それは本当にハゲのせい?
そんな矢先に指先から毛が生え、おれの人生をめちゃくちゃにした。
気づいたときにはもう手遅れだった。メーカーから届いたアドバンスト版を使うと剛毛になり、使用停止してからも成長を続け、あごひげと同じぐらいジョリジョリするようになった。ひげそりで慎重に剃ったが、時間がかかり面倒で、しかも前より濃くなるだけだった。諦めて放置するとすぐに眉毛ほどの長さになった。つまんで抜こうとしたが、一毛不抜とばかりに指の肉にしがみつき、離れようとしなかった。それではとピンセットで一本ずつ抜こうとすると、毛は毛穴というよりは指の肉そのものを持っていき、大量出血した。ぜんぶ抜き終えるころには指の肉がなくなり骨と爪だけになるだろう。おれはため息をついた。ストレスで髪の毛がまた抜けた。砂漠はすぐさま失った陣地を取り戻し、巻き返しを図ろうとした。おれは危機感を抱き、ゴム手袋をつけ頭をマッサージするようにした。むろんゴムを装着すれば頭皮の快楽は薄れ、血がまったく滾らなかった。
最初はまだごまかせていた。外に出る時には冬でもないのに手袋をはめ、会社に近づくと素手になり握りこぶしを作る。遠くから同僚が手を振り朝の挨拶をしてきても、こちらは手を振り返すわけにもいかずよそよそしく頭を下げる。相手は大げさに目を細め「まぶしい!」と叫び、周りの社員を笑わせる。エレベーターに最後に入り、先に乗っていた人のため「何階ですか?」と聞きボタンを押す時も、グーにした手の甲を使う。オフィスに入り部長に呼ばれ書類を手渡される時も、グーにした両手で挟むようにして受け取り、相手を不審がらせる。やっと自分のデスクに戻っても、他の社員に見られないよう手のひらを常に下に向けておく。なかなか厄介だ。
詩乃に隠しておくつもりはなかった。あれだけ個性的な人間だから、指から毛が生えた変人を深く愛するだろうと思った。それにおれたちは前回のキス以上のものを求め始めていた。彼女はより深く大胆におれにキスするようになった。おれも彼女の胸や腰に手を触れることをついに許された。結婚するかはまだ分からないが、体を交え恋人関係を確かなものにするぐらいならば問題なさそうだった。
おれたちはついに、ちょっと高級なホテルにチェックインし、一階のレストランでゆっくり食事をした。照明が薄暗く、丸テーブルの中央に置かれたキャンドルだけがいやにまぶしいので、対面に距離を置いて座る相手の姿がぼんやりとしか見えなかった。そのおかげで雰囲気美人の詩乃は実際以上に綺麗に見えた。おれのハゲもそれほど目立たなくなり、髪が生えそこそこのイケメンになる未来の姿を浮かび上がらせていた。今日ほど互いに魅力的に見えた日はない。食事を終えると、おれたちは仲良く手をつなぎ五階に上がった。カードキーで部屋に入りドアを閉めると、彼女は急に真剣な顔つきになり、握っていたおれの手を引き目の前まで持ってきて、
「これ、なに?」と聞いた。
おれは事情を説明した。ベッドの端に座った彼女はいつまでも黙り込んでいた。そしていきなり立ち上がると自分のバッグを手にし、
「ごめんなさい、指先から毛の生えている人とは付き合えないの」と言い、そのまま部屋を後にした。一人だけ残されたおれは唖然とし、いったい何が悪かったのか、何が彼女の逆鱗に触れたのかと訝った。冷静になったおれは、彼女には指に毛の生えている人間に関する嫌な記憶があるようだと推測した。この毛が彼女の古傷の痛みを呼び覚ますようだった。
後日、彼女にLINEで連絡したが、そっけない答えしか返ってこなかった。また外で会おうと誘っても「指先から毛が生えてるからダメ」の一点張りだった。
「じゃあこの毛をなんとかすればいいんだな、剃るとか?」
「剃るだけじゃだめ。一本も生えないようにしてちょうだい」
