「パン・ケーキ・蝶」
───パシュエは、胸を張れる何かをあまり持たない。しかしながら、自らの容姿には一定の自信があった。家族に髪をすかれながら丁重に整えられてきたこの姿は、パシュエを形成する上で一番大きな要素である。
事実彼女は、客観的に見てとても可愛かった。
「パシュエ様、できましたよ。」
「えっ、ああ、うん。ありがとう・・・」
そのベージュ色の髪は肌に吸い付き、バーミリオンと髪色の混じったタレ目は蕩けていて愛らしい。
更におめかしした姿は、彼女の愛嬌に磨きをかけている。前下がりボブの髪に、左耳より少し高い位置で結ばれた縦ロールがひっついている。これは天然のものではなく、数分かけて丁重に作られた縦ロールである。
彼女はその赤子のように滑らかなほっぺに指を沈め、
「ねえ、モルフォ。その───お姉様は、どうなったか知っている?」
一度発言を躊躇ってから、“モルフォ“と、背後の話し相手を呼ぶパシュエ。
目の前にある鏡台越しに目線を向けると、話し相手はそこにいた。
話し相手、もといモルフォは、パシュエの髪に通していた櫛を置き目を伏せる。
「パニエ様は奥のお部屋に。鍵はかかっていますが・・・開けますか?」
「開ける?モルフォ、鍵を持ってるの?」
「いえ、鍵はありませんが・・・あの程度の錠なら・・・」
モルフォは言いながら前髪についた銀のピンを手にとり、ピンと指で弾き回転させた。
許可を求めるように首を傾げられ、パシュエは頷くとも頷けず眉を顰める。
「曲がりなりにもメイドなんだから、そんなことしちゃダメだよ。もし怒られても責任取れないからね。」
モルフォ。パシュエの付き人メイドである。
メドュース家の使用人はかなりの数に登り、彼女は内一人。とはいえ、メドュースの予知能力は血統者以外への他言を許されない。
未来の改竄を限りなく少なくするための処置であり、そのルールは絶対のもの。
故意に破れば───“契約“に基づき、死に至る。
だから使用人には“予知夢“の秘密を共有していないし、できないのだ。最も、パシュエは予知夢を見ないので、守り抜く秘密というのもそう持たない。
使用人の中にはメドュース家の者が抱えているものに薄らながら勘づいている者も散見されるが、無論直接聞き出してきたりはしない。
今日は殊更メドュース家全体が異常な空気感に包まれているから、使用人たちの気も張り詰めている感じがする。
こうして自室に戻ってくるまでに数人の使用人とすれ違ったのだが、こちらの空気感に引っ張られたのか落ち着きがなかったような。
「そうですか・・・ご入用の際は、遠慮せずお申し付けくださいね。」
「・・・うん。必要になったら、ね。」
モルフォは、ある意味完璧なメイドといえる。時折職務怠慢が目立つが、命じたことは必ず遂行する。
パニエは笑みを常に携えていたが、モルフォは無表情を常に携えている。動じず、高貴で、完成された立ち振る舞い。
パシュエに数年も仕えてきた彼女のことだから、落ち着きのないパシュエには気付いている上、ただならぬ事情を抱えているのも理解しているだろう。それでも無言を貫くのは、踏み込まれたくない事情ということすら察しているから。パシュエはそう踏んでいた。
モルフォは主人からの停止を聞き、前髪を掬いピンをつけた。日を反射し閃いた銀に、パシュエの表情がいたく強張る。
───お姉様、なんで私にナイフを。
「パシュエ様?」
その追憶を妨げたのは、顔を覗き込んだ黒曜石だった。
モルフォの真っ黒な双眸は慄然とした強さを称えながら、パシュエの目をまっすぐに見つめる。
黒いふわっとボリューミーな長髪に、黒い目。両耳に下がった手のひらサイズに大きい銀のピアスは、姿を写し出す丸鏡がつくほどに嵩が張った代物だ。
背も、成人したばかりなのに並の成人男性を凌ぐ高さである。
彼女はメイドでありながら、どこか武人のようで、銀の食器のような気高さを兼ねていると常々思わされる。
パシュエとモルフォが同じ服を着て横に並んだとすれば、満場一致でモルフォが令嬢だというはずだ。容姿云々ではなく、背負っている貫禄が違う。
パシュエは自分と鏡越しに顔を合わせた。困り眉に、生まれつき目尻の下がった瞳。色素の抜けた睫毛。
腕は細やかだし、闘気を感じない平和ボケした顔。背の丈だってモルフォに劣る。こんなに頼りのない人間に、務まるのだろうか。
(いや、選ばれてしまったからにはしょうがない。それに、神託が私を選んでくれたのには何か“理由“があるはず・・・。)
そうでなければ、私なんか神託のお眼鏡にかなうわけないんだから。
パシュエは一通りの思案を挟むと、モルフォに向き合った。
