若松ハゲル
いまいましい毛生え薬め、頭より先に指から生えてきやがった。
あんまり頭にきたからメーカーのコールセンターに電話してやった。機械みたいな声を出す担当の女は、マニュアルには載っていないクレーム内容に驚き、初めて「えっ」と人間らしい声を出した。
「しょ、少々お待ちください」
保留音はなぜかスーパーでよく流れているあれで、「ポポポポポー、ポポポポポー……」を延々と繰り返し、ようやく女が戻ってきた。女は遠慮がちに、とりあえず検査をしたいので当該商品を会社まで送ってもらいたい、ご迷惑をおかけしたお詫びに新商品を送り返すと言った。
数日後、メーカーから欠陥品を入れる頑丈な返信用封筒と、一本で一万円弱もする「アドバンスト」版の毛生え薬が一ダースも届いた。検査結果が出るまでの日々、おれはこの高級品をカッパの皿にふりかけ、せっせと耕した。するとどうだろうか、指先の毛が無視できないほど増え、いっそう根強く伸びてきたではないか。他人事ならばさすがアドバンストだと笑って済ませるが、これではもはや生活に支障が出るレベルだから真剣にならざるを得ない。こっちからまた電話をかけてやろうかと思っていたが、先に向こうからかかってきた。今度はメガネをかけ白衣を着た研究者であることが声だけで分かる男で、七面倒臭い専門用語を並べ商品に異常がなかったことを報告してから、「お客様の使用方法、使用環境を詳しくお聞かせください」と好奇心をむき出しにして聞いてきた。おれがやや苛立って説明書通りに使ってると答えると、男は「うーん、うーん」と便秘みたいにうなり、電話だけでは分からないのでぜひ当社の研究施設にお越しくださいと言った。場所がとんでもなく遠いのに平日に来いと言うので、おれは「ふざけんな」と怒鳴り電話を切っちまった。
おれが毛生え薬を使い始めたのは婚活で失敗してからだった。
むろん婚活など失敗の連続であり、失敗を繰り返すことで冷静に自己分析を進めるのがその醍醐味だ。
ここでとりあえずおれのスペックを紹介しておこう。三十七歳の独身男、平社員で年収は三百万未満。ルックスは髪の毛がふさふさしていれば中の上とうぬぼれているが、むかし憧れていたアルシンドというサッカー選手と同じ髪型のせいで、女たちを違った理由で振り向かせてしまう。アルシンドを知っている世代のくせに、自分を頑なに女子と呼び続ける会社の女たちに丁寧にお礼を言うと、たいてい「トモダチならあたりまえ!」と返ってくる。もっと若い世代だと、おれを性的対象としては見てくれず、珍獣扱いして「若ちゃん、かわいい」とかほざいてくる。
おれの名字は若松、下の名前は恥ずかしながら茂と申す。こんな皮肉な名前をつけたのはおれの親父だ。わが若松家は先祖代々の由緒正しいハゲの家系で、男に生まれれば将来必ずハゲるという運命から逃れられない。ハゲは遺伝すると言われるがまさにその通りだ。親父はおれの名前に、この呪縛を断ち切る悲壮な思いを込めた。おれにワカメやヒジキばかり食べさせようとする親父の隣でお袋がいつもせせら笑っていた。お袋も親父がハゲないようさまざまな努力をしたが、結局は甲斐なしだったからだ。
ハゲの兆候は早くも中学から現れた。一年生の梅雨時のことだ。学生帽着用が義務付けられていたので、ジメジメするのに男子学生たちは傘を差し帽子をかぶりながら、中学校に通じる長い坂を重い足取りで歩んでいた。この坂を登り終えるころになると、頭皮や背中からじわじわと汗が吹き出てくる。おれが教室に入り帽子を取ると、小学生のころから仲良く遊んできた野郎が集まり、「あれ、シゲちゃんの髪、なんかつぶれてない?」と言った。おれの親父を知っている別の男子は、「父ちゃんの遺伝だろう!」とからかった。おれは恐る恐る頭頂部に手を当てた。肌のぬくもりが薄い髪ごしに伝わって来る。人のいないトイレに入り、指をピンと立てて頭を軽く叩いてみる。パン、パン、ペシッと三回に一回ぐらい、皮膚を直に打つ確かな手応えがある。
おれは泣きたい気持ちで家に帰ると、お袋の化粧台に座り手鏡を使い頭のハゲ具合を確認した。幸い、まだハゲというほどではなく、薄暗い部屋の中ではほとんど気にならないほどだ。長過ぎるから濡れるとかえってボリューム不足が目立つのだろうと思い、おれは自分の金を持ち近所の安い床屋に行った。ここの店長はおれと同じ中学を出た若い男で、おれたち後輩にいつも気さくに話しかけてくる。店長はいつもほど伸びていないおれの髪をだいたい切り終えると、両開きの鏡を取り出し、後ろの切り具合を確かめさせた。やつは鏡を慎重かつ素早く操り、おれに頭頂部を意識させないよう努力した。彼の遠慮は同級生の冗談よりもおれを傷つけた。
「こんな感じでいいかい?」
