31 あるべき世界
転生病棟には中庭がある。中庭には花壇があり、その一角には慰霊碑があった。
『人類を救うための尊い犠牲となった被験者』
慰霊碑にはそれだけがかかれていた。作られた目的は犠牲となった被験者を弔うためか、あるいは病院の職員の罪悪感をごまかすためか。中庭に出たタケルたちは目的を知らなかった。
今、タケルたちは蘭丸やハリスとの戦いを終えて病棟を脱出した。マリウスは未だ意識を失っているが、もう戦うことはないだろう。
「ここから少し進んだところに病棟とは無関係な地下水道があるんだ。そこから敷地を抜けよう。きっと安全なところにつながっているはずだ」
グリフィンは言った。
タケルたちは頷き、グリフィンの案内に従って走る。中庭を抜け、転生病棟の敷地の端へ。グリフィンを先頭にしてエステル、ミッシェルと続き、最後尾はタケル。マリウスとロゼは抱きかかえられている。
そうして地下水道へと向かっていたときだった。
タケルの前に降ってきた者がひとり。その人物は白衣を纏い、オパールのように輝く銀髪をなびかせ、独特の眼でタケルを睨んでいた。独特の眼――その人物の眼は、白目が黒くかったのだ。
彼は院長。タケルの矛盾する記憶の中、それだけは確かだった。
院長カノンはタケルを見るなりこう言った。
「また会ったな、タケル」
カノンの口調はこれまでの幹部とは違って穏やかだった。が、タケルは身構える。彼の記憶はカノンが危険だと警告しているのだ。だからタケルは言った。
「先に行ってくれ! 大丈夫、追いつくから!」
声が病棟の建物に反響して響く。
「……駄目だ。置いてはいけない」
先行するエステルは足を止めた。だが、グリフィンは振り向いて言う。
「君はタケルを疑うのかい? 彼なら大丈夫だ。なぜなら僕が期待している、いや、僕が大丈夫だって判断した人物だから。それに僕たちがいる方が危険なんだ」
その口調は諭すようだった。ミッシェルとエステルは反論しようとしたが、残れば確かに危険なのだ。もう病棟に用はないのだ。
「クソ……まあ、幹部3人殺ったのもアイツだからな。でも、合流できなきゃ戻るからな」
と、ミッシェル。
「はいはい。行くよ」
グリフィンはそう言い、タケル以外の一行は再び進み始める。
場所は中庭の辺縁に戻る。タケルの前のカノンはタケルに襲い掛かる様子は見せず、だが逃がすつもりも毛頭なかった。
「さて、タケル。もしくはナロンチャイ・ジャイデッド。君はどの記憶が正しいか分からなくなったことはないか?」
カノンはタケルに尋ねた。
記憶、正しさ。それはタケルの矛盾した記憶に対してのものだろう。
タケルの持つ記憶はどれも断片的で、同じ時系列で存在しえず。タケル自身も夢を見ているような記憶だった。
「ああ……わかるわけがない。あの霊安室で目を覚ますまでにしていたことなんて。どれも僕の記憶のようで僕の記憶じゃない……」
タケルは言った。
「それは私の予想通りのようだ。君が生き返ったことも、記憶がいくつもあることも。すべて私の想定したこと」
カノンはにやりと笑う。
考えが読めない。が、彼が絶対的な強者であることに違いはない。タケルはカノンの圧に押され、抵抗することもできない。
「さて、フィトに蘭丸、ハリスを殺す実力があるんだ。君を再教育して新たな幹部にしたいのだがね」
と、カノンは続ける。
再教育についてはこれまで病棟にいた者たちが何度も言及していた。が、タケルの記憶はとりかえしのつかないことだと判断している。それが本当かどうか、タケルの知ったところではないのだが。
「新しい幹部にして、どうするんだ。病棟を荒らして、脱出して。そんな僕を生かす価値なんてあるのか? もしあるとしたら、なぜ……」
「失礼、これも実験だ。私は錬金術師で科学者。世界に対して実験を行う科学者なのだよ」
と言うと、カノンはタケルの前で歩き始めた。
これは逃げるチャンスなのかもしれないが、カノンの威圧感はしっかりとタケルをこの場所に縛り付けている。たとえ逃げられたとして、この異様な圧を放つ男から逃げられるとタケルは考えていなかった。さらに、今戦いを初めて隙をつくことも。
「君も錬金術学生ならわかるはずだ。実験を行ううえで大切なものはサンプル数だ。サンプル数が増えると結果の揺らぎが減り、真の値に近づくものだ。つまり、観測された値は収束する。真の値に向かってね。世界も同じだ。世界も繰り返すことで、本当の姿を観測できてくる」
「どういうことだ」
歩きながら語るカノンに対し、タケルは言った。
「簡単なことだ。正確なデータを得るために、何度も何度も時間を巻き戻した。あるべき世界の本当の姿を模索するためにね」
カノンは答えた。
「わからない。世界はありのままの世界じゃないのか?」
「君は並行世界について知っているかな? この世界からゲートを通れば行くことのできる世界。その世界も含め、観測と実験を繰り返せばおのずとわかってくるはずなのさ。あるべき世界の姿。だから私は『Ω計画』を始めたのさ。あるべき世界のために」
そうして穏やかな声で語るカノンは邪悪だった。
タケルの記憶の一つが強烈に伝えてくるのだ。カノン・ジョスパンのはからいにより『Ω計画』が始動し、そのために何人もが犠牲となった。
倒さなくてはならない。
カノンが生きていれば犠牲者は増え続ける。
あるべき世界への好奇心ゆえに世界をも犠牲にし得るカノンを、今ここで。
威圧されていたタケルの中に勇気が湧き上がる。
やるなら、今だ。
タケルはナノースを使える状態にして、カノンとの距離を詰めた。
「ほう、そう来るか」




