「私のウィンドブレーカー」
木漏れ日がちらちら舞う埃を光の粒子にし、付近を一気に美しくする。鉄の匂いもなく、鼠の這う気配もない。至って健全で文明的で、可愛らしい小物も散見される。監禁部屋なんて仰々しい名もついていないその部屋は、城館の2階に位置していた。
───監禁部屋でパニエが殴れている間に妹の方はというと、日光を浴びながら沈黙に浸っていた。数分は言葉を発さないまま、徒に時を過ごすパシュエ。他と違って、彼女には莫大な時間が残っている。無為な時間を消費することも彼女には許されているのだ。
しかし、目前のメイドは違う。
“やっぱり、パシュエ様が選ばれたのですね“
言葉に浮かんでいたのは確信だった。
主の帰りを待つ犬みたいに従順に座ったまま顔を緩慢な動きで振り、花瓶からパシュエへ視線を移すモルフォ。彼女は顎を僅かに引き、静かに答えを待っていた。
───はやく、何か言わないと。
パシュエは唾を飲み、なんとか言葉を搾り出した。
「選ばれたって」
なんでモルフォがそのことを。
言葉尻に乾いた笑いが引っ付く。
猛烈に動いた脳が様々な可能性を提示するが、どれも的を得ない。唯一近しいと思われる理由は、今朝の会話を“偶然聞いてしまった“線。
しかしそうなると“やっぱり“という言葉遣いはおかしい。それに人払いは確実にしていたし、モルフォは言いつけを破って盗み聞きするような人じゃない。
どうやって知ったの?
体の熱が引き、パシュエは青ざめた。
どんな経緯でそれを知ったとしても大問題だ。いや、最後だからいい、のかな。ううん、そういう話じゃない。なら、何故こんなに焦ってる?
そこで、パシュエは気が付いた。
───モルフォに、私が選ばれたと知られたのが怖い。
期待されるのが怖い。失望されるのが怖い。
こんな私が救世主なんて似合わないと蔑まれるのが怖い。モルフォはそんなこと言う人じゃないけど、それでも。───パシュエは掌に爪を立てながら、モルフォに向き合って続けた。
「選ばれたって、私が?どうしてそう思うの?」
知らず知らずのうちに震えていた左足を抑えて、つっかえながらも言い切ったパシュエ。モルフォはそれに首を傾げ、不可解な顔をした。
「パシュエ様が選ばれたのではなく、パシュエ様が選んだ・・・のですよね?」
「───えっ。」
彼女が言ったのは、意思についてだった。
意思。つまり、私が自ら望んで救世主になったみたいに聞こえる。その意思には多大なる責任が伴い、自らそれを望むということは、“他を出し抜き”“自分だけ生き抜きたい”と高慢にも考えていると同義。
私が、なりたくもない救世主に、自分の意思で、なったと。
彼女の言葉に抱いたのは、動揺ではなく、少しの怒りだった。モルフォの目には自分がそう映っていたのだとショックを受けたのも大きい。それはモルフォに失望されることよりもずっと胸を抉られる言葉だった。指先から足先までが温度をなくして冷えていく。
主人の心中をぐちゃぐちゃにかき回しておきながら、モルフォの鉄の仮面は均衡を保ったままだった。
顔を顰めたパシュエの模倣をするように眉を上げてはいるが、受け取れる感情に差は見えない。
「そう驚くことでもないでしょう、見ればわかりますから。」
言葉の通り一滴も驚愕を表情に入れず、モルフォは淡々と
「先刻も言いましたが、モルフォは貴方のことをちゃんと見ていますから。」
どこか自信を持って言い遂げ、胸に拳をつけた。
(みているって・・・)
パシュエは唖然と彼女を見つめた。
見ているからって救世主云々を悟るには至れないだろうし、先程からどこか会話が噛み合っていない気がする。
モルフォのどこか片手間程度の話し方は、世界規模の秘密を語るには浮ついた雰囲気だ。パシュエの緊迫した雰囲気とはどうも合わない。話の擦り合わせをしようと、パシュエは口を開く。
「あのね、モルフォ」
呼びかけてみた───瞬間、パシュエの眼球を鋭い痛みが走る。ピリ、と一瞬熱くなってから、眼球全体に広がるような痛み。
「うぁ」と声を漏らし脊髄反射で目を瞑ったパシュエに、モルフォが今日一番大きな声をあげて駆け寄った。
