一話//チュートリアル
「強い光が目に灼きついて、離れないんだ」
ヘラヘラと、見知った顔が笑っている。
「誰かにとってはそうじゃなくても、俺にとっては救いだった」
実に不快な、弱い者の顔であった。
「だから俺はアレがいい。アレになりたい」
手段も、過程も、何も語らずに『何か』になりたいと語るその姿に、吐き気がする。
嗚呼、でも。
「光がいい。光になりたい。全部、」
それを責める権利など、己は有していないのだ─────。
「────────、光になりたい」
打ちっぱなしのコンクリートに、鉄筋が幾何学的な模様を描いている。無機質なそこに、斑の光が這っていた。
「…………あ、」
掠れた声が口から零れる。そういえば昨日は痛飲したのだったかと、ヒジリは朧気な記憶を探る。気分良く居酒屋を出たところまでを思い出して、彼はそこから先の記憶が無いことに顔をしかめた。いつまでも大学生のような気分で飲み歩くのは良くないことだと、暫し自戒してから彼は体を起こした。まずは財布の有無を確認しなければと自分の体を見下ろし、そこでヒジリは現実を認識し、身を固くして静かに驚愕した。
「あ? ……は? はぁ?」
言葉にならない呻き声のようなものを発しながら、彼は己の手をじっと見た。白く、細く、柔らかそうな、肌質から記憶と齟齬のあるその手を。そして次に、動揺からかあちこちへと散る視線を何とか制御しながら、彼は己の身体を見下ろした。か細い肉体はパステルブルーのパーカーと淡いピンクのフリルが重なったスカートに包まれており、真っ白なスニーカーの大きさに対比するかのように、その脚は華奢で細いものであった。
「はぁ!?」
絞り出すように吐かれた声は、高くよく響く少女の声音であった。あまりの違和感に頭を振るヒジリの視界を髪が覆い、彼は記憶と致命的に食い違う長さのそれをつまみ上げて睨んだ。柔らかく細い髪質の、染めた発色ではない亜麻色の毛が彼の指先をすり抜けて落ちる。身に覚えのない色合いのそれに、ヒジリは暫し思考を放棄するのであった。
「現実、現実なのか? 悪い夢でも見せられてるのか? ああクソッ、自分の声に違和感しかねェ」
悪罵すら可愛らしく聞こえるであろう甘い声に、ヒジリは胡座をかいたまま目を瞑り、上体をぐにゃりと曲げて突っ伏すように丸まった。以前の己ならばただ項垂れるだけであっただろう姿勢はしかし、体の柔らかさが手伝って球体じみた格好へと変わる。大人であればどこかしら痛めるだろう体勢は、今の彼の肉体にとって雑作もない体位であった。そのことに彼は空笑いを浮かべながら呟く。
「子どもだもんなー、しかも女。運動なんてしない男とは比べ物にならんよなー。関節が柔らけぇわ」
「つーか、なんかこの異常事態にも慣れてきた感あるな、ウケるわ。段々思い出してきたけど、俺そういや歌いながら車道歩いてたんか」
「馬鹿だねえ、つか、やっぱ、あれ……」
「……………………」
「俺、死んだんかな」
奇妙な姿勢を取るのを止め、ヒジリは体を起こし立ち上がった。キョロキョロと周囲を見回す姿は、どうやらようやく状況把握に努めようということらしかった。打ちっぱなしのコンクリートにそれを支える鉄筋、壁には配電盤のような箱が時折見られ、四方のうち一面だけがガラス張りになってそこから光が入ってきている、そんな建物に彼は立っている。
「……ゲーセン、か? ガラス戸っつーか自動ドアだろアレ。筐体も何もかも取っ払って更地にしたらこんな感じになんだろ」
首を捻りながら箱物の中を見るヒジリは、建物の奥側に向かって歩いていく。無機質なコンクリートの中央には、バックヤードに通じると思わしきステンレス様の鉄扉がある。小窓の付いたそれに触れながら、彼は歩いている際に揺れと重さを感じた、パーカーのポケットへと手を入れる。硬くツルっとした感触に慣れ親しんだ感覚を受けた彼は、それを掴み上げ引っ張り出した。
「なんかデケーけどスマホじゃん。いやこれ俺の手が小っちぇの?」
ヒジリは眉根を寄せながら、端末のサイドにある電源ボタンを素早く押した。何故なら傷一つ無い液晶に、渋面を作る美少女が僅かに映ったからだ。彼にはまだ己の姿を直視する気構えが無かった。起動した端末がぼんやりと光を放ち、画面から顔が消えて待機画面が映ると、彼はホッと息を吐いた。
