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「崩壊」



 

 「その名は海のように波高く」


 少女は譫言のように繰り返しながら歩く。

 裸足に、岩肌が痛い。

 足裏の薄い皮が何度も擦れ、骨まで見えてしまいそうだと思った。しかしそれすら些細なほど、腕が痛い。


「誉れと共に泡沫となり」


 打つ。

 ひたすら、打つ。

 打って打って打って打って打って打って打って。

 引き金を引く手に、まめが出来る。

 重たい銃を支え続けた右腕が痺れるほどに痛い。

 反動で体が激しく揺れ、壁に打ち付けられて、腕に爪で傷をつけられ、幾多の傷跡を体に刻んでも。


 「潮風を仰ぎ見」


 ふら、と体が傾いた瞬間、何かを踏み抜いた。

 ゆっくりと顔を下げると、虚ろな目とかち合う。

 死体だ。半身が吹き飛んでいて、でも、何となく誰かはわかった。キッチンで料理を作っていたシェフだ。

 名前までは知らない。それでも、涙が出た。


 「水底から太陽系を射抜き」


 その涙も、炎に包まれて消えていく。

 このまま、何も残せないまま、世界の片隅で塵になっていくのかと。涙すら残せない私に、どうこの世界を動かせというのかと。そんな理不尽感という憤怒に身体を持っていかれる前に、使命を果たさなくては。


 「我らメドュースは、救世の光芒(しるべ)となる。」


 そうだ。我らは、私たちは、私は、光芒となる。

 救世───崩壊した秩序を再臨させる光に。




  §



 

 創世歴1454年。

 とある城館が崩壊した。

 とある国が崩壊した。

 とある惑星が崩壊した。

 世界は、再び終焉を迎えた。


 至って面白みのない理由だが、魔王によって。


 創世歴という概念が生まれる前、蹂躙と破壊の限りを尽くした者。長らく、1454年もの間封印されていた魔王が、その封印が解けた。

 かつての勇者が全ての叡智を注いで作った封印。

 それが正体不明の何者かによって解析され、破られたのだ。1000年と少しの休息を経た魔王は、大量の魔物を世に産み落とした。奴らは人々を枝のように折り、投げ捨て、殺し、尊厳を踏み躙り、築いてきた文明を破壊した。

 

 しかし、運命に抗う者もいた。


 メドュース家は、貴族のしがない一端である。

 同時に、使命を背負う一族でもあった。

 “未来を予見できる能力”を持つ彼らは、魔王の再来をも予見していた。

 予見していたのはそれだけではない。

 この絶望から、立ち直ることはできる。

 世界の救世主となる人間がいるのだ。メドュース家はそう予見した。


「───んん?」


 救世主について説明するならば、時は魔王再臨の日の早朝まで遡る。魔王の封印が解かれたのは、日付が変わる1分前だった。つまり復活は真夜中───当日早朝時点では、魔王再臨まで数時間の猶予があったのだ。


「───母上?どうしたんですか、まだ朝の鐘は鳴ってませんよ。」


 体を揺さぶられ、目を覚ます。

 齢15の少女───名は、パシュエ・メドュース。

 まだあどけなく、愛情の行き届いた容姿から教養が見えるような少女だ。金の髪に柑橘色の瞳が美しい。


「母上・・・」


 起き上がった時、こうなるとは思っていなかった。パシュエは自身の母の顔を見て、まずそう考えた。次に、母はもう「おはよう」言ってくれないのだな、と虚ろに考えた。


「パシュエ。」


 パシュエの母は彼女の名を呼んだ。

 柔らかい声以外で母に名を呼ばれるのは初めてのことだった。自然と背が伸びて、拳を握る手に力が入る。起動したてだった寝起きの心臓が、勢いよく稼働を始めた。遂にだ。始まったのだ、終わりが。


「パシュエ、私の可愛い子。あのね、」「分かっています。分かっております、母上。」


 メドュース家の未来予知は万能ではない。

 かつて、いつか起きる重要なことを“夢“の中で見ることができる力だった未来予知は、母から子へと渡される度、その効力を弱めていった。1000年以内に起きる重要なこと、100年以内に、10年以内に、1年以内に。そうして経年劣化した未来予知は、今や1日限りの代物なのだ。その日起きることを、夢の中で見ることができる。かつて神託ともいえる力だった未来予知は、しかし予知夢の範疇を出ないものになってしまった。

 

