プロローグ//宵闇
何をやっても上手くいかない、そんな諦念に支配されている22歳の夏に、安久津ヒジリは夜の町をそぞろ歩いていた。
「ららら……らら…………ら、ら」
ヒットチャート上位の曲を、歌詞も分からずハミングしながら、車の影一つない車道をフラフラと歩く男が一人。就職先が決まらず、奇妙な後ろめたさもあって学生時代の仲間とも疎遠になったヒジリは、一人で行動することに慣れきってしまっていた。メッセージアプリの連絡先が一つ一つ消えていく度に感じていた肝が冷えるような感覚も今は昔、ヒジリは短期のアルバイトで稼いだ泡銭を、今日も一人で酒とツマミに費やしていた。ハイボール、焼き鳥、ハイボール、お好み焼き、モスコミュール、焼き魚、ビール……。
「幸せだぁーっ」
ヘラヘラと笑いながら見上げた空に、蒼白い月が浮かんでいる。あれの色を確か、月白というのだったかと、ふと思い出しながらーーーーヒジリは笑みの裏にある空虚な感情を圧し殺し、また歌う。それは学生時代に良く聴き込んだ曲であり、通学途中の電車で遠景の町並みを眺めながら声に出さず口ずさんでいた、彼にとってのマスターピースでもあった。
そうして、点滅し続ける信号の下をステップを踏むように歌い進む。人が見れば鼻白むような有り様は、ヒジリにとって軽々しくまた苦しい日々における唯一の喜びである。この、何も考えないでいられる僅かな時間だけが、安久津ヒジリという人格を社会の圧力から救ってくれるのだと彼は考えている。この虚ろな独唱が、右にならえのレールから弾き出された不良品を慰める唯一の手段であると、ヒジリは愚かにも信じ込んでいたのであった。
無論のこと、それはただの逃避であり、限りある時間と若さを浪費するだけの行為だ。ヒジリにとって本当に必要な救いは、苦痛を乗り越えた先の安定と自尊心の回復である。他者と同じ社会的信用を得て、ひとまずの不安を解消し明日をも知れぬ暮らしを捨てることだけが、ヒジリを正道に戻す為の薬であった。酒とは所詮偽薬、酔いと共にしかあれない儚い神であり、縋るにはあまりに軽く脆い。
けれども、傷つきやすい若い男の信仰は、目下のところインスタントな救済をもたらす神へと捧げられていた。
「仕事がなんだーっ、社会がどうしたーっ」
普段ならば遠間に電車の音が聞こえる通りは無音であった。夜はしばし天鵞絨に例えられるが、その柔らかな闇が音を消し去ってしまったかのように静かである。
ヒジリは急に息苦しさを感じた。あまりにも静かな世界の中で、自分という者の矮小さを強く意識させられたのだ。酒精によって引き出された感情が、彼が普段から必死に覆い隠そうとしている恐怖や虚無感を増大させていた。夜の暗闇はときに、センチメンタルを刺激する。静寂は耳鳴りに変わり、平衡感覚が徐々に怪しくなってきていた。
「ら……らら、ら」
喉が狭まる、歌声が掠れる、不安が真綿のように首を絞める。悪酔いで縺れた足が絡み、ヒジリは堪らず道路の真ん中へと倒れ込んだ。
「あ────」
小さな声に呼応するように、光が彼を照らした。眩く、強烈な光が二つ。逆光に呑まれるように視界を失いながら、ヒジリは笑った。夜からの解放は、まるで痛みのない、優しい終わりであった。