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髪々の試練  作者: 馬々通
4/6

怒髪衝天

 おれはいつになく強い口調で彼女に会いたいと連絡した。彼女からは絵文字のない短い日本語で、「来週の土曜日、例の時間例の場所」と暗号のような返事が来た。

 残暑が厳しいある日、台風が嫌がらせのように日本列島をなぞり、首都に直撃した。台風どころかゴジラが来ても仕事を続けなければならない哀れな会社員たちは、各種交通機関を乗り継いでどうにか職場にたどり着いた。傘など物の役にも立たないので、みんな体がずぶ濡れになっている。若い女性社員のヒップの形が露わになっているのを見て喜ぶおれは、自分が本当に中年のおっさんになってしまったのだと痛感した。

 おれが事務所に入ると、雨のせいで鬱々としていた連中の顔がパッと輝き、社内が目に見えて明るくなった。後輩のくせに生意気な徳川は「先輩どうしたんですか、落ち武者みたいですよ」と言った。すると気の利く女性社員が手鏡を渡してくれた。なるほど、中央に集めるため長く伸ばした髪の毛が横に垂れ下がり、阿佐田哲也のような髪型になっている。指の毛から水がポタポタと滴り、水木しげるの漫画に出てくる妖怪のようだ。だが部長がやってくるとみんなは無理に笑うのを止めた。強風のせいでカツラがずれ、極めて不自然なヘアスタイルになっているからだ。今日の部長はいつもより緊張していた。台風だというのに重要な取引先の責任者をわが社に招き、会議を開くことになっていたからだ。

 昼ごろになると電車と地下鉄が通常ダイヤで運行するようになり、首都は非日常を終え再び秩序を取り戻した。その責任者は約束通り午後二時に来社した。部長と同世代で、身長が高く腰がしゃんとし堂々としている。顔の彫りが深く端正で映画俳優のようなオーラがある。仕事ではかなりのやり手らしく、初めて来たはずなのに慣れた様子で社内を歩き回り、自信満々だ。部長は彼に付き添いわが社の事業を説明しているが、男は適当にうなづきながら連れてきた若く美人の女性社員とイチャつき、冗談を言っている。どうも愛人のようだ。

 会議には部長、実務担当のおれと瀬名、それから議事録を作る徳川が出席した。

「改めて自己紹介をします、わたくし、桂啓吾と申します。桂は名前だけで、髪は地毛ですが」彼は厳しい交渉前のつかみのネタを披露し、フサフサしている黒髪を引っ張り微笑んだ。おれたちが笑わず気まずくどんよりしているので、彼も顔をこわばらせ困っている。彼と同行した吉田という美女が「桂さんは冗談が好きなんです、あまりお気になさらずに」とごまかした。

 桂が予想したように話し合いは難航した。それも無理はない、彼がわざわざ部長を刺激するようなことを言うからだ。「わたくし桂が約束します」と言った舌の根も乾かぬうちに「わたくし桂だけの権限では決めかねます」と言って翻弄し、揺さぶりをかける。さっきまで愛想が良かったのに会議になったら急に仏頂面になった部長が譲歩にまったく応じず、むしろさらに厳しい条件を突きつけると、桂は「そんな尻の毛まで抜かれるようなご提案を受け入れれば、わたくしも本当にカツラを注文しなければなりませんなぁ」とやや汚い冗談で上手くかわそうとした。部長もおれたちも沈黙し、吉田が恥ずかしそうに顔を赤らめる。困り果てた桂は「わたくし桂のどこが悪いのですか?」と聞いた。

「カツラが悪いなんて誰も言ってないでしょう!?」部長が激昂し、両手でテーブルをバンと叩いた。その衝撃で彼の髪の大半が山崩れのようにズレた。桂と吉田はついに事情を飲み込み、こらえきれず失笑した。

「失礼な、会議中ですぞ!」ズレていることにまだ気づいていない部長が問い詰めた。

 彼が哀れになったのか、桂はなんと部長の無理な要求をすべて飲み、契約書にサインし帰っていった。交渉の結果を待っていた社長は「あの桂から満額回答を得るとは、いったいどんなふうに説得したのかね?」と首を傾げた。