 もし、魔王が僅かでも遅く復活していたら。

 日を跨いだ瞬間封印が解かれていたら、メドュースは未来を予見することは出来ず、世界と共倒れしていただろう。その点、幸運の女神はメドュースに微笑んだともいえる。


「視たのですね、母上・・・魔王の再臨を。」

 

 パシュエはメドュースの血を引く者でありながら、特異的に夢を見ることが出来なかった。

 眠っても夢を見ることの出来ない体質───メドュース家に生まれた者として、あまりに致命的な欠陥を抱えたパシュエ。しかし、血族は彼女を責めず、どころか蝶よ花よと甘やかして育てた。現に、彼女の母は目が覚めるなりパシュエの部屋に駆けつけ、危機を告げに来たのである。


 「皆、食堂に集っています。貴方も早く来るのよ。」


 「ええ母上。すぐに向かいます。」


 去る母の背を呆然と眺めてから、パシュエは木漏れ日を送り込む窓を一瞥して、唇を噛んだ。

 あまりに実感が湧かなくて、これは夢なんじゃないかとも思えた。最も、彼女は夢を見たことは無いが。


 (───このまま、目なんか醒めなければよかったのに。)


 メドュース家の面々は、皆覚悟を決めている。

 先代から受け継がれてきた“予言“に立ち向かうため───平穏な日常を送る傍ら、刃を研いでいるのだ。

 だが、パシュエはどうも恐ろしかった。

 いつかくる日に備え生きる生活が、本当に息苦しくて堪らなかった。

 これは、夢を見れないからかもしれない。

 夢を見ることができないから、先が不安で仕方がないからかも。


 (いや、そんなの言い訳・・・)

 

 魔法の適性もてんでなく、夢見の才もない、その上卑屈な臆病者。しかし家族は、やはりパシュエを責めなかった。それが寧ろ彼女の劣等感を煽り立て、一つの考えをこびりつかせていた。


 (・・・いつか、その日が来てしまったら。皆が立ち向かう中、私一人だけ尻込みして何もできずにいたら。

 みんなはきっと、本当に私を見捨ててしまう。)


 ならば、“いつか“なんて来なければいい。

 私の世代で魔王は復活せず、このぬるま湯に皆して浸かっていられれば、それで。

 狡い逃げ癖は彼女の中で育ち続け、膨大し、巣食った。結果ついに来てしまったこの日を受け入れることができず、鳥の囀りに目を細めるばかりなのだ。

 

 ───私は、そんな私が嫌い。





   §




「・・・・・・・・。」


 歩く行為がこれほど億劫に感じたのは、初めてだ。

 現実味のないまま着慣れたドレスに袖を通し、食堂へと歩いて行ったパシュエ。食堂の空気は、とても食事など考えられない、ひりついたものだった。

 料理を運ぶ使用人は見当たらない。人払いを終えたこの場所には、メドュースの血を継ぐ者のみが鎮座している。父と母、姉と兄たち。パシュエは末っ子なので、妹や弟は存在しない。

 

 ───当然、皆に笑顔はなかった。

 いつも朗らかな父でさえ武人のような顔をしていて、唯一端然としていたのは


「お姉様・・・」


 パシュエは姉の隣に腰を下ろし、小さく声を掛ける。

 彼女はそこでやっとパシュエの方へ顔を向け、笑みを深めた。

 パシュエのご令姉、パニエ・メドュース。

 例に漏れず夢を見ることのできる正式な血統者で、メドュース家の才女。パシュエと同じ色の、幾分か長い髪を腰に下ろした麗しい少女。パシュエとは違い様々な才に富んだ彼女は、危機に扮しても尚笑顔だった。


 (私は怯えるばかりで、余裕なんて持てないのに・・・)


 劣等感こそ抱かずとも、そんな彼女を敬愛するパシュエ。微笑みかける彼女につられ、コロッと表情を柔らかくした。お姉様はいつも笑っていて、素敵だ。が、この笑顔も今日終わるのかと思うと───背筋に氷風が吹き荒ぶ思いだった。

 いけない。こんな心持ちでは救世はおろか、話もまともに聞けないだろう。もっと泰然自若に。


 頬をたたき帯を締め直したパシュエを見兼ねたのか、はたまた機は熟したと思ったのか


「───では。」


 寡黙に思われた父が、咳払いを溢し目を開いた。

 シャンデリアが厳かに場を照らし出し、メドュースの運命、その采配を告げている。腰を据えていたからいいものの、予告なしにことが始まっていたらパシュエは失神していたかも。それほどに、かつてない重圧を全身に感じたのだ。