「なあに、モルフォ。鍵は開けないからね。」
「いえ、そうではなく・・・今日の会合は随分と長かったので。」
会合。彼女ら使用人はその内容を知らないのだろうが、先程行った儀式のことだ。
救世主、神託、姉妹喧嘩のような何か。修羅場と化していた食堂を思い起こし、パシュエは覚えず眉根に皺を寄せる。
いつもならば、今日の予知夢を事細かに父が本に(勿論神託にではない、ただの上製本にである)記述し、時計回りに回していく。そして全員が目を通すと、本日の危機へどう対処すべきかが議論される。パシュエの場合、ここでようやく夢の内容を知る。
そして総括された事項を皆で確認し、決議の後にようやく使用人の食堂への立ち入りが許可される。
これが会合。今日は特別な日、いや、特別という単語では力及ばないほどに特別な日だったので、一連の流れとは異なる。
今日はパニエがポルカによって部屋に連行されたあと、すぐに解散する運びとなった。会合の後は朝食と相場が決まっているのだが、今日は喉を通らないと父は判断したのだろう。全くもってその通りである。各自部屋に帰って行ったのだろうが、解散の合図で脱兎の如く逃げてきたパシュエには、詳しいことはわからない。
「お疲れでしょう。少し休んでは?」
───うん、疲れた。
口をついて出そうだった言葉をすんでで飲み込む。
そうだった。救世主は、疲れたなんて言わない。
「ううん。平気。」
「・・・そう、ですか。」
「うん。」
「・・・・・・ドミノに興じるのは如何でしょう。」
「しないよ。」
救世主は、ドミノに興じない。
パシュエは意見を一蹴するが、モルフォは滅入った主人の気分をどうにか上げたいらしい。アーモンド型の目をアンニュイに左右し、彼女は熟慮する。
その献身的な姿には温かいものを覚えるが、残念、救世主は膝枕なんてされない。椅子に座って膝をぽんと叩かれても、駆け寄ったりはしない。
モルフォはうんうんと考え込み、たまに窓脇の花瓶に目をやって、末に手を叩いた。
「では、パンケーキでもお作りしましょうか。」
「ぱ、パンケーキ?」
若干上擦った声の出たパシュエに、モルフォは「ええ」と頷く。
───無論、救世主はパンケーキを食べない。甘くてふわふわで、蜂蜜のたっぷり垂れた悪魔の食べ物。
手を出そうものなら、官能的な恍惚から戻ることができなくなる、あれ。あんなもの食べたら、救世主という厳格なイメージが音を立てて瓦解する。
そう難色を示したものの、本当は喉から手が出るほど欲しかった。朝食を抜いたパシュエの胃は、キュウと萎縮し音を立てている。
本当は、すごく食べたい。でも。
救世主はパンケーキなんて食べない。しかし腹が減っては戦はできぬともいったもの。矛盾を天秤にかけ悩み抜かれた末、傾いたのは
「ぱんけーき食べたい。」
「───ええ、かしこまりました。モルフォ、必ずやパシュエ様のお腹を満足させます。」
パシュエの願いで途端に顔を晴らしたモルフォは、両手を合わせ首を傾げる。
彼女の黒髪が肌に落ちたと思えば、次の瞬間には扉へ走り出していた。
一挙手一投足が速い。さすがモルフォ。ぼんやりとその背中を見つめながら、人生何度目かも知れない礼賛を彼女に送ったパシュエ。
栄養補給は大切だと、はるか昔にお姉様も言っていた。爆弾みたいに糖分のあるパンケーキは栄養補給にピッタリだろう。
何とか行いを正当化し、彼女は嘆息する。モルフォの手前、大袈裟な態度は出せなかったが、こうして一人になると───
「はあ。他の皆は・・・どうしてるのかな。」
魔王再臨の時間は23時59分。シンデレラだって裸足で逃げ出す真夜中。夜更かしのないパシュエは今まで体験したことのない、夜の時間。
そして、父が命じた集合の時間はその一時間前、22時59分。日が登って数時間の今、持て余した時間をどう使っているのだろうか。
考えつつ、窓によって両手で開く。よく目を凝らせば、庭に二つの人影が見えた。
二番目の兄と三番目の兄だ。表情までは見えないが、何やらただならぬ気配を纏わせながら話をしている。
彼らは会合の時に声を発することはなかったのだが、今は何を話しているのだろうか。身振りや手振りから読み取れることはあまりに少なく、パシュエはそれ以上の追求を断念した。しかしただならぬ気配って、当たり前だ。あと数十時間で死ぬことを予見されているのだから。
今になって思えば、こうして各々の時間を与えたのは、父なりの配慮かもしれない。最期の時間を有意義に使えと。
(どうして私にだけ、まだ時間があるんだろう。)
望むなら、彼らに時間を分けたい。いやもっと、分けるなんてものじゃなくて、時間全てを渡したい。