「桂のことを全面的に肯定したんですよ」おれがボソリとつぶやいた。

 さて、土曜日になった。おれは十時前に寂れた水族館にやってきた。ゆっくり静かに真剣に話をするにはここしかないだろう。まさか崖っぷちに立ちエスペラント語で愛を叫ぶわけにもいくまい。少し待つと詩乃がやってきた。久しぶりに会うと彼女が以前より余計に魅力的に見えた。ところが彼女は再会の喜びを素直に表現したがらず、おれの手ばかりをちら見した。

 おれたちは入場券を購入し館内に入り、他の魚に目を向けることなく、サンショウウオのもとを目指した。やつは小さな岩の下にできた影に潜み、おれたちが来てもピクリともしなかった。詩乃はいつものように、この古臭くグロテスクだが愛嬌たっぷりの生物に見入り、しばし時間を忘れた。おれは気が気でなく、ついに意を決し、「指先の毛のいったい何がきみの癪にさわったんだ?」と聞いた。彼女はサンショウウオからおれに目を移し、それからためらうようにしばし沈黙し、大きくため息をついてから「じゃあ言うね」とつぶやいた。

「あのさ、私その、アレする前にさ、ちょっと時間がかかるタイプなの」

「はぁ……」

「それでその、指かなんかでゆっくり丁寧に触ってもらわないとなんだけど、私その毛が生えた虫とか動物とか大嫌いで。あなたのそのゲジゲジ虫みたいな指で触られると思うとぞっとして」

 婉曲的に話しているが、要するに前戯の時におれのこの指で触られたくないようだ。

「だったら剃ればいいじゃん」

「そんな剛毛なんだから、お父さんのあごひげみたいにジョリジョリするでしょう?」

「わかったよ、じゃあ舐めてあげるよ」

「え、いいの?」

「もちろん」

 彼女はまた水槽に目を戻した。両生類はもう岩の下から姿を消していた。彼女は肩を震わせシクシクと泣き出し、「あなたって本当にいい人ね」と言った。

 おれたちはサンショウウオなどほっといて水族館を出た。彼女の家はおれの家と職場の間にあった。思えば彼女の家に行くのは初めてだ。最寄り駅を出てしばらく歩くと、都会の駅周辺によくある画一的な住宅街に入った。休日の午後の早い時間帯で、通行人は驚くほど少ない。彼女は新しく高級なマンションに暮らしていた。ホテルのようなロビーを通過しエレベーターで最上階に上がり、カードキーでドアを開くと、玄関には緑色の生物がちょこんと座っていた。

「ずんだ餅っていうの、よろしくね」と彼女が紹介した。

 それはグリーンイグアナという爬虫類だった。なるほどずんだ餅のようにゴワゴワした緑色だ。背びれがきれいに並び恐竜みたいだが、意外なほどやさしい目をしている。トイレを教えれば放し飼いもできるそうで、静かに部屋のどっかで佇んでいる。こいつに見守られながら飼い主とセックスするのもためらわれる。彼女はまず、おれにシャワーを浴びるよう指示した。おれが体を隅々まで丹念に洗って出てくると、彼女が真っ白のバスタオルを渡してくれた。ところが彼女はというと風呂に入る様子はなく、のんきにテレビ番組を見始めた。休日の午後にはありがちな海外の旅番組で、撮影スタッフがアルプス山脈の麓で暮らす地元の人々を訪ね、彼らの暮らしぶりやちょっとしたエピソードに迫る内容だ。詩乃はベッドボードに寄りかかりながら「行ってみたいなよその国」と口ずさむ。イグアナはどこに消えたのか。おれは恐る恐るベッドに上がり、彼女の隣に並び、肩に手を回す。そこから先に進むことはなく、番組が終わるまでその姿勢を続けた。太陽が徐々に西に沈み、ベランダに干してあるシーツを黄金色に染めた。彼女は思い出したように「もう乾いたかしら」と言うと、シーツを中に取り込んだ。なるほどそれが乾くのを待っていたのか。