「我々は今日の為に生き、明日の為に死ぬ。我々メドュースの名にかけ誓おう。」


 父の言葉に合わせ、パシュエは目を瞑った。

 す、と息を吸い───暗がりに身を委ねる。そして両手を胸の前で組み、天に祈る。

 全身の力を抜き、息を止め、心臓の鼓動に体の主導権を明け渡す。

 

 これは、メドュースが代々受け継いできた、一種の儀式である。儀式というほど仰々しいものではないのだが、ルーティーンに組み込まれた、彼らにとって大切なものだ。

 “蘇生の儀“と、彼らはそう呼んでいる。蘇生とは、目覚め───夢からの脱却を意味する。睡眠という仮死状態から目覚め、夢の中で見た運命に抗うため心臓を呼び起こし、体の調子を整え調律する。だから、“蘇生“。


 いつもそつなく儀式をこなしてきたパシュエだったが、今日はその限りでは無い。ジッと心臓の拍動を聞くが、一向に思考は鎮まらず。激しくドアをノックするような音に、パシュエの頬を冷や汗が伝った。

 煩い、とてもとてもとても煩く早鐘うつ鼓動に、何度も脳を揺さぶられる。


 まおう。魔王か。

 ──────これからどうなっちゃうんだろう。みんなが見た予言は、どんな内容なの?

 私は何をしたら、みんな死んじゃうの?死ぬのは、役立たずのまま死ぬのは、すごく怖い。鳥も犬も人も城も街も歴史も死んでそして何も残らない空虚を描く世界を描く放物線は、どれほど残酷な色味をしているのだろうか。嗚呼、本当に今日、世界は死ぬのか。


 「・・・っ」


 それは、世間からふた足先ほどに世界の命運を知った少女の、小さな悲鳴だった。


 儀式の最中に目を開けるのは禁忌である。分かってはいたが、パシュエは耐えきれず暗転から逃げ出した。

 孤独な闇に置き去りにされた感覚は、想像を絶するもので。目を開けたら焼け野原だけが広がっていて、誰も彼も死んでいるんじゃないかと。その感覚だけに、目を動かされた。


「ッはあ、はっ・・・?は?」


 息を吸う。生を実感する為。存在を確かめる為。

 パシュエは躊躇いなく目を開けると、キョロキョロと辺りを見渡し、各々の顔を識別する。よかった、全員いる。部屋もそのまま。みんな、安らかな顔でお祈りをしている。


 (まるで、眠ってるみたい。)

 

 儀式に背いた罪悪感というのも、直面した状態に比べれば些細なもので、弛緩した表情で胸を撫で下ろすパシュエ。

 と、その布の擦れる音に、パニエが顔をあげた。


「あらパシュエ、起きるなんて悪い子。儀式はそんなにつまらなかったかしら?」


 掠れ気味なウィスパーボイスを更にひそめ、パシュエに耳打ちするパニエ。パニエは兎に角耳聡い。些細な物音も拾い上げ、その人間がなにをしているかまで言い当ててしまう。現に今も、目を閉じたままパシュエの動作を言い当てた。


 彼女の茶目っ気を混じえた口調も、パシュエの心臓を駆り立てる材料にしかならない。言外に叱られている気さえしてしまって、パシュエは瞼を落とした。


 「ごめんなさい・・・お姉様。私、しきたりを破ってしまって。」


 「ふふ、別にいいのよ。わたくしだって、真面目に儀式を遂行したことはないもの。」


 「えっ。・・・それは、問題があるのでは・・・いえ、お姉様のことです。何か考えあってのことですよね?」


 いきなりの自白に狼狽えたパシュエは、僅かに声量を上げてパニエの顔を見た。

 模範的な立ち振る舞いの彼女が、密かに儀式をサボっていたなんて。にわかには信じられない───しかし、これも了見あってのこと、なのだろうか。お姉様はいつも、思慮を重ねて生きている。


 勘繰った様子のパシュエの唇を人差し指で押し、パニエは破顔した。心做しか、その表情はいつもより楽しそうに見える。


 「お前は馬鹿ね。馬鹿だけど、可愛いバカ。」


 「・・・ええと」


 「お家のしきたりなんて、守らなくていいのよ。全くもって馬鹿で無益なしきたり。お告げの通りなら、どうせわたくし達みんな死ぬんですもの・・・ただ一人、選ばれし救世主を除いて。それに選ばれぬ限り、儀式なんてしたって生きれないのよ?」