「さてさて、何か現状に繋がる手掛かりがあるかね…………え?」
そのとき、彼の目には奇妙なアニメーションが映っていた。妙にリアルな質感の、しかしデフォルメじみた造形をしたキャラクターが画面の端から現れ、ヒジリと目線を合わせてニヤリと笑ったのだ。さらにそいつは無遠慮に画面いっぱいまで近づいてきて、そのまま液晶から手を伸ばして端末を持つヒジリの手に触れたのである。
「うわああああ!? 化け猫ォ!?」
「ワッ、放るニャアアアア!?」
肝を冷やす柔らかい感触にヒジリは堪らず端末を放り出して壁際に逃げ、彼に触れた何者かは回転しながら落ちる端末から手を引っ込めたかと思うと、乾いた音をたて転がったそれからヌッと這い出てきてブルブルと全身を震わせ、また怪しげな笑みを浮かべた。
「酷い契望者も居たもんだニャ、こんなにカワイイマスコットを放り投げるなんて」
「お、おまっ、しゃべ、はぁ?」
「フム、どうやら混乱しているようだニャ。仕方ないのでミャーが察しの悪い契望者に一通りの説明をしてやろうかニャ」
三角の耳を動かしながら、長い三本ヒゲの持ち主はゆらゆらと尻尾を動かしながら胸を張る。真っ黒な体毛に覆われたその容姿は、半端にリアリティを加えた猫のぬいぐるみの様であった。
猫曰く。
この世にはオカルトに分類される超存在、生物と空想の間に存在している超自然的敵対種、『死駆罰孔』と呼ばれる勢力があり、それらは人知れず人間を殺してまわっているのだという。全国で発見される自殺者のうち、およそ四割がこの死駆罰孔の仕業で死に追い込まれた人間であり、これを野放しにしていればやがて人類は滅びてしまう────顔を洗いながら、猫はそう述べた。
「そんなヤバい連中が居るなら、日本とっくに終わってね? フカシコいてんだろテメー」
「ニャホホ! 短絡的に考えるでニャイ、そもそも特定種族を殺すことのみを目的とした存在なぞ生物として破綻してるニャ。おおよその生物は食う為に殺すミャ? 死駆罰孔も同じ、おなーじ」
「あ? つまり、そのアホなんちゃらは人間を食ってるってこと? なおさらヤバくね?」
「肉体を維持する為の摂食とは異なるミャ。 しかし、それに近しい行為ではある。 死駆罰孔は満足する為に人間を殺すニャ」
「あーと……つまり、何?」
「死駆罰孔は生きる為に如何様な消費も必要の無い種族、しかし奴らは生の実感を得る……つまり悦びの為だけに人間を殺す存在なのニャ」
「は? それって……」
想像が悪辣な答えに結び付き、ヒジリはぬるい汗を搔きながら唾を呑んだ。
「好物をチマチマ食べたり……毎日ちょっとずつパズルを組み立てるみたいな…………」
「そう────死駆罰孔は『生き甲斐』として人間を狩ることを『楽しんでいる』……ミャ」
「っ…………!?」
そんなもんが存在するわけがない────安易な否定を口にしようとしたヒジリは、目の前の生物があまりに自然体でいることに二の句が次げなくなる。つまり、この非現実的な内容をこの猫は大前提として、当たり前の知識として語ったのだ。非日常の存在が当然の摂理として口にする外道の存在を思い、ヒジリは体が冷えるような怖気を味わっていた。
「フム、頭の出来はともかく、察しは良いらしいニャ? 善き哉、勘の良い契望者は長生きするからニェ」
「ま、契望者……?」
「お前みたいな存在のことニャ」
猫は前足で床に転がる端末を指し、尻尾を揺らした。
「死に際に強烈な感情を発した存在に反応し、その魂と契約機構が無意識下で契約することにより、個性に準じた魔法と姿を得る……平たく言えば、」
「言えば?」
「魔法少女 (成人男性)ニャ」
「何でだよッッ!!」
平手で空を叩くヒジリに、猫は面倒臭そうな態度を隠しもせずに欠伸をした。それから端末まで歩み寄ると、素早い猫パンチでヒジリの足元へと端末を飛ばし、再び彼を見上げる。
「知らんニャ。趣味じゃニャーか」
「誰の!? いや、契約機構ってヤツのか?」
「機構に個人の嗜好とかあるわけねーだろミャン」
「じゃあ益々なんでだよッ!」
「まぁアレかニャ、男より女の方が感情を司る脳の機能が発達してるとかなんとか」
「適当言ってんなよ野良猫!」
「ミャーは野良じゃなく仕事猫だミャン。斡旋猫でも可」
