32 脱出劇の終わりに
タケルはカノンに突進し、錬金術を発動させようとした。が、気がつけばタケルはカノンとある程度距離を取っており。
とんでもない違和感があった。何か得体の知れない力が働いたかのような。手品の類ではない。イデア能力か、あるいは――
「――正確なデータを得るために、何度も何度も時間を巻き戻した。さて、おかえり。タケル」
カノンはタケルに微笑んだ。
優しい表情ではあるが、院長カノンの奥底には得体の知れないものが秘められているだろう。
「君は……これで解ったんじゃないか? 君に起きたこと、世界に起きたこと、私のしたこと。そうだね」
カノンは続けた。
瞬間、タケルは矛盾する記憶の正体を真に理解した。
矛盾する記憶はすべて、この後の記憶。この後経験する記憶はひとつではなく、繰り返すことで矛盾する複数の記憶が残る。すべてカノンによるものだ。
この後タケルは2人になる。タケルは自身の片割れと戦い、共に死ぬ。
それ以外の記憶では大陸の大総統に挑み、カノンに挑み、とある組織と接触し。
また別の記憶では、No.11としてカノンの配下となった。
これらはすべて、これから存在する記憶――
「そうか……僕の記憶はすべて本物。こいつに何度も時間を巻き戻されてここにいる……霊安室で目を覚まして……いや、多分あれも」
「理解してくれたようだね。さて、命の恩人についてきてくれるかな? きっと君は私の断片に適合する」
カノンはそう言って手を差し伸べる。だが。
「一度殺しておいて何が命の恩人だ! 理想だか好奇心だか知らないが、人の命を弄んで!」
タケルはカノンの誘いを突っぱね、カノンに対してナノースを使う。どうせ彼も錬金術。どころか、記憶によるとナノース『Period』を持っている。それに対して使えば――
「さて、おかえり。タケル」
時は巻き戻される。
やはりタケルの目の前には穏やかな表情のカノンがいた。
「そういうことか。時を巻き戻すというのは……」
タケルはつぶやいた。
そのタケルは、さらにカノンの力を理解した。
カノンは表情を崩さない。表情を崩すことなく再び口を開く。
「ああ、錬金術師は理解が早くて助かる。君の想像する通りだ。ちなみに、これが最後のチャンスだ。私に協力し、私とともにこの世界をあるべき姿に近づけないか?」
「あるべき姿……」
タケルはカノンに聞き返す。
院長カノンは相対するだけで相当な思考を繰り返し、ナノースを経験することで相当な回数の観測を行ってきたことを物語る。だからタケルは興味を持ってしまった。
あるべき姿とは――?
「この世界にある問題が解決……いや、極力抑え込まれた世界だ。世界の平均値ともいう。世の中の問題は複雑に絡み合っていてね、すべてを同時に解決することはできない。だが、妥協を重ねたうえでましな結果となる世界はあった。そんな世界を、私は666回観測した。だから私はその世界に向け、すべてを収束させる。君は……」
「断る」
タケルはカノンの言葉を遮るようにして答えた。その言葉を受け、カノンの表情が変わる。同時にタケルもカノンに肉薄。ナノースを発動して先手を取ろうとした。
「やれやれ、君は何度繰り返しても同じだね。化学実験のようだ」
その声とともに、カノンはタケルの死角へと移動する。
瞬間、タケルは時間の感覚を失った。空間も均一で何も変わらない。すべてが無であるという感覚に陥った。
時間は変化だ。変化を奪われればその感覚はいとも簡単に失われる。
「――未熟だ。見込みはあるようだが」
タケルはその声を聞き、目を見開いた。
彼の感じていた時間が動き出す。否、タケルは時間の感覚を取り戻した。
痛み、上下に開店する景色。タケルは今、空中に投げ出されたことを知覚する。空中から見えるのは、カノン。彼の手にはいつの間にか鋭いナイフが握られていた。
タケルは知覚しただけではなかった。カノンのナノースの範囲も、その一部も理解した。当然、格上であるカノンに対して取るべき選択肢も理解した。
「残念だ、タケル。私はこうして君の本名ではなく愛称で呼んでいるというのに。君の才能を買ったというのに。拾った命を活用できないのは、非常にもったいない」
ナイフを片手に握りしめるカノン。だが、彼はナイフを振るわない。かわりに彼の両目が赤く光る。
タケルはその瞬間、カノンのしようとしていることを理解した。もしカノンのナノースが発動すれば、タケルはどこかで殺される。おそらく、過去――それも霊安室で生き返ったときかそれ以前に。完全に息の根を止められる。
タケルもカノンに応戦するようにナノースを発動させた。
それはまるで異物に対する体内の免疫のよう。タケルに到達しようとしたカノンのナノース『Period』に作用し、無効化する。だけではなく、ナノースを糸のようにたどり、カノンへ。そうして、術式に進入する。
空間が、時間が、精神がガラスのように割れる。
カノンは目から光が消え、地面に膝をついた。転生病棟の院長は虚ろな目で虚空を見つめ、タケルに対して何もできず。先ほどまでの様子が嘘のようだった。
タケルはカノンの様子を見てすぐに踵を返し、エステルたちが向かった方へ。地下水道へと向かった。この場でカノンを完全に倒す必要などなかった。目的はあくまでも病棟からの脱出なのだから――
転生病棟4階。
幹部の研究室の窓からその様子を見ていたのはサングラスをかけ、白衣を着たピンク髪の胡散臭い男だった。彼の名は木暁東。アイン・ソフ・オウルの一員である。
彼は地上でカノンがタケルをはじめとした6人の反逆者に逃げられる一部始終を見ており、その表情には感情が一切現れていなかった。だが、木は地上を見てこう言った。
「まさか院長本人がやらかすとはね……いや、院長が私たちを利用しようとしていることはわかりきっているさ」
木の言葉はすべてを知っているかのようでもあった。が、彼がどこまで知っているのか。それを知る者はどこにもいないだろう――
【登場人物紹介】
木暁東
アイン・ソフ・オウルの一員。どこか胡散臭い人物。マンカインドΩの研究を担当している。