 二人で協力してシーツを取り替えると、待ってましたとばかりにずんだ餅が姿を現し、ベッドの上にちょこんと陣取った。京都の庭園に置かれた苔むした岩のような趣がある。おれが服を脱ごうとすると、彼女から「あなたはまだいいの」と遮られた。彼女自身は初めて体を交えることになるおれの存在など気にせず、大胆に服と下着を脱いだ。小顔で痩せているくせに意外とボリュームがある。さすが毛の生えた動物が嫌いと豪語するだけはあり、体毛はほとんど確認できない。彼女はベッドサイドテーブルから用意しておいた電動の玩具を取り出し、にこにこしながらつぶさに調べた。それがあるならおれが前戯を手伝う必要もなかろうと不審がると、彼女は「はい、準備オッケー」と当たり前のように言った。まだ服を着たままのおれは、ベッドの下に立ったまま彼女とキスをしようとした。詩乃は驚き「えっ!?」と声を漏らし、それから「違う、違う」とはっきり否定した。

「舐めるのは私じゃなくて、彼女、ずんだ餅のこと」

 おれは詩乃が変人であることを忘れ、とんでもない勘違いをしていた。彼女は人間がメスの爬虫類とまぐわうのを見て喜ぶ性癖を持っていたのだ。彼女は自分をその毛のない爬虫類と同化させ、自分よりもはるかに大きい霊長類に体をもてあそばれるのを想像し、一風変わった快楽に浸る。おれは彼女に「さぁ」と促され、恐る恐るイグアナの背びれに舌をのせる。変温動物のやつの体は冷蔵庫に入れておいたずんだ餅のようにひやりとしている。だが餡や餅のように滑らかな舌触りはなく、老婆の乾いた……のようにカピカピしている。どこか遠くから詩乃のあえぎ声がおれの耳に迫ってくる。そう、いい感じとおれを励ます。玩具の電源が入り、耳障りな振動音が鳴り響く。それはやがて世界の狭間に没し、くぐもった音になる。背中からしっぽの先まで舐め終えると、おれはもういいだろうと思い彼女の様子を伺う。おれと目があうと、彼女はうつろな目に正気を宿し、厳しい顔を作りこう言った。

「さぁ、今度は裏側をなめて」

 玩具の振動音がよけいに激しくなり、ついにポンと勢いよくロケットのように飛び出した。彼女は気を失い、イグアナはきょとんとしている。寝ている彼女を犯すわけにもいかないので、おれは布団をかけてやりスマホをいじりしばし待機する。十数分もすると彼女が気持ちよさそうに目を覚ました。てきぱきと下着をつけ、服を着て、かしこまっておれの前に立つ。

「今日はその、ありがとう。こんなにずんだ餅にやさしくしてくれた人はあなたが初めて」

「あの、おれのこれはどうしましょうか?」とおれは言い、股間の膨らみを指さした。

「ほんとだね、どうしようねそれ」彼女はケロッとした顔で、他人事のように淡々と言った。

 おれたちは夫婦のように買い出しに行き、たくさんの食材と酒、それからずんだ餅が食べる野菜を両手にぶら下げて戻ってきた。おれはイグアナが食べやすいと思われる大きさのサラダをこしらえ、台所のあいつ用のトイレの隣に置いた。おれたちの晩飯はスーパーの惣菜なのでもっと時短だ。酒はちょっと高級なワインにした。彼女は一人だけ上機嫌で、ワインを水みたいにがぶがぶ飲んだ。おれには酒が少し渋く感じられる。彼女はおれがいるのに文庫本を読む。最近は古い翻訳小説にハマっていて、退屈な時間には本ばかり読んでいるという。そのせいか、話しぶりがどうも翻訳調で古臭く、オネエ言葉のようになっている。

「じゃあエスペラント語はもうやめたのか?」

「うっちゃっといてよ!」

「本当はおれとやるつもりないんだろ」

「そんなことないわ、私の神様! 百姓女のすることにいちいち腹を立てたりしないでちょうだい」

 おれは急いで彼女が読んでいる本をひったくり、「影響されやすいきみのことだ、ドストエフスキーばっか読んでいると熱病になって、十ページぐらい独白を続けるようになるぞ」と言った。

 夜は前戯抜きで普通にやらせてくれた。ただ魚河岸で競りにかけられるマグロみたいに死んだ目をし、仰向けになったままぴくりともしなかった。ちっとも湿らず、一枚岩のようになっていて、挿入は物理的に不可能だ。おれは仕方なくまたずんだ餅の全身をしゃぶり尽くした。それは「開けゴマ」というまじないのような効果を発揮した。彼女は目をつぶりおれの顔を見ず、でたらめな想像の世界に入った。おれはダッチワイフを抱いているように味気なく、思ったよりもさっさと事を終えてしまった。