おれはさっそくメンズ脱毛クリニックの無料診断の予約を入れた。店に行くと、頭まで脱毛したんじゃないかと疑われるほどツルピカな白衣のスタッフが女みたいな猫なで声で、「お客様のお悩みはなんですか? なんでもお聞かせください」と親切に聞いてきた。おれは膝の上で握っていた手を開き、これを脱毛したいんですと言った。男はキャッと甲高く叫んでから、遠慮がちにおれの手を取り、一般的な脱毛方法について説明した。まずは光脱毛というやつで、光を当てて毛根にダメージを与え脱毛を促す方法。次に電気脱毛というやつで、毛穴に針を刺して電気を通し脱毛する方法。だがいずれも長ければ二年もかかるそうなので、おれは即効性の高い医療用レーザーによる脱毛を薦められた。局部の脱毛だからそれほど値も張らないという。
翌月、おれは初めて脱毛の施術を受けた。個室に入ると、おれは指先にひんやりするジェルを塗られ、それから指先にレーザー照射を受けた。最初はなんてことなかったが、数秒すると内側から火傷するような耐え難い痛みが走り、施術を緊急停止させた。ツルピカの男は首を傾げ、こんなに痛がる男の患者さんは初めてだと言った。歯を食いしばり別の指にレーザーを浴びたが結果は同じだった。医者は「手に負えませんなぁ」と匙を投げた。
医者にも対策が分からない初のケースである以上、おれは自分の努力でなんとかするしかなかった。とにかく髪の毛に悪いことをなんでも試すことにした。意識的に直射日光を浴び、一日のうちに何度も安い洗剤で手を洗い毛根を弱らせる。暇な時には指をしゃぶり歯で毛を引っ張り、我慢できなくなるまで紙やすりで痛めつける。わさびや辛子やハバネロで刺激する。だが指先の毛は真夏の灼熱の太陽、秋の強い台風、冬の凍てつくような寒さにも負けずそびえ立つ大木のように、季節と環境の移り変わりに無言でじっと耐え続けた。どうして髪の毛とこうも対照的なのだろう。
おれは周りの人に不審がられないよう一定の長さに伸びると短く切るようにしていたが、その習慣を改めることにした。野球部で丸刈りにしていた連中のほうが年をとってからも持ちがいいことに気づいたからだ。
おれはもう自分の体の秘密を隠そうとしなかった。だいたい指から毛が生えることぐらい何だというのか。数が少なく珍しいだけで、デブやハゲよりはマシじゃないか。そう自分を励ましたが、周りはやはり相当ショックだったようだ。部長はおれがファッションかなんかでこんなアクセサリーをつけていると勘違いし、「若松くん、会社は遊び場じゃないぞ」と厳しい顔をした。おれがやや腹を立て、「こんな飾りをつけるやつなんていませんよ、ヅラじゃあるまいし」と言うと、部長はピクリとし、変な汗をかいた。自分の席に座り聞き耳を立てている同僚たちはクスクスと忍び笑いしている。それで気を悪くした部長は勢いよく立ち上がり、おれの手をつかんでしげしげと眺めた。さらに慎重に毛に触れ、引っ張り、本物であることを確認した。
「これ、どうして生えてきたんだい?」
「新しい毛生え薬にしたら、なんか勝手に生えてきたんです」
同僚たちがついにこらえきれず爆笑した。
「毛生え薬を使ってもアレかよ!」
「頭じゃなくて指に効いたのね!」
部長はこんな無遠慮な言葉におれ以上に憤り、「さっさと仕事に戻りなさい!」と怒鳴り散らした。おれが報告を終え席に戻り、部長が会議で出ていくと、隣の徳川という名前だけは立派なお調子者の後輩が話しかけてきた。
「先輩知らなかったんですか、部長はカツラなんですよ」
「えっ、そうだったのか!? どうしておれだけ知らなかったんだ?」
「だって先輩には話しづらいじゃないですか」
周りの連中がまた笑い出した。部長もいないことだし、連中はおれのデスクを取り囲み、アルシンドの指先から生えてきた毛を見物した。もう二センチほどの長さになり、黒々とし皮膚を覆い隠している。女性社員からはさまざまな質問が飛び、いちいち答えきれないほどだった。
「これってどう手入れしてるの?」
「もっと伸ばすつもり?」
「これなんか役に立つの?」
「生活に支障はない?」
「かゆいところに手が届きそう」
「ちょっとした掃除に便利かも!」
「だったらきみたちも試してみるか、一毛不抜という毛生え薬だ」