首をしゃくり端末を拾うように促しながら、猫は飄々と嘯く。その様子に不審人物を見るような目を向けながら、ヒジリは端末を拾った。一見してただの携帯端末にしか見えないそれは、乱暴に扱われたにも関わらず傷一つついていない。これも地味にファンタジーだなと考えながら、彼は端末横の電源ボタンを押した。
「端末は────」
猫が口にする言葉に従い、ヒジリは端末を操作する。発光する液晶が映すホーム画面には、検索エンジンと思しきボックス型のアイコンの下に、三つのアイコンが等間隔で並んでいた。
「────契望者の生命線だニャ。姿形が変わってしまったお前たちは、この管理社会において生きていくことが難しい存在だニャ。そんなお前たちを馬車馬……ニャフン、自活出来るよう支援するための機能が、その端末には備わっているニャ」
「…………今なにか不穏なこと」
「言ってニャイ。それはさておき説明を続けるニャア! 検索ボックスは死駆罰孔に関連する事件、死者の情報を検索出来るエンジン、WindCatに繋がってるミャン。これに場所、時間、死因、死者の個人情報等を入力することで、それが超自然的他殺であるかそうでないかを判別し、またその死に関連する情報を得ることが出来るニャ」
「警察にくれてやれよこのアプリ」
「魔法的能力の無い者には毒にしかならんニャ。さて次、下のアイコンを右から順に説明するニャ」
「一番左のアイコンはマジカリ、死駆罰孔を討伐することで得られるマジカリポイントを使ってアイテムを購入したり、ポイントを換金して現金を入手したり出来るマジカル狩りカツアプリだニャ」
「商標で訴えられないかコレ」
「知らんニャア」
猫は顔を洗いながら尻尾で床を叩く。ヒジリは詐欺師を見る目で端末を睨んだ。
「真ん中のアイコンは契望者のみがアクセス出来るMSNS、Lyntterだニャ。炎上には気を付けるミャ」
「旧の方なのか、旧の」
「イチイチうっさいニャ。で、最後。他よりチョイデカいアイコンのこれが最重要アプリ、契望者が魔法少女へと変身するためのアプリであるマジカルトランスシステムだニャ!」
「変身ねぇ……」
ヒジリは手元に視線をやり、片眉だけを持ち上げる。目線の先には虹色の魔女帽子を抽象化したアイコンの下に、M.T.Sと表記されたアプリがある。今まで多分にファンタジー体験を重ねてきてなお、ヒジリはこのアプリ一つで超常現象と戦う力が身につくとは思えなかった。何せ、アプリが現実に対して直接的かつインスタントに影響を及ぼすことなどそう無い。精々がアプリ内に含まれる情報に一喜一憂する程度であり、これが肉体に変化をもたらすなどとは考え難かった。
「死駆罰孔は現実と空想の狭間に存在するもの、半精神的物質的存在とでも呼称すべき連中だニャン。つまり、物質的な破壊は奴らに何ら影響を及ぼさず、魔法以外で奴らを破壊する方法は無いニャ」
「ん……つまり、特定の属性じゃなきゃ倒せない耐性持ちのボスってことだな?」
「ゲーム脳は話が早くて助かるニャ。大体そんな感じで、精神と物質両面に働きかけることの出来る魔法を使って対処するのが一番ニャわけ。で、それを可能にするのが……」
「このアプリってことか。……本当に?」
「疑り深いヤツだニャー、そんなに言うなら試してみればいいニャン、アプリをタップするだけだからホレ、ホーレ」
「ええ、おいちょっと、脛を擦るなよくすぐったい!」
体を脛に擦りつけるように動く猫に辟易しながら、ヒジリは端末に目を落とす。そしてM.T.Sへと指を伸ばし、彼はアプリを素早くタップした。
「押したぞ!」
「ニャア!」
「……何も起きないぞ!」
「アオーン?」
首を傾げながらヒジリと猫は顔を見合せた。ヒジリはしゃがむと、猫に端末の画面が見えるように手を地面へと近づけた。そして猫と共に画面を覗き込むものの、彼らの望んだ変化は一向にやってこなかった。沈黙が空間を満たし、数瞬の後に、猫が不思議そうな表情で口を開いた。
「オミャー、ちょっと聞いていいかニャ、真面目なハナシ」
「えっ、あ、ああ」
「一つ。お前、自分の死因を覚えているか」
「……ああ、まあ、朧気だけど。多分、車に轢かれたんだろ?酔って車道に飛び出して……迷惑な話だよな」
「フム、では次。お前────」
「死に際に何を考えたか、覚えているか?」