 同じベッドに肩を並べて一緒に寝ながら、彼女がふと提案した。

「頭のてっぺんの部分だけ剃ってみたら?」

「おれをスペインから来た宣教師みたいにして楽しいか?」

「そうじゃなくって、剃れば濃くなるわけだから、髪の毛にいいかと思って」

 なるほど濃くしたいところだけを頻繁に剃れば育毛効果は抜群かもしれない。河童頭は一時の恥だが、ハゲは一生の恥だ。

「でもそんなおれと一緒じゃ恥ずかしいだろ?」

「人の目なんか気にしないし」

 ということなので、おれは河童ヘアーにするため近所の床屋に行った。安いのに顔そりまでやってくれる店で、その日も退勤後の時間なのにけっこう混んでいた。おれは番号札と『ゴルゴ13』を取って安っぽいソファーに座り自分の番を待つ。理容師はいつもの三人で、主に店長と男が散髪を、女がシャンプーや顔剃りを担当する。おれはいつもこの女の存在が気になってならない。年はおれと同じぐらいに見えるがおそらく少し上で、服を着ていても骨が浮かぶほどやせ細っている。色白で、短く切った髪をグレーに染めている。小顔で切れ長の目の下に小鼻がちょこんと乗り、薄く引き締まった唇が顔全体に厳しい印象を与えるが、店を出る時には遠慮がちに愛嬌のある笑みを浮かべ「ありがとうございました」と言ってくれる。決して美人ではないが、詩乃とは違うクールな雰囲気があるので、おれは心の中で勝手に「女殺し屋」とあだ名をつけていた。腰にずらりとぶら下がっているハサミなどが暗殺の道具にしか見えない。おれはいつも彼女に顔を剃られながら、そのカミソリで首を掻き切られるのではないかと恐怖し、甘く切望した。

 巧みな技術でおれのハゲを極力目立たなくしてくれる店長は、おれがいきなりブチ切れする質の悪いハゲでないことを知っているので、愛想よく「今日も自然な感じにしておきますね」と言った。おれは彼の好意を無にし、「今日はその、剃ってください」と言った。

「顔剃りですか?」顔剃り必須の店なので、店長が戸惑った。

「いえ、頭を剃ってください」

「料金がプラスしてしまいますが、よろしいですか?」

 おれがこくりとうなずくと、店長がバリカンを取り出した。これでおれの残り少なくなった髪を短くしてから、カミソリできれいに剃り込むようだ。脇の髪を刈られそうになったので、「いや、そこは刈らないで整えるだけにしておいてください」と言った。店長は困惑の表情を浮かべたが、いちいち余計なことを聞かずおれの言う通りにした。刈り終えると、店長はおれの頭にあったかいタオルを乗せ、「しばらくお待ち下さい」と言い別の客の散髪に行った。しばらくすると顔剃りを終えた女殺し屋がやってきて、「頭頂部のみのスキンヘッドですね?」と短く簡潔におれの意図をまとめてくれた。おれは正面の鏡に映る彼女の顔を見ながら「そうです」と答えた。

 女はおれの頭に泡を塗り、無数の毛を剃り手に馴染んだカミソリを使い、ジョリ、ジョリと剃り始めた。カミソリは温かく、彼女の手のぬくもりがおれの頭皮にじわりと染み込む。女は殺し屋などではなく、実に丁寧に剃った。彼女の指がおれのツルツルの頭にそっと触れ、むず痒くきまり悪いが快い。頭を剃られるのがこれほど気持ちいいとは思わなかった。鏡を見ると頭が蛍光灯の光を反射しまばゆい光を放っている。

「こんな感じで大丈夫ですか?」

「え、あはい。それからちょっと面倒かもしれませんが、指の毛も剃ってもらいたいんですが」

 彼女はおれの指先から伸びる気持ち悪い毛を見ても嫌な顔をせず、驚いた素振りも見せず、いつものようにクールにカミソリを手にし、手際よくあっという間に剃り落とした。彼女に「ありがとうございました」と見送られると、身も心も軽くなった。