このふざけたネーミングはまた連中を笑わせるばかりだった。今日の午前はもう、みんな仕事にならなそうだ。そこでおれは、この毛があるとせっかく婚活で知り合った魅力的な女と一緒になれないから、みんなで知恵を出し合ってくれと頼んだ。徳川は「せ、先輩に彼女……」と頭の上に大きなはてなマークを浮かべ、真剣に考え込んでしまった。
「えっ、若ちゃん彼女いたの? 狙ってたのにショック〜」と年上の瀬名がてきとーに言った。
三人寄れば文殊の知恵とやらで、いろんなアイデアが浮かんだ。イボの除去と同じ凍結治療を受ける、指を一回切ってしまいつなげ直すか他人の指を移植してもらう、指先をひもか何かで縛り血を巡らせないようにし腐らせてしまう、火あぶりの刑に処し焦土化させる……。
「他人事だからっていい加減にしろ!」とおれは叫んだ。
そこで同僚たちは現実的になり、こんな些細なものを毛嫌いするような女なんか捨ててしまえと説得にかかった。
「じゃあおれにもっと魅力的な女が見つかると思うか?」
無言だった。彼らに期待したおれがバカだったか。
意外にも親身になって相談に乗ってくれたのは部長だった。そういえば部長はいつもおれみたいな平社員に格別の親しみを示してくれていた。だからおれは彼がヅラだからってあざ笑う気になれなかった。同病相哀れむというやつだ。金曜日の退勤後、彼はおれを呼びつけ、飲みに誘った。居酒屋でビールを飲み、すぐに熱燗に切り替え、一週間の勤務の疲れで酔いが心地よく全身に回ったころ、部長は「大したことない、そんなものは」とつぶやき、大きな腹をぽんぽこ叩いた。それから意を決したように、「実は私も……」と言い頭に手をやろうとしたが、おれはその手を押さえて「みなまで言わなくても分かってます」と言った。ハゲたちが分かり合った瞬間だ。おれたちはおちょこの酒を飲み干し、差しつ差されつし、じっくり語り合った。部長は詩乃がいい女であることを全面的に認め、素敵な恋愛をしたおれを褒め、その女性を絶対に逃してはならないと檄を飛ばした。おれの話が終わると、彼の話になった。彼はカツラをつけながらもまだ完全に諦めたわけではなく、他に趣味もないので育毛発毛に勤しんでいるという。
「いったいどんな毛生え薬を使ったんだい?」
「一毛不抜という薬です。メーカーからアドバンスト版をたくさんもらったので、部長にもおすそ分けしますよ」
ハゲ仲間ができたが、それで指先の問題が解消されたわけではなかった。毛は髪よりも速いペースで成長し、人差し指と中指と薬指から五センチほど伸びた。そのせいでおれはどっかの国の少数民族の呪術師のように見えた。同僚たちはいつまでもこの現状に慣れず、おれの近くに来ては「また伸びたねぇ!」と驚嘆した。
伸びすぎて困ったこともある。この毛はとにかく何にでもまとわりついた。パソコンのマウスを操れば間に挟まり、キーボードを叩けばキーの裏側に絡みつき、解くのに一苦労した。素手で鼻くそをほじろうとすれば毛が鼻孔をくすぐりくしゃみを催した。毛のせいで指先がつるつるするので、レジ袋や紙をめくりにくくなった。おにぎりや寿司を素手で触ると毛の表面で米が固まり、ポテチを食べると油ギッシュになり、ハンバーガーなどを頬張ると毛を噛んでしまった。
そんなことよりも、他人にいちいち驚かれ、説明をするのが面倒だった。馴染みのコンビニで働くアジア系の男性店員は憎悪に身をおののかせ、「ワタシタチノムラナラ、コロサレマス」と断言した。取引先に出向いて会議に出ると、みんなの注目はおれの指先に集まり、話がまったくまとまらなかった。部長は申し訳なさそうに、おれの同行を拒むようになった。
詩乃にいい報告ができないまま、また夏になった。うちの会社はお盆を暦通り九連休にしてくれた。お盆を前にして、お袋から電話がかかってきた。帰省しても親戚から結婚ばかり話題にされてあんまりいい気分がしないが、今年はちょっとこの指の毛について聞きたいことがある。おれは久しぶりに田舎の実家に帰ることにした。