彼らならきっと、もっと時間を有意義に使う。多分パンケーキは食べないで、ステーキを食べる。
私には不要なものなのだ。もしできるのなら、全部を渡すのに。
救世の義務ですら、渡すのに。
(・・・無責任な考え。)
目に入るほど長い睫毛を落とし、彼女は黙祷を捧げた。
誰にって、これから失われる全ての命にである。
§
「パシュエ様。モルフォが、愛情を詰め込んだパンケーキを持って参りましたよ。」
「ああ、早かったね・・・ん、やっぱり大きくない?」
モルフォが戻ったのは、予想時刻よりもずっと早かった。
が、手を抜いているのかといえばそうではないことは一目瞭然である。城のように積まれた生地の層に、バター。蜂蜜が皿に池を作っており、生クリームは山を連ねている。見ているこっちが胃もたれしそうだ。今からこれが自分の腹に入るのかと、薄い腹をドレス越しに撫でるパシュエ。
愛情を詰め込んだとモルフォは豪語していたが、愛情がデカすぎだ。一瞬、パンケーキがパシュエの背丈より大きいのではと錯覚した。机に置かれるとその錯覚は消えてなくなったが、尚大きい。
彼女は昔からそうだ。料理人も舌を巻く料理の才と正確無比な腕前を持っているが、なにぶん全てにおいてデカい。本当に。
身長も大きいから、胃も大きくて、だからこうなっちゃうのかな。パシュエは己に見合わないサイズのパンケーキを見上げ、眉を下げた。
「ねえ、私一人じゃ食べきれないから・・・モルフォも、一緒に食べてくれる?」
「勿論です。もとよりその腹積りでしたのでご心配なさらず。」
「あ、そっか。そうだったんだ。」
「パシュエ様の胃の許容量くらい把握していますよ。貴方のメイドさんですから。」
「そっ・・・か?そうだったんだ。」
言いながら、モルフォは二人分椅子を引き、「どうぞ」と内一席を譲った。軽く会釈をし感謝を述べながらパシュエが着席すると、モルフォも座る。
モルフォと同じ机を囲むのは何だか久々な気がして、パシュエはフォークを持つ手を僅かに右往させてしまった。最後に───モルフォと食卓を共にするのも、今日が最後になるのだろう。そう思うと、咽頭が塞ぎ込んで二度と開かない気さえした。
「・・・・・・パシュエ様。早く食べないと、モルフォが平らげてしまいますよ。」
「そう・・・だね。」
右に置かれたナイフは手に取らず、パシュエはゆっくりと腕を上げる。
モルフォはパシュエが思考している間にも口にパンケーキを含ませ続けていて、彼女が嚥下する度にパンケーキは削れていった。
石工仕事みたいに食されていく様に、彼女が生粋の大食いなのを思い出し、パシュエは慌ててフォークを生地に入れる。
掬い取れたのは粒ほどの小さな小さなかけらで、それに蜂蜜をちょんと付けて食べた。
「パシュエ様?いつもだったら喜んで齧り付くのに、どうしました?」
あまりの少食っぷりに、無表情を少し不安げに歪めたモルフォが首を傾げた。
意図的に話題を避けてきたパシュエの様子に、耐えきれず疑問が口をついたらしい。
(モルフォも、今日・・・最期になる。)
彼女の運命を知りながら何も告げられない無力感に胸を苛まれ、パシュエは口籠もった。
「人を・・・その、食いしん坊みたいに言わないでよ。」
「パシュエ様。モルフォは、貴方のお側にずっといたんです。何かあったことくらい、目を瞑っていたってわかります。」
「ん・・・そう、言ったって。」
「話してくれないんですか?」
その瞬間。モルフォは咀嚼していた口を不意に止め、先刻していたように窓脇の花瓶を見た。
言葉を濁したパシュエは、モルフォの横顔を追う。モルフォにはあのことを伝えられない。言いたくても言えない、なんてことも言えないんだから。
モルフォの目鼻立ちの良い横顔に心中で謝罪を繰り返しながら、パシュエは彼女の言葉には何も答えることができなかった。
「やっぱり。」
モルフォは続けた。口元は変わらず無である。
「───やっぱり、パシュエ様が選ばれたのですね。」
モルフォは続けた、口元は変わらず無で、しかし歴然を言葉に纏わせて。
「モルフォ?」
メドュースのみが知りうる、救世主を呼びながら。
パンケーキは、やはりとても甘ったるかった。
尾を引いた蜂蜜が、舌の上でじっとりと引いて、妙に気持ちが悪かったのを、よく覚えている。
1話は1万字程度あったので、2話3話は半分の5000字で進めています。今後ともこの文字数で書いていこうと思っています。
それから、沢山のブックマークや評価、感想を有難うございます。正直初投稿でここまで反応をいただけるとは思っていませんでした。ランクインもし、ウッキウキで続きを書いています。皆様のおかげで、毎日投稿できそうです。本当に嬉しいです。




