第5話 幽閉十三日目
アシュリナの牢から、一切物音が聞こえてこない。
古城の牢番はレイスを含めて数人しか常駐していない。その全員が、アシュリナの状態について口を揃えた。
「元から大人しいというにはあまりに静かすぎる」
「理由なんて必要ねえ。早々に痛めつけて終わらせちまうか?」
幽閉されたアシュリナを見張るように命じられたのは、辺境領の王国兵たちだった。
しかし王国の目が届かないところでは、彼らは無法者と何ら変わりのない振る舞いをしている。レイスは古城の詰め所で、彼らのやりとりを無言で聞いていたが、やがて口を挟んだ。
「……私的に王女を傷つけるようなことは許されない。王家の命令はあくまで、彼女をこの城に置くことです」
「そんなお題目は聞き飽きたと言ってる。捨てられた王女殿下どのを丁重に活かして何になると聞いてるんだ」
「それを考えるのは我々の領分ではありません」
二人の兵とレイスの間に緊張が走る――しかし、退いたのは兵たちの方だった。
「王宮で甘やかされて育ってきた子供が、そう長く持つとも思えんがね」
「俺たちの目がないところで、余計なことをしちゃいないだろうな?」
王国兵たちは勤勉に古城の見張りを勤めているわけではなく、王国から視察が来る場合以外はまともに働いていない。それを知っていても、レイスは口にはしなかった。
「今のまま日数が経てば、少しずつ弱っていくでしょう」
「二週間経っても生きているなら、細々とこれからも生き続けるんじゃないのか?」
「こんな不気味な『幽霊城』をまだ残している自体がおかしい。全く俺達のことを何だと……」
兵の一人が愚痴を言いかけたところで、詰め所の扉が開く。そこに立っていたのはアシュリナに足枷をつけた男だった。
「レイスに任せておけばまず問題ないさ。あの王女にも懐かれているようだし、それでいてこいつは命令が下ればその通りに行動する」
「ゼフェン殿、お帰りでしたか」
「王女殿下どのは今日も健在です。不審者なども確認していません」
「いいよいいよ、かしこまらなくても。それよりも、お前らに仕事だぞ」
兵たちの目つきが変わる――彼らは無言で立ち上がると、剣を佩いて外に出ていった。
「お前の力も借りたいが、こちらにその権限がないのが残念だ。退屈を持て余しているだろう?」
「僕のことを心配してもらう必要はありません。役目ですから」
ゼフェンは薄く浮かべた笑みを消さないまま、レイスに近づくと肩に手を置く。
「きっかり三十日だ。その時点から拷問を始める。お前が本当の役目を勤める必要はなくなるだろう」
レイスは何も答えない。ゼフェンは手を払われ、何も言わずにレイスの仮面に顔を近づける。
「お前は王家の剣だとでも思っているのかもしれないが、それは思い上がりだよ。もう一度言っておくが、王女に対して某かを考えるのはやめることだ。あれの代価は相当なものになる。生かさず殺さずだ、いいか?」
レイスが目を光らせていなければ、アシュリナは牢番の誰かの手にかかっていたかもしれない。それもまた、レイスは口にすることはなかった。
ゼフェンが去ったあと、古城の外で数頭の馬がいななき、駆け去っていく。
誰の目もなくなった今、この古城には王女とレイスの二人しかいない。
レイスは手の中にある鍵を見つめたあと、強く握り締める。詰め所の窓から差し込む光は薄くなり、夜が近づいていた。
◆◇◆
「――っ!」
今の素振りは手応えがあった。魔力で手のひらを保護するだけでなく、今は木刀全体を魔力で覆ったうえで、魔力の散逸もゼロに近くなっている。
「先生、今のは上手くいった感覚がありました。今日はあとどれだけ振っていいんでしょうか」
石の上に座っている先生は、いつになく真剣な顔をしている――そして息をついたあと、石から降りてこちらにやってきた。
「そうしろと言ったのは儂だが……お主ほど、素振りを飽きずに続けられる者を儂は知らん」
「こういうのは好きなんです。座右の銘はチリも積もれば何とやらなので」
「それにしてもお主は並外れている。今、『こちら』で何日経ったか理解しているか?」