 こうしておれは往年のアルシンドも顔負けの見事な河童頭になった。吹っ切れて気持ちが良くなった。これならばスキンヘッドのような開き直りや諦めはなく、ファッションや信条であえてこうしているという説得力や風格がある。果たして、街を闊歩するおれの頭は注目の的になった。感情表現が一番豊かだったのは子供たちだ。幼稚園児は親の制止を振り切りおれの頭を指差し、なんかのゲームかアニメに出てくる化物の名前を口にする。男子高生は「ああはなりたくねえよな」と失笑し、女子高生は「ヘンタイ」「キモい」と大げさに嫌がることで、自分たちがまともであり正しいことを証明しようとする。電車に乗ると周りから人が遠ざかり自ずと道ができる。ちょっと偉くなった気分だ。

 月曜に出社すると、おれの頭は社内の一大ニュースになった。徳川は「先輩、ついに思い切りましたね」と、おれがローンを組んでマイホームを購入したように言った。瀬名は遠慮がちに「触っていい?」と聞き、許可を得ると汚いものに触れるように指でちょんちょん突っつき、「うわぁ、こんなふうになってるんだ」と動物の体の変わった仕組みを確認するように言った。頭皮の油がついたのか、しきりに備品のデスクに指をこすりつける。同期の男たちはおれを取り囲み、娘が初潮を迎えた父親のように「今夜は赤飯でお祝いしよう」と喜んだ。部長はおれのヘアスタイルが彼のヅラへの注意をそらしてくれるのが嬉しく、優越感をむき出しにして「若人よ、がんばりたまえ」と言った。

 おれはこんな恥ずかしい髪型にすることで、必ず髪を生やすのだと自分にプレッシャーをかけた。昼休みになると、おれはコンビニのイートインスペースでさっさと食事を済ませ、会社の近くにあるドラッグストアに向かった。今の時間ならば薬剤師がいるから高級な育毛剤も購入できる。店内に入ると、育毛剤の空箱が並べられている棚としばらくにらめっこをした。あの欠陥品、「一毛不抜」が目立つ位置に陳列されている。おれは心の中で、なにが一毛不抜だバカにしやがって、抜けねえのは頭じゃなくて指先の毛だけじゃねえかと毒づき、隣の商品に目を移した。「怒髪衝天」というなんか勢いがあって凄そうな名前に心を鷲づかみにされ衝動買いした。同じく四字熟語で、メーカーも同じであることにはまったく気づかなかった。

 おれはゴム手袋を外し、新しい薬を頭にかけようとした。今度のはスプレー型で、力加減が分からず思い切りシュッとすると、おでこまで滴ってきた。それがもったいないので急いで指でかき集め頭頂部に持っていきマッサージする。前に使っていた薬よりもスースーし、漢方薬みたいなきつい匂いがする。短く剃った指毛が頭皮をジョリジョリ刺激し、血行を促進し気持ちいい。学校の新しいノートの最初の数ページだけ丁寧に字を書くのと同じく、新しい高級な薬に替えるとじっくり時間をかけてマッサージをする気が出てきた。詩乃のために、そして何よりも自己向上のために髪を生やそうという決意を新たにした。

 もちろん育毛だけでなく、トレーニングにも励んだ。おれは相変わらず駅前のスポーツジムに通っていた。受付のネエちゃんはころころ変わり、今は会員にタメ口をきくダンスの講師が受付を兼ねている。彼女はおれの髪型を見ると笑うのではなく、一種のアートかなんかと勘違いし、海外の有名ダンサーの名前を挙げてしきりにほめた。そのせいでおれの後ろに長い列ができ、咳払いや舌打ちが聞こえてきた。振り向くと後ろの方に関口という男がいた。

 おれと彼との仲は微妙だった。おれたちは歳が近いが決して馴れ合わなかった。おれは自分より年配の会員と仲良くし、彼は同年代や年下の若い会員に先輩面をしていた。おれは細マッチョで威圧感がなく、やつはゴリマッチョで高圧的だ。年齢以外におれたちにはもう一つの気まずい共通点がある。おれはハゲで、やつはスキンヘッドだ。おれは苦手なタイプのやつを意識的に避け、やつもおれがただ者ではないことを知っているので距離を置いていた。そんな微妙なバランスを打破したのは、おれの新しい髪型だった。大胆に頭頂部だけを剃ったことで、おれは自分が単純にスキンヘッドにするような没個性的な人間ではなく、関口よりも優れていると証明しているようだった。