故郷に大きな変化はなかった。田んぼは相変わらずだだっ広いし、なぜ経営を維持できるのか理解に苦しむ肉屋や花屋も潰れてはいなかった。おれの実家のある住宅街は古くなり放置される家が増え、新しい家に建て直されることはなかった。住民も年寄りが増え、若者や子供が減った。おれの頭のように荒涼とした光景だ。だが一番大きな変化は親父の頭にあった。脇の髪を長く伸ばし寄せ集めて頭皮に貧相なバーコードをかけるのを諦め、ついにぜんぶ剃ってスキンヘッドにしたのだった。もともと地黒で、夏の日焼けも加わり、茶色くテカテカしていた。
「皮をむいた燻製卵みたいだ」とおれが感想を述べた。
「お前もさすがわが若松家の血を引くだけはある、運命を断ち切れなかったようだな」
「本当にね、呪われた家系なのかねぇ」一家にハゲのいないお袋が言った。
やがて兄夫婦も帰ってきた。年の離れた兄はもう四十代前半で、おれよりハゲが進行し壊滅的状態だ。自由な生活を求める彼らは子供を作らなかった。これは負の連鎖を終える確かな方法ではあったが、おれは詩乃みたいな女だったらぜひ彼女と自分に似ている子供が欲しい。おれは彼らを前にして、ついに指に生えた毛を披露した。彼らはさすが家族だけはあり、会社の同僚のように大げさに驚かなかったが、どうしてこんなものが生えたのかとしきりに首を傾げた。
「とにかく明日、みんなに報告して相談することにしよう」と親父が言った。
翌日は墓参りと酒飲みのため、父方の親戚一同が集まった。おれのいとこの一人息子はもう小学三年生で、大人たちの話など興味がないので携帯ゲーム機に集中している。いとこもご多分に漏れずハゲで、横の髪の毛には早くも白髪が混じり始めている。おれの二人のおじも観念してスキンヘッドにし、間に親父を挟んで酒を飲みよもやま話をしている。揚げまんじゅう、玉こんにゃく、みたらし団子といった残酷なワードが頭をよぎる。よくもまぁハゲばかりをかき集めたものだと関心し、妙に贅沢な気分になる。若松家で最長老である親父のおじは、おれの記憶にあるじいちゃんと同じくハゲ頭で、しわくちゃな顔に立派なヤギひげを生やしている。彼ならば指の毛の秘密を知っているに違いない。
「今まで親戚にこんな毛が生えた人がいますか?」とおれが聞いた。
「うんにゃ、見たことねえなあ。おめえなんか罰当たりなことでもしたか?」
「いえ、べつに。ただ毛生え薬を使っただけで」
「死のうとするものを無理に生かすほど罰当たりなことはねえぞい」と長老は言い、頭をペチペチ叩いて笑った。他のハゲも苦笑し、毛生え薬など使ったことがないと言った。ずっと下を向いてゲームをしていた子供が急に顔を上げ、うんざりしたような表情をしながら「ぼくは絶対にハゲないからね」と宣言した。
「無理だ、うちは呪われてるから」いとこがため息をついた。
「んだ、その指も呪いかもしんねえ。おめえやっぱ厄払いしてもらったほうがいいぞ」と長老が言った。
「そうだよ、ハゲはおじさんで終わらしといてよ」
気が進まなかったけど、あんまり熱心に勧められたから行くことにした。近所の神社にはいろんな思い出がある。小学生のころ、下校途中や夏休みに友達とここで野球をし、本殿の神鏡をぶち壊して神主にこってり絞られたことがある。不良にとっては絶好のたまり場で、生意気盛りのおれたち中学生が神輿をしまう蔵の裏でタバコをポイ捨てしたその日、県内の夕方のニュースが神社のボヤ騒ぎを伝えた。思い返せばなるほど、けっこう罰当たりなことをしている。
社務所で受け付けし、初穂料を支払い、本殿に上がって神主が来るのを待つ。おれの他に人はいなく、セミの鳴き声がやかましい。新しく取り替えられた神鏡も古くなってやや曇り、外の日差しを鈍く反射している。ついに神主が奥の方から姿を現した。昔の神主のままだが、おれの顔は小学生だった当時から大きく変化しているから、気づかれる心配はない。彼は暑さで大汗をかきながら、さっさと終わらせたいのか単刀直入に要件をたずねた。おれは一族の男がみんなハゲであり、ハゲの運命に逆らおうとした結果、指から毛が生えるハゲの呪いにかかったと話した。烏帽子を取れば同じくハゲの神主は「喝!」と怒鳴り、白い紙がわさわさついている棒でおれの頭を思い切りぶん殴った。