「何日……すみません、一度何かに集中すると他のことに意識が回らなくて。えーと、向こうで食事をした回数で考えると、三日……あっ……」
先生が言っていたことを思い出す。心界で流れる体感時間は、現世の十倍――ということは。
「お主がここに来てから、現世で三日が過ぎた。つまり、心界で素振りを始めて三十日ということになる。儂にとっては短くも長くもない時間だが、人間が成長するには十分な時間だ」
「三十日……こっちだと昼も夜もないので、全然自覚がありませんでした。ということは、素振りが何万回もできてるってことですね」
「そうなる。儂の力をもう一段引き出すにはまだ鍛錬が必要だが、魔力の基礎的な量が徐々に成長を続け、素振りのたびに失う量もほぼ無に等しくなった」
「そうなるように意識してたんですが、上手くいって良かったです」
アシュリナは集中を切らさないようになるべく笑わないようにしていたが、今ばかりは充実感を顔に出す――無楽はそれを見て呆れたように息をついた。
「いつ素振り以外を教えないことに噛みつかれるかと思っていたが、お主はこと修練に関して、あらかじめ悟りを得ているようだな」
「レベル上げっていうんですか、ちょっとずつでも成果があれば鍛えるのが好きなので。ゲームとは話が違うってことも、案外なかったです」
「自らの微々たる変化を見極める目、それもこの一ヶ月で育てられている。だが……お主がここまで飽くことのない性格なら、もう少し欲を出しても良いか」
「欲、ですか?」
先生が指を二本立てる。ピースサインではないので、どういう意味だろう――と思っていると。
「さらに『心界』での体感時間を二倍にする。初めからそうしなかったのは、現世と時間の感覚に乖離がありすぎると、瞑想が解けたあとに感覚が戻るのに時間がかかるからだ。お主の状況を考えると、何かあったときに現世ですぐ動けなくてはならないからな。だが、お主なら……」
「ちょっとドキドキしますけど、先生が期待してそう言ってくださるならやってみたいです。いえ、やります」
魔力の扱いがほんの少しずつでも上手くなっていくのが楽しくて、すっかり鍛錬沼に浸かっていた。
「魔力で保護した手で太刀を握り、そして太刀を常に覆い続ける。これを意識することはすなわち『水』の理に沿っている」
「魔力の流れを意識してるから、ってことですか?」
「そういうことになる。それは、魔法で水を操ることにもつながるのだ」
「魔法……先生の魔法の解釈は、たぶんこの世界で広まっているものとはかなり違うと思うんですけど、そういうやり方もあるんですね」
「相手と違う理で魔法を扱うということは、有利な兵法を増やせるということだ。武器に限らず、使える道具は多い方が良い」
すでに、素振りの次の段階が始まっている――先生の話は難しいが、『修練の木刀』による瞑想修行は魔法の熟練度もちょっとずつ上がるというものだったので、魔法の話に繋がったことも私の中では得心がいった。
「そして刀の扱いだが、基本的には片手で振り、必要に応じて両手で用いるのが良い。魔力の扱いに慣れれば重量のある剣も使えるだろうから、得物には自由が効くだろう。右手だけで剣を扱えば左手が自由になり……」
「使える兵法を増やせるってことですね。二刀流もありなんでしょうか」
「使えそうなら使えば良い。今後お主が出会う武器次第ではあるが、二刀の立ち回りは必要があれば教えてやろう。その前に、別の稽古をつけてやる」
「はい、お願いします!」
一瞬たりとも集中を切らさないのは難しいかと思っていたが、強くなることしか頭にないのでそれは問題なかった。
「では、次は立ち回り……常に有利な場所に立ち、攻撃されずにこちらは一方的に攻撃する、それを理想とする。遠慮はいらぬから、儂に当ててみよ」
先生は木刀ではなく、小さな木の枝を持っている。それで私の全力の打ち込みを捌いてみせるというのだろうか。
「――行きますっ!」
――結局、立ち回りの稽古が始まったその日から、心界における一週間のあいだ。私は先生の着物の端にすら、木刀を触れさせることができなかった。