「は、はい」こんな感じにしかならないのだろうと、諦めたように答えた。
翌週、おれは学校で若松ハゲルと呼ばれるようになっていた。仲のいい男子は堂々と、女子は影でコソコソと。あんまりしつこいからおれが本気で怒ると、ある男子は「一文字しか違わないんだから大差ないじゃん」と言った。
「じゃあお前のチンコはマン○なのかよ?」とおれはやり返した。
若松ハゲルという予言めいたあだ名はすぐに若ハゲと省略されるようになった。実際にはせいぜい薄毛程度なのだが、若ハゲという称号はおれの魅力をガタ落ちにした。小学生のころはまだ数人の女子から義理チョコをもらえていたが、中学からは支給が途絶えるようになった。おれは女がなんだ、ルックスがなんだと自分に言い聞かせた。頭がハゲるほど猛勉強し、県内トップのイカ臭い男子校に進学した。
おれのクラスは個性的な連中ばっかで、しかも中学以前の知り合いがいないから、おれの若ハゲが注目されることはなかった。本当に勉強のしすぎでストレスがたまり、もみあげのあたりが白髪になっているやつもいた。こいつらと比べればおれはまだまだ大丈夫だなと安心してしまった。気が緩み、勉強に励む動機も失った。するとあれほど憎んでいた女が妙に恋しくなってきた。エロビデオやエロ本(当時はまだインターネットなんか普及してなかったのよ)もいいが、生身の人間を目にし、そいつと展開次第では肉体的に結ばれることを妄想したかった。そんなチャンスは毎年恒例の学園祭で訪れた。
学園祭は周辺住民や別の高校の学生が集まるイベントだ。詰め込み教育の無味乾燥な日々に慣れているように見えるうちの男子諸君は、受験対策では絶対に発揮できない想像力をフルに発揮し、二階建てのお化け屋敷を作ることを決定した。この出し物には二つのうま味がある。まず、一階部分の隠し部屋から、二階を歩く女子高生のスカートの中身を観賞できること。次に、お化け役になり女子を襲撃できること。おれは前者よりも、後者の肌のスキンシップを求めたが、それは他の男子もそうで、競争率がやたら高くこの高校の倍率をはるかに上回るほどだった。クラス内のリーダー的グループが決めたお化け役が次々と埋まっていった。ろくろ首、はい! 赤鬼、はい! 貞子、はい! 河童……
「はい!」とおれが声を張り上げた。
「どうしてきみが?」
「だって、だっておれ、中学のころ若ハゲって呼ばれてたし、ほら見ろよ!」
おれがついに吹っ切れた瞬間だった。おれはたいして親しくないクラスメイトの前で頭を下げ、薄毛の部分をピシャリと叩いてみせた。彼らは目立たないおれの意外なカミングアウトにドン引きした。気まずい沈黙を破ったのは、おれの痛々しい笑い声だけだった。気まずさが極まり哀れみに変わり、おれに河童を演じさせないと申し訳ない雰囲気になってきた。
「じゃ、じゃあいいよ、きみがやれよ」
学園祭は今でもおれの青春時代の最も麗しい思い出として心に残っている。グレーの無機質な校舎に艶やかな花が咲き誇った。めったに見ることのない女子高生はまぶしいほど美しかった。彼女たちは数人のグループを作りキャピキャピおしゃべりし、各クラスの出し物をゆっくり巡った。女子高生をターゲットにした喫茶店などの出し物ばかりで、男子が若い女ばかりに愛想よく挨拶するものだから、周辺住民は場違い感を覚えさっさと帰っていった。
おれたちのお化け屋敷は集まりがよかった。女たちは男たちの下心を知っているにも関わらず、それをスリルの一種として楽しんだ。ろくろ首は顔芸だけで女子に恐怖を植えつける損な役回りだった。貞子は女子の姿さえ見れず、彼女たちの恐れおののく声を楽しむしかなかった。赤鬼は鬼の体が描かれた壁の丸い穴から顔を出し、女子にボールや豆をぶつけられ「いてぇ!」と歓喜の声をあげながら、見えない所で利き腕をせっせと上下に動かした。彼らが女子を十分怖がらせたところで、自由に動き回れる河童のおれが登場した。本物の河童らしく頭に黄色く塗った紙皿を乗せたおれは、鋭い牙をむき出しにし迫真の演技で彼女たちを驚かせた。彼女たちは半泣きしながら狭く暗い通路を逃げ惑い、頼んでもいないのにおれの体に触れていった。だんだん大胆になってきたおれは、適当に河童っぽく「くけぇ、くけぇ」と鳴きながら、彼女たちとぶつかるふりをしておっぱいやケツをもみまくった。外の正常な世界から隔絶されたこの異常な空間に禁忌はなかった。時間がたつにつれ教室内の熱気はいや増し、一階から二階に生臭い湯気が立ち昇っていった。
お化け屋敷を出た女たちは、体を触れられたことも含め、大満足で帰っていった。おれは若ハゲが初めて役に立ったことに気をよくした。ハゲのせいで見下された女たちに、ハゲで復讐をしたことはまさに痛快だった。