 聞き、パシュエは己の見当違いを猛省した。

 お姉様は策略を巡らせているわけではなく、諦観していたのだ。聡いからこそ、命運を早計とも言えるほどの速度で悟り、生を手放す覚悟をしている。否、それはパニエのみではない。パシュエ以外、私以外は()()なんだ。


 「───お姉様は、死ぬのが怖くないの?」


 「あら。ふふ、ふふふ。愚問ったらないわね。

 勿論怖くなんてないわ。死期が決まっているから、毎日の紅茶は美味しく感じるのよ。限られた生は何より美しいの。死は嫌いだけど、死を待つ日々は好きよ。」


 「うっ、私には少し難しいお話かもしれません。でも、お姉様がそう言うのならそれが正解なのでしょう。

 ・・・やっぱり、お姉様はすごいです。救世主に選ばれるとしたら、きっとお姉様だと思います。」


 「・・・わたくしが?」


 救世主───予言に出てくる、たった一人の英雄。

 メドュースの名を持つ者の中から選ばれる、人類最後の生き残り。銅像を彫られ、代々と繋がれていく逸話。未曾有の危機から全てを救い、神となる人物。偉人として後世に語り継がれるその顔を想像した時、パシュエは姉の姿を思い浮かべる。


 無論メドュースの者は皆才に溢れているが、抜きん出た才をもっているのだ、彼女は。チェス盤をひっくり返されてもチェスに勝つような、俗に言う“天才”の類。

 脳細胞全てが常時スパークしていないと説明がつかない、稀代のものだ。凡人のパシュエからすれば、理解など烏滸がましいとさえ畏敬できる相手。


 英雄とは、武がなくとも頭で語れるのだとパシュエは考えていた。なればこそ、パニエがなるべきだ。


 なるべきなのだ。


 「お姉様は、救世主になるべきお人ですから。」


 その言葉に、パニエは滅多に崩さない態度を明らかに柔らかくし、小さく笑った。


 「あらあら、また随分と狡いことを言うようになったわね。お前はやはり可愛いわ・・・。でも、ね。わたくしの見立てでは、救世主に選ばれるのはポルカよ。」


 「兄上?」


 パシュエに兄は複数いる。中でも、ポルカ・メドュースは長男にあたる男だ。武に長け、剣を持たせば一騎当千。彼以外の兄弟が束になってかかったとて、足元にも及ばない実力の持ち主である。

 確かに、剣を悠然と構えた彼の銅像というのは想像に難くない。彼が独りで荒野に立ち尽くす姿もそうだ。だが───


 「でも兄上は、」


 パシュエがその薄い上唇を持ち上げた時、金属音が彼女を妨げた。


 (あ、この音は)

 

 涼しげなベルの音が、そっと現実へと誘う。最愛の姉との会話でうつつを抜かしていたのかもしれない。パシュエの中にあった鉛は、確かに姉との会話で軽くなっていた。しかし今、再び現実へ引き戻された今、パシュエは思考のリソースをそちらへ割かねばならない。名残惜しくも姉で埋まった視界をずらし、机の上座へと目線を移す。


 ベルの持ち主、パシュエの父は、感情の抑圧された顔でしじまを貫いていた。刮目した面々も、大抵は同じ顔をしている。

 違和感を覚えるほどの皺を皮膚に刻んだ父は、ハンドベルを手放すと

 

「皆、“見終わった”な。」


 切れ長の目を開き、安否を確かめるよう自身の子供たちの顔を一瞥した後、肩の荷はそのままに息を吐いた。一見して通常通りの仕草に見えるが、身内の目を介せば違和感だらけだ。この歳にもなったパシュエを相変わらず肩車したがるような、温厚で子供思いな父。彼が子らに一瞥しか寄越さなかったのだ。


 もう彼は、私の知っている父ではない。


 「我々は漸く辿り着いた。帰路は既に閉ざされ、輝かしい軌跡のみが前に在り、我々の辞書に敗北はない。」


 一語一句に魂を込めながら、言葉尻を上げ、パシュエには分からない遥か未来を見据えながら、彼は立ち上がった。皆の背に針金が入り、場の空気は更に勢いを強める。


 「この夜明けを飾ろう。

 ───“神託”を、ここに。」


 彼が垂直に肘をまげ手を翳すと、一冊の本が浮き出た。空気から生じたように、ゆっくりと淡い光を放ちながら出現したそれは、白い革の本。タイトルはなく、無地の表紙のみ。綻びを感じない完璧に新しい、傷1つないものに見える。しかし、その本には傷で語り尽くせない年輪が刻まれている、らしい。