 効率よくさっさと練習を始めたいのだが、やはり親しい会員からちやほやされ、準備運動しながらしばらく無駄話をすることになった。おれの周りに人が集まり、自分のグループの人間からも疎んじられた関口は隅の方で黙々と筋トレをする。だが賑やかな笑い声とまぶしい笑顔が目障りだったのか、やつはおれたちの方に近づき、入会したばかりの若者二人を自分の方に引っ張っていった。

「あんな髪型をして目立とうとする人間と一緒に堕落することはない、さっさと練習するぞ」

 珍しくイラッとしたので、おれも言い返すことにした。

「諦めてスキンヘッドにした人間の言うセリフじゃねえな」

 おれたちは部屋の中央に立ち睨み合っていた。年配の会員がおれたちを引き分けようとしたが、おれは「先に無礼なことを言ってきたのはあっちです、あっちが頭を下げない限りこっちも引けません」と言った。そしてハゲどうしのみっともない口喧嘩が始まった。

「だいたいそんな髪型は邪道だ。未練たらしくて女々しくて見ているとヘドが出るぜ」と関口が言った。

「堕落とかほざいたが、育毛を諦めて楽な方に逃げているくせに開き直って王道気取りか」

「そうだ。潔くさっぱりし、スポーツマンらしく爽やかでさえある。一流のアスリートを見たまえ、ハゲればみな頭を丸めている。サッカーのイニエスタ、野球の緑川稀哲、プロレスラーの武藤敬司、それから格ゲーではストⅡのサガット、みんなスキンヘッドだ」

「サッカーのアルシンド、野球の佐野慈紀、プロレスラーのハルク・ホーガン、ミンサガの聖騎士ガラハド、みんな河童頭だ」とおれは反論した。

「あっても無駄な毛を残すよりも機能的かつスタイリッシュだ。それが人に清潔な印象を与える。飾り気がなく、信頼に値する」

「無駄なものか。こめかみを寒風から守ることで体温を一定に保ち運動効果を高める。頭頂部から吹き出る汗をせき止める。あんたいつも自走式トレッドミルで気持ちよさそうに汗を流してるけど、頭から周りに飛び散っててみんな迷惑してるの知らんだろう」

「えっ、そうなのか?」関口が困惑し周りに目を向ける。彼の取り巻きは苦笑いし、沈黙する。

「そ、そんなことはどうでもいい。ただスキンヘッドの方が礼儀正しくビジネスマナーにかなっているし、相手に明るい印象を与えることは間違いない。景気悪い落ち武者みたいな髪型とは違ってな」

「むき出しにすんのがそんなに偉いならいっそのこと全裸になったらどうだ、その方がビジネスマナーとやらにかなってるんだろうから。明るいひょうきんなおっさんでも演じてくれ」

「口が減らないカッパだな、街の景観を損ねてるんだからしおらしくしてろ」

「あんたこそ反射材みたいにまぶしくて迷惑だぞ。せいぜい夜道を明るく照らすんだな」

「誰が反射材だ!」

「誰がカッパだ!」

「あのぉ、他の会員さんの迷惑だから、不毛な争いはやめてね」騒ぎを聞きつけやってきた受付の女がビジネスライクに言った。

 帰宅するとおれはいつもより丹念に頭をマッサージした。怒髪天を衝いて反射材の度肝を抜いてやろうと、薬を適量よりも多めに使った。カッカして頭に血が上ったせいか、今日は頭皮がやけに敏感で血行がいい。頭全体が熱く、おでこが真っ赤になり、インフルエンザにでもかかったかのようだ。この分なら大丈夫、今回の薬はよく効くぞと思い、おれは安心しぐっすり眠ることができた。夢の中には苔が生えたように毛深いずんだ餅が現れた。詩乃は自分を毛深い動物と同化させることができず、ついに目を覚まし、人間のおれの懐に抱かれることを欲した。

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