だが、おれたちはすぐに日常生活、つまり短所が短所、異常が異常としてしか見られない常識の世界に戻っていった。勉強を繰り返すだけの日々は記憶に残らずあっという間に過ぎていった。おれは都会の大学に合格し、生まれて初めて田舎を出た。
田舎訛りでコミュニケーションに些細な支障があったが、おれはすぐに都会の生活に慣れ、学校でも友達を作ることができた。普通に話ができる女子もいたが、いろんな人と広く浅く付き合う大学生活において、どのように一線を越えるべきかが分からなかった。おれがもたついているうちに、同じ学科で同じクラスのめぼしい女たちは、都会のプレイボーイたちに持ってかれてしまった。残ったのは冴えない男と女だけで、彼ら彼女らは必然的に互いを強く意識した。自分と同じレベルの相手ならばベッドインできるのではと思った。そこで底辺の男子の中で一番大胆なやつがおれたちを集め、彼女たちと飲み会を開くことになった。
覚えたての酒、質の悪い飲み放題のせいで、おれたちはすぐに酔っ払った。酔いが回るとあらゆる感覚が鈍り、外のあらゆる事柄に対して寛容になれる。おれは女のしゃくれ気味のあごを、女はおれのハゲを看過した。会場はおれのアパートの近くだったので、おれは女の手を引き自宅に連れ帰った。部屋は散らかり放題でときどきGも出たが、残された意識は布団に直行することだけに集中していたので、そんなことは誰も気にしなかった。初めての体験についてはほとんど覚えていない。ただ電気を消して素っ裸になってしまえば、お化け屋敷の時と同じように大胆になれることを知った。頭を見られないことは好都合だった。
おれと彼女のようなペアは月曜日に学校で顔を合わせても、何事もなかったように挨拶を交わすだけだった。自分の衝動を後悔し、その後は意図的に冷たくした。バイトと遊びと就活と論文作成に明け暮れる大学生活は目まぐるしく過ぎ去り、おれも社会人とやらになってしまった。
面接官のハゲたおっさんがおれに与えた印象と同じように、会社は実に実にホワイトだった。普通に社員同士で挨拶を交わせる和やかな職場。業績が安定し首を切られることのない安心して働ける環境。しかもおれは先輩方から気に入られた。二十代になったおれのハゲはもはや薄毛と言ってごまかせないほど進行していた。若ハゲは年上の男たちに優越感を抱かせた。おれは人一倍仕事の覚えが悪かったが、みんな懇切丁寧に教えてくれた。飲み会にも誘ってくれたし、出張のお土産ももらえた。年上の女性社員もおれを見ていると心が和むらしく、よく食事に誘ってくれた。恋愛や結婚生活の悩みをうんと聞かされた。そのくせ、いい女を紹介してやると持ちかけられた。
「いえ、まだ真剣に恋愛や結婚をする気になれません」
おれは元来ぜいたくを好む人間ではないので、入社してから半年もするとすぐにまとまった金ができた。おれはこの金を使い昔プレイしたゲームを買い直したが、どうも身が入らず全クリする前に飽きてしまった。それでは新しいゲームをプレイしようと思ったが、やはり子供のころの情熱が戻ってくることはなかった。なにか新しいことを始め新しい目標を見つけるべきだった。
ある日、仕事を終え最寄り駅を出ると、やたらかわいいネエちゃんがビラを配っていたので、デレデレしながら受け取った。駅前に新しくできるスポーツジムの宣伝で、間もなくプレオープンする。今ならさまざまな入会特典がついてくるという。なるほど体を鍛えるのも悪くない。うちの課長(後の部長)みたいにビール腹になるのを防げるし、汗を流せば気晴らしになるだろう。単調化しつつあった生活に変化を与えるべく、新たに生まれ変わるべく、おれは帰ったばかりの家からまた外に出て、さっきのネエちゃんに会いに行った。
秋が過ぎ、紅葉とともにおれの髪もはらりと落ちた。冬が来て、おれは寒さに耐えきれず帽子をかぶるようになった。春が来ても髪は芽生えず、桜のように潔く未練なく散るばかりだった。梅雨になると頭皮が空気中に充満する湿気を吸い取りびっしょり汗をかいた。夏になると体中の油が頭のてっぺんから吹き出し泥沼を作った。その間、おれはせっせとジムに通い、引き締まった体を作り上げた。ビラを配っていたネエちゃんはインストラクターだったが、すぐに高給取りのイケメンと結婚して辞めちまった。会員同士でも出会いがあり、若い男女が惹かれ合い、求め合った。おれは真面目に運動もしないで愛を語らっている連中を尻目に黙々と筋トレし、自転車を漕ぎ脂肪を燃焼し脂汗をかいた。上級者になると年配の会員から頼りにされ、練習を見てやった。彼らからは好青年だと褒められた。やがておれは年を取り、髪が少ないせいで年齢以上に老け込み、好青年から気のいいおっさんになっていった。