 メドュース家は、従来の信仰とは異なる。自らの先祖を神としてすえ、先祖の書いた本を“神託”として崇めているわけだが。信仰に値する神託とはどれほどのものなのか、その実態を知るのは父のみである。

 代々、屋敷で最も権力を持つもののみ所持を許されている神託。先程“らしい”と不明瞭な言い切りだったのは、最高権力者ではないパシュエが神託の中身を読んだことは無いからだ。否、中身はおろか───


 「神託・・・本物は初めて見ました。」


 「ああそう、お前は初めてだったわね。よく目に焼き付けておくといいわ。一生で一度見れただけで名誉に思うべき代物・・・ふふっ。だってあれは、本の皮を纏った神の権化だもの。」


 パニエの言葉には、神託に対するある種渇仰に似た重みがあった。机に頬杖をつき、うっとりと微笑を浮かべる彼女に、パシュエもつられて本を凝視する。

 一見して、普通の本に見える。神託であると理解していなければ、その辺の本棚に紛れていても決して目にとめないような、在り来りなものに。


 “神託には、この世の()()が書かれている”


 そう聞いてはいるが、真偽のほどは定かでない。

 そもそも、唯一所持を許されている父でさえ内容は知らない筈だ。聞いたところによると、神託は魔王によって世界が滅ぶ前使われていた、所謂古語で書かれているのだから。古語は世界が滅んで以降資料が全く発掘されず、謎のまま失われていった文明。

 学者ですらない一端の人間に読めるわけがない。


 しかし、父は迷いなく神託を開くと、


 「───その名は海のように波高く」


 と、まるで文字が読めているかのように迷いなく朗誦した。パシュエが驚いたのも束の間、あっという間に次文へ進んでいく彼。何故、という疑問をかき消す如く


 「誉れと共に泡沫となり」


 彼は毅然と続ける。

 神託は声に呼応して輝きを増していき、自らページをめくり続ける。まるで意思を持っているかのように、ひとりでに紙が動き出すのだ。神秘性を存分に発揮したその姿に、パシュエは肌のひりつく感覚を覚える。


  「潮風を仰ぎ見」


 神託。この世の全てがそこに記されている。

 が、父の口から語られる神託は、今のところ激励の言葉というか、全くもって具体性のない言辞に思えた。本当にこんなものが?と訝しげな目で本を睨むパシュエ。

 こんな薄っぺらい本に命運を、ひいては世界を預けるのはどうも信頼に値しない。しかし、お姉様は神託を信じよと言っていた。自身の考えか、天才の考えか。

 信じるべきは───勿論、後者である。パシュエは抱いていた疑念を薙ぎ払い、瞬きをした。


 「水底から太陽系を射抜き・・・」


 抽象的な文字の羅列の中にあるだろう、神託の意向を探らなければ。一語一句聞き逃しのないように耳を澄ませて、傾聴する。


 (潮風、泡沫、海、水底・・・)


 断片的に伝えたいことが分かるような、わからないような。

 

 パシュエが眉間に深く皺を刻んで考え込んでいると、見兼ねたパニエがその手をとった。

 彼女はよくパシュエの手に自身の掌を重ねる。この行為の真意を尋ねたことはないが、きっと安心させてくれているのだろう。赤子をゆりかごに入れて揺さぶるみたいな動作だとパシュエは感じている。いまに限っては、不器用な彼女なりの精一杯の慰めと捉えるのが正しい気がした。お姉様のことだから、きっとずっと前から私の心中にある不安を見抜いていただろうし。大丈夫よと伝えてくれているんだろう。


 ──嗚呼、暖かい手。お姉様の手はいつも、とても暖かい。大丈夫。お姉様もお父様もお母様も、兄上も姉上もいる。不安なんて何ひとつない。


 だって、私の家族は、みんなは凄いんだから。


 「我らメドュースは、救世の光芒(しるべ)となる。」


 神託の言葉に恐らく偽りはなく、ただ1つ正すとするならば、我らという括りに私は含まれないということ。

 何をやってもてんでダメな落ちこぼれで、魔法の才も剣の才も知の才もなく、胸を張れる取り柄もない。小心者で恩に報いれるものを持ち合わせてなくて、死ぬ時でさえ何も報いれない。こんな時にもマイナスなことばかり考えている、そこも最悪だ。本当に、嫌い。