痛みをもたらしたのは激しい風だった。開いた窓から、遮蔽物の抵抗を受けない風が容赦なく入り込んでいる。
しかしそれはそよ風なんて生ぬるい優しいものではなく、旋風を巻き起こす強風で。砂だかの小さな凶器が目に入り込み、窓にかかったカーテンを吹き飛ばす勢いのもの。
部屋中の小物が次々とドミノ形式で倒れていき、窓辺に置かれた花瓶なんかは真っ先に床に落ちて破片になった。モルフォは右手を翳しパシュエの前に立ち塞がるが、女性の体では全てを塞ぎきれず。モルフォのメイド服の、長いスカートが、今にもちぎれそうなくらい靡き出した。
「───すごい風。パシュエ様はお軽いですから、吹き飛んでしまいますよ。どうぞモルフォの後ろに。」
「そっ、そこまで軽くはないけど・・・!」
天変地異並の暴風に息を入れる暇もなく、モルフォとパシュエの声は大きさを増した。互いにとても近いのに、声を張らないと届かない程度には風がうるさい。ついに風は冷気を帯び始め、雨粒がそれに乗って弾丸みたいな速度で飛んでくる。見れば、雲ひとつない晴天が何処へやら、窓の外は雷の光る雨天だった。
空は黒に沈み、朝日を覆い隠す。雨と雷と風と、なんだかもう只事じゃない。
(一体、これは・・・)
瞬間的な轟音が低く鳴り、パシュエは自身の腹に手をそえる。
「モルフォっ、あの、窓を閉められる?!」
絶え間なく入り込んでくる風に耐えきれず叫ぶが、モルフォはパシュエの全身をひしと抱きしめて首を振った。
「やだ、無理です・・・パシュエ様を離したら、風に攫われてしまう。貴方がどこかに行ってしまう。」
モルフォの声は弱々しく、切実なものだった。パシュエを抱く腕がさらに力を増す。
暴風といえどたかだか風なのだから、吹き飛んだりしないのに。モルフォのやけに必死な様相を前に、そうは言えないパシュエだった。
「・・・」
抱擁されながら、パシュエは目を瞑って風を耐え忍ぶ。モルフォの腕を握り返して張って、それでも風に煽られながら。ひっきりなしに続く風の悲鳴を流し聞きして───
「───ちょっと待って。モルフォ、魔法使えるよね。手を離さなくてもどうにかなるんじゃないの?」
「えっ。」
何故気が付かなかったのか自分でも疑問なのだけれど、モルフォは魔法が使える。魔法とは、なんだか色々便利なもので───私には使えないので詳しくは語れないけれど、使えば窓を閉めるのだって簡単なはず。例え風の抵抗を受けていても、である。
パシュエは真っ当な指摘のあと、上から覗き込んでいるモルフォの顔を見た。首が痛くなるほど上を向くその姿勢は、奇しくも自身の姉がポルカを見た姿勢に似ていた。最も、この時間は丁度ポルカが監禁部屋を出たタイミングと重なる。
(あ、お姉様は今何してるかな。)
余分な思考が挟まり、それを追い出そうとパシュエは瞬きをした。
彼女のネーブルオレンジとリスボンの混じった瞳に黒い瞳をかち合わせながら、モルフォはハッと目を瞠る。
「そうでしたね。パシュエ様、天才です。」
「───モルフォが今アホになっちゃっただけ。」
抜けたことを言うモルフォを白い目で見ると、彼女は首を傾げてはにかんだ。どうやら本当に頭から抜けていたらしい。
───魔法がそう万能ではないといえ、日常に組み込まれたその操作を忘れるなんて。どれほど慌てふためいていたのだろう。モルフォは主人が危機に扮した時、必要以上に慌てる節がある。
「私を守るなんて、しなくていいのに。」
彼女の態度にいじけて、そして自分が惨めになって、パシュエは魔法を放つ彼女の姿を見ていられなかった。
モルフォは私と違って魔法が使える。体術も長けているし、どうして私の側近なんてしているのか不思議なくらい優秀で。
(私にも何か抜きん出たものさえあれば、モルフォの主人を堂々と名乗れたのかも。)
突き放した言葉は物音に攫われてモルフォの耳に届くことは叶わなかったけれど、魔法を使うモルフォの姿に、自尊心を失ったのは確かだった。
ぱたぱたと風にふかれる彼女の背は、守護者として頼もしくも、しかし最高に憎たらしくもあって、パシュエは今日何度目かも分からない自己嫌悪に陥るのだった。