「誰がハゲじゃと、ハゲが呪いじゃと!?」と神主は連呼し、棒で叩く手を止めようとしなかった。おれは歯を食いしばり、痛みと屈辱にじっと耐えた。これで過去の罪が帳消しになることを願って。
頭を真っ赤に腫らして帰宅すると、リビングで小中学校の同級生のコメが待っていた。コメとは、赤ん坊のころに頭の形をきれいに矯正されなかったせいで、やや白米に似た形をしていることから彼につけられたあだ名だ。休みの日によく自宅に遊びに呼んだことがあるので、親父もお袋も彼の顔を知っていた。コメは子供のころから老けていたせいか今もあまり変わらない顔をしている。
「きみが帰ったって聞いて、明日の同窓会に誘おうと思って」
同窓会は商店街の中にある古い居酒屋で開かれた。昔は店の外を通るばかりだったが、大人になった同級生たちと中で酒を飲むと時代の流れを感じる。店は貸し切りで、地元に残っている二十数人が集まった。「三大穀物」としてバカにされていたコメ、ムギ、とうむぎ(とうもろこし)の三人にはほとんど変化がなかった。ムギは相変わらず細長くしなやかで、もみあげとあごひげがさらに成長しつながっている。町工場の社長の息子のとうむぎは高校を卒業するとすぐに天然パーマを黄色く染めてコーンロウにし、本物のとうもろこしみたいになっている。三人は昔はあまり目立たないタイプだったが、成長するとなかなかのイケメンになり、髪の毛も五穀豊穣とばかりにふさふさだからたいへん見栄えがいい。おれは彼らとけっこう仲が良かったから同じ席に座り話をする。
制服を着た女子からメイクをばっちりきめる女に変わった対面の彼女たちはもう、誰が誰だか分からない。おれの薄毛により、義理チョコを恵んでやったことを一生の恥としている坂本という女は相当な美人になり、地元のベンチャー企業経営者と結婚してリッチな生活を送っているようだ。飲み会に集まった女のほとんどが既婚者で、売れ残っているのに厚かましく出てくるような女はもう女であることを諦め、大きな声でゲラゲラ笑っている。おれを含めた未婚の男たちは、ルックスや能力の問題で結婚できていないくせに、そんな彼女たちを見下し自分にはもっといい相手が見つかるはずだと勘違いしている。
長い時間を共にした同級生たちと酒を飲み上機嫌になったおれは、明るいハゲを装うという酔狂なマネをやらかした。酒の余興で豆電球のマネをしたり、指先の皮膚を頭皮に移し替える手術を検討中とか、髪の毛がなくなったおかげで肩こりが解消されたとか冗談を言った。だいたいみんな笑ってくれたが、居心地悪そうにしていたのは田原という男だ。やつは中学のサッカー部のキャプテンで、端正な顔立ちのおかげで女子からモテた。おれとたいして仲良くないのに気安く「若ハゲ」と呼ぶことで自分の強さを誇示する、そんな嫌味な人間だった。やつは地元の大学を卒業し地元で就職し、金持ちで美人の女と結婚した。ところが後に離婚し、今は寂しい独身生活を送っているという。なぜか? それは脱毛が原因だった。ツキから見放されたように、髪の毛は彼の頭皮から去っていった。金も、子供も、髪の毛も、何も残されなかった。
おれは冗談を続けた。ハゲはシャンプーがいらず石鹸だけで済むし清潔的。寝癖ができず朝の髪型セットの時間を省略できる。知的な哲学者、人のいいおっさん、やさしい男と勘違いされる。ハゲてるおかげでヅラの部長から親しく接してもらえる。ハゲてるのにかっこいい外国人俳優のものまねが上手にできる。初対面であっても相手に優越感を与え覚えてもらいやすい。孫正義の活躍に励まされる……。
滔々と語りながら、おれは時おり田原に鋭い視線を向けた。ついにたまらなくなった彼はおれの前で手をつき、深々とハゲ頭を下げて謝罪した。
「若ハゲなんてバカにしてすみませんでした!」
おれたちは歴史的な和解を果たした。ハゲはおれたちの間にあった差や壁を取り払い、ハゲ同士で仲良くなることができた。嫁さんに逃げられたのに「ハゲがなんだ!」と奮起する彼を見ていると、おれも指先の毛のことなんかでいつまでもクヨクヨしていられないと思った。おれは帰ったら詩乃に積極的に連絡し、猛アタックし、それでもダメならば諦めて新しい人生を歩もうと決意した。