 一方パシュエのそんな慟哭を知る由もない父は、変わらず威厳を放ちながら神託を読み進めていた。

 しかし、とある一文に目を通した時、僅かに訝しげな顔で


 「───何?」


 と一言呟き、目を細めた。

 意識的ではない知らず知らずのうちに転げ出た声といった様相に、子供達は顔を見合わす。

 

 彼はもう一度同じ箇所に目を通すと、かつてないほど鬼気迫った顔を上げた。

 そしてその顔を───パシュエに向けた。


 慄然と狼狽の入り混じった激情を抑えきれない顔。

 その顔に、どうしてかひどく心を揺さぶられる。ありもしない予感が頭を駆け抜け、やがてそれが脳髄に達した時のことだった。


 (まさか。そんなわけない。)


 言い聞かせる。

 というよりは、縋りつく気持ちで言葉を反芻する。そんなわけがないのに鼓膜の奥では、天文学的な確率が収束し固体になる音がする。


 そんなわけない。


 だのに心臓が弾け飛びそうなほど変な風に高鳴って、1つの可能性を提示していた。

 ありえない、ありえもしないことだ。誰か否定してほしい。違うと。

 目が合う。父の双眸は、でも確かに私を見ていた。

 



 そんなわけない、よね?



 「そして救世の暁にはメドュースの名を絶対のものとし、ただ一人、選ばれし救世主のみ名乗ることを許される。

 また、後の伝説にはこう刻まれる。」


 曰く、かの救世主の髪は金に靡き

 曰く、かの救世主の瞳は柑橘が実り


 「曰く」


 「父上、お待ちを。」


 遮ったのは、凛とした声だ。

 金の髪に柑橘色の瞳を持つ男、場で一番覇気を纏い存在感のある彼の名は、ポルカ・メドュース。正真正銘メドュース家の次期当主であり、若くしてこの座に似合った威信を備えた好青年である。話の腰を折ってまで彼が進言したいことは、おおよそその外見から掴める。

 前述した通りの金の髪、柑橘色の瞳は、まごうことなきそれである。

 言を俟たないことだ、彼が救世主なのだ。

 パニエの推定通りの結末であり、誰もが信じて疑わなかった。そうでありたかったのだが。


 「神託の通り、俺は救世主としてこれから名をつぎます。その前に、お伝えしたいことが・・・」


 「いつも言っているだろう、早まるなと。まだ私は名を呼んでいない。」


 前のめりになったポルカを片手で制す父に、ポルカは一度黙ってから引き下がった。

 この期に及んでまだ噛み付くほど時間に余裕がないことは、彼も承知の上なのだろう。いずれにしても結末は変わらない。


 「曰く、かの救世主は天衣を浮つかせる美しさをもった───」


 パシュエは柑橘色の瞳を瞬かせ、静かに聞いていた。立ち上がったポルカには目もくれず、父をじっと見つめ返す。

 心の奥底では結論に辿り着いていたが、今はまだ気付かないふりをしていたかった。


 少しでも“自分でいられる“時間を引き延ばす為に。


 「白銑の如く鈍る、少女であったと。」


 パシュエは父がしたように周りの家族を一瞥ずつする。他は赤に黒と様々だが、黄色の系譜はポルカと自身の眼睛のみ。

 内、生物学的に少女と言えるのは───ポルカは長“男”であり、20はゆうに越えた大の大人である。少女というには少々無理があって、ならば


 (ええっと、だったら・・・つまり、どういうこと?)


 結論に辿り着きたくないと、パシュエの頭は精一杯の遠回りで思考を回す。だが現実は無慈悲に、そして正しく、頭角を現した。


 「───パシュエ。神託は、お前が救世主に相応しいと。そう告げている。」


 人生で初めてみるパニエの口角を下げた顔が、視界の端で小さく「はあ?」とこぼしたのが、やけに印象に残る。鳥が囀る。そんな、崩壊の日のことだった。

 

 このようにして、パシュエ・メドュースは救世主になった。



 

初めての投稿でドキドキしてるので、ミスがあっても多少見逃していただけるとありがたいです。

一日一話ペースで頑張ろうと思ってます。よろしくお願いします!!

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