼッペ・ロッシとして生きる、唯一無二の人生。


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