第29話 神の遣い
――簡単な任務のはずだった。
グラスベル市とフォルラントの境目は設定されているが、抜け道となる経路は存在する。武装して潜り込んでしまえば、各地で略奪を行うことは容易だった。
しかし、それは公にならなければである。ただ賊が出ているというだけでは、都市同盟の間にある協定によって多くの兵力を動かすことはできず、グラスベル公は治安を維持する名目で持っている兵だけで、素性を偽ったフォルラント正規軍の兵に対処しなければならない。
そして次の一手に移るときがやってきた。交戦したグラスベル兵の装備を奪い、ヴァンデル伯の息がかかった者がグラスベル兵の扮装をして、国境付近にあるフォルラント領を焼き討ちにする――はずだった。
平和を約束する協定が、無惨にも踏みにじられた。ヴァンデル伯はそれを名目にしてグラスベルに領地を割譲させる――山岳や森林の多いフォルラントが平野に進出する足がかりを得たとして、ヴァンデル伯の王国内の名声は高まり、権勢は強まる。
だがそれは全て、『そうなるはずだった』という話だ。
(作戦は成功していた。だが、今起きているこれは何だ……?)
グラスベル南部の街。食糧を奪う名目で略奪を働こうとした賊――ヴァンデル伯の送り込んだ部隊のひとつは、壊滅状態にあった。
「ば、化け物が空からっ……」
「こんな……こんなことで終わるのか、俺たちのっ……ぐぁぁぁっ……!」
街の守備兵は度重なる襲撃で士気を落としていた。それを蹴散らせば終わるはずだった――そのはずが、悪夢は北方の空から現れた。
雷を纏った巨鳥。それが上空を横切っただけで、無数の雷が落ちてくる――三十名からなる賊の騎兵はそれだけで恐慌に陥った。
「あの怪物だけじゃない! 何かいるぞ、夜闇に潜んでっ……がぁっ!!」
「――潜んでなどいない。お前たちの夜目が効かんのだろう」
夜の平原。背の高い草が生えているとはいえ、月に照らされて視界は開けている――そのはずが、神出鬼没に現れては騎兵を一人ずつ倒していく何者かの姿を、誰も見つけられない。
「……嘘だ……こんなのはただの夢だ。こんなことがあっていいわけがない……」
賊を率いる部隊長は、もはや自分以外に動くものがないということを受け入れられず、歯をかちかちと鳴らす。街の守備兵を愉悦と共に何人も斬った男の姿は、もはやどこにも無かった。
「実際にあるのだから仕方がない。これまで散々好きにやってきたんだろう?」
夜闇から滲み出すようにして現れた黒髪の青年が、こちらに向けているものは――まともな剣ですらない、木の棒。
それを見たとき、騎兵がここに至るまでの記憶が巡った。ヴァンデル伯の命を受け、グラスベルに潜り込み――この任務を成したあとは褒賞を与えられる。グラスベルから得た領地を報じられることもある。名声も美女も、欲しかったものは全て得られる。
――目の前にいる、この厄災さえ取り除くことができれば。
「――うぁぁぁぁぁっ!!」
簡単な任務のはずだった。
この日の夜半に略奪を行ったヴァンデル伯麾下の部隊は二つあり、それらは双方壊滅的な打撃を受けた。彼らのほとんどは捕虜となったが、略奪に加わらなかった伝令役の兵のみが、這々の体で逃げ帰った。
グラスベルの守備兵たちは空に現れた魔物が偶然に敵を蹴散らしてくれたと解釈していたが、一部の兵は違うことを主張していた。
巨鳥の背から降りてきた何者かがいた。その人物は賊を瞬く間に倒し、すぐに立ち去った――まるで神が遣わせた救い主のようだった、と。
◆◇◆
お屋敷の近くまで戻ってきたときには、まだ辺りは暗かった――でも、もうすぐ日が昇ってきそうだ。
賊退治を終えるころには魔力をかなり消耗していたので、『化身解放』は解除している。元の姿に戻るとやはり手足の長さに差があって戸惑う――足が長いと歩幅が広いので、徒歩での移動にかなり差が出る。
フレスヴァインには近くの森にいてもらって、なるべく人の目につかないようにと頼んでおいた。リクがついていなくてももう大丈夫らしい――私の言うことも直接聞いてくれるようになっている。
「チュー」
「お疲れ様、リク。ごめんね、こんな時間まで付き合ってもらって」
今回のリクの活躍には本当に助けてもらったので、何か好物でもあげたいところだ――やはり木の実などがいいだろうか。
それより、グラスベル公――ミュルツァー殿の容態が気になる。出かける前に、治療師の人に『雪白の花』を渡しておいたので、上手く薬が作れているように祈るしかない。
「――アシュリナ様!」
こんな朝方でもエリックが起きてきている――屋敷の裏手に近づいた私に気づいて、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「すみません、フィリス様とレイスさんより一足先に戻ってきてしまいました」
「つい先刻、『黒髪の魔導師』が姿を見せた。彼は父の薬の材料を持ってきてくれて……」
「え、えっと……ここに戻る途中で、彼に会ったんです。それで、彼のほうが早く移動できるということなので、花を届けてもらいました」
「……そうだったのか。アシュリナ様が、二人と一緒にあの花を……」
エリック様はそう言って、その場に膝をつく。
これまで、彼がどれだけ張り詰めていたのか――父君の病気を治せるかもしれない、その安堵で力が抜けてしまったのだろう。
「治療師によると、薬は作れたが、効果を確かめるには時間がかかるとのことだ……だが、ここまでしてくれたことに感謝する。俺は何もできないまま、右往左往するばかりで……自分が情けない」
「そんなことはありません、エリック様がいてくださることは、お父上にとってもきっと心強いことだと思います」
「……本当に、自分が恥ずかしい。最初に貴女に会ったとき、『お嬢さん』なんて呼び方を……」
「え? あはは……どんな呼び方でも大丈夫ですよ、私はただのアシュリナですから」
それでも申し訳なさそうにするエリック様を引き起こして、彼の服についた草を払う。
「……フィリスに怒られるかもしれないが、俺も一緒に父の病に効く薬を探したかった」
「フィリス様は優しいですから、怒ったりするところが想像がつかないです」
「そう貴女に言ってもらえることが、ますます……いや。これ以上言うと、もっと情けないやつだと思われてしまうな」
「そんなこと全然思ってないですよ?」
思っていることをできるだけ率直に言うと、エリック様はなんとも言えない顔で笑った。
ミュルツァー殿の容態も気になるが、他にも気になっていることがある――さっきからずっと静かな先生のことだ。一度瞑想をして話をしておきたいが、なんとなくまた、心界にすぐには招いてくれなそうだという予感があった。




