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 ラッカラ・北の森


 大工の棟梁に連れられ二日後の夜、北の森にやってきた。

 街道から外れた道なき森の中を分け入り、松明の灯りだけを頼りに歩みを進める。

 足元に転がる倒木、窪み、地表に剥き出た木の根に足を取られないように遅々とした足取りで真っ暗な森の中。

 松明に揺らめく棟梁の背中の二歩後ろをぴったりと着いて行く。


 棟梁の水筒には二日前に渡したニジイロタケの乾燥粉末で煮出した茶が入っている。

 休憩時にそれを飲む棟梁の体力は都度全回復し、置いてかれそうなくらい足取りが軽くなった。

 俺の水筒の中身も一番煎じの茶だが、慣れない道を行くのは疲れる。


 持ってきた茶を半分消費したんじゃないかという頃にやっと見えてきた。


「着いたぜ」

「ふう、やっとか」


 気力充分の棟梁が森の中の一点を指さした。

 巨木に寄り添い大きな岩陰に隠れるようにロープで張られた、闇商人のテントである。


「ちょっと待っていてくれ」


 テントの傍に寄り、外から棟梁が少し抑えた声で中に呼び掛ける。


『…満月は何時かな』

『…今宵に違いない』

『良い酒がある。二年物だ』

『一晩付き合おう』


 テントの中と棟梁とで、三日月の夜に交わされたやり取り。

 棟梁は酒なんて持ってなかっただろ。と、思ったが、多分これは符丁だ。


 果たしてその通り。しばしの間の後、棟梁はいそいそとテントの中に入っていく。

 俺に目配せをして小さく首を振り、後に続いてテントの中に入って行った。





 椅子程の大きさの岩の上に腰掛ける闇商人は鼻と口を鼠色の布で覆い、鼠色の頭巾をしていた。

 黒のマントで首から下・全身を覆い隠す姿は、昔劇団で公演した時の怪人のような印象を受けた。

 俺がテントに入ったのを感じ取ると棟梁が紹介を始める。


「悪いね都合付けてもらっちゃって。…あんたに会いたいと言っていた人だ」

「金貸しをやってるグレンだ」

「闇商人のユージン。よろしく」

「よろしく」


 距離感のある乾燥した挨拶を交わした。

 棟梁は俺とユージンにそれぞれ一礼すると、黙ってテントを後にした。

 ここから先は二人だけで話し合えってことなんだろう。


 木箱を挟んで向かい合う形に地べたに座り込むと、ユージンが口を開く。


「私に会いたいとの事。用件は」

「そうだな――」


 テントの中を見回す。

 地表の凸凹の少ない場所を選んでテントを作っているが、闇商人・ユージンが腰掛けている岩一つ取っても長く落ち着くには不向き。

 今日明日さえ凌げればそれでいいと言ったような思惑を感じる。


 小石や落ち葉枯れ枝を掃いて突起をなくした地面に薄い絨毯を敷いただけのこの空間には、一人で運べる程度の荷物と商品の入っていそうな箱しか見当たらない。

 道すがら棟梁に聞いていた通り、町から町へ渡り歩く孤高の闇商人のようだ。


「どんな商品を扱ってる?」

「どんな商品でも扱っておりますよ」

「そうか。今、何か見せてもらえるか」

「今日は顔合わせをお望みの様でしたので、生憎持ち合わせがございません。お望みのものがありましたら次回お見せ致しましょう」


 すんなりとは見せてくれないようだ。

 やっぱり裏の世界で生きる男。そう簡単に踏み込ませてはくれない。

 積んでいる荷物は単なる私物か、あるいは商品ではあるがまだ俺がそれを見るに足る男ではないって認識なんだろう。


「人間以外は何でも扱うそうだな」

「奴隷商とは住み分けねばなりませんから」

「売り買いはどうしている」

「人様には大っぴらに言えない仕事ですから一所に留まって商うことはございません。頼まれれば買い付けに行き、求められれば何でもお売りします」


 ―――ただし、時も金もかかります。

 そう言ったユージンは覆面の奥で笑ったような気がした。


 どうせ時間や状況に追い詰められて、ここらじゃ手に入らない物をどうにかして入手しようと、伝手を辿ってやって来たとでも思ってるんだろう。


 だがその見込みはハズレだ。


「闇商人・ユージンに手に入らない物はないと?」

「言うまでもない事ですが」

「はあそうか。…じゃあこれなんかは簡単に手に入るよな?」


 目の前の木箱にカバンから取り出した小瓶を一つ置く。

 するとこれまで一切表情に変化がなかったユージンの眉がピクリと動いた。


「こ……これは一体何処で」

「さあどこだったかな。今日は顔合わせのつもりで来たからあんまり覚えてねえんだよ」

「…ふっ。フッフッフッフッフ……」


 何がおかしいのか、ユージンはくつくつと笑い始めた。

 当初両手を太ももに置いて姿勢よく腰を据えていた彼は一頻り肩を震わせると、両膝に両肘を置いて前のめりになった。


「良いでしょう。腹を割って話そうじゃありませんか。どうやら貴方は私と同じ部類のようだ」

「同じ部類だったらその澄ました口振りもやめたらどうかと思うけどな」

「これでも私は商人の端くれ。仕事はきっちりさせていただきますよ」


 ユージンが()()()()からようやく()()へ認識を改めたようだ。


 そう来なくっちゃ困る。

 俺は闇商人と世間話をしに来たんじゃねえ。仕事の話をしに来たんだ。


「だったら話すが、これはある冒険者から偶然渡された、『龍涎香』だ」


 驚愕。

 そして、納得。

 ユージンは深く長い息をついた。


「やはり『龍涎香』ですか…」

「そうだ。話を聞く気になったか?」

「先程の非礼はお詫びしましょう。少し、確認しても?」

「ああ」


 コルクを開けて差し出した小瓶を、ユージンはなみなみに液体の入ったカップを持つようにそっと持ち上げ、瓶の口を手で扇いだ。

 ゆっくりとその香りを確かめると、じっくりと、飲み込むように、目を閉じて頷いた。


「…何てことだ。この感動を正確に表現し得る言葉が見つからない」


 涙声を飲み込むように、しかしとても嬉しそうにしている。


「まさか此処で出会えるとは。人生何が起こるか分からないものだな」

「…震えるだろう?」

「…ええ。これ程香り高く、美しいものに出会えた喜びに魂が震えるようです」


 ユージンから返された小瓶の口にコルクを詰め、目の前の木箱の上に戻した。


 大きく胸を揺り動かされたユージンであったが、今は話の途中。

 覆面の内側で隠すように細く長い深呼吸を数度し、平静を努めた。


「――失礼。少々取り乱しました」

「『龍涎香』なんて、普通に暮らしてたらまずお目にかかれないからな。気持ちは分かる」

「して、何をお望みですか。これほどの品をお持ちの貴方がお求めになりたい物とは」

「よく聞いてくれた。俺の望みは、こいつを買い取ってもらいたい」

「…この『龍涎香』をでございますか」

「ああ。お前ならいくらで買う」


 瞼を閉じ、ユージンはこの小瓶に収められた龍涎香を買い取るとするならいくら出すか、心臓の鼓動と呼吸音だけが聞こえる闇の中で算盤を弾いた。


「――金貨三枚銀貨五十枚」


 ユージンはこれっきりの金額を提示した。

 金貨三枚銀貨五十枚が限界。ここを超えて出すつもりは全くない。


 価値に見合うだけの値は出した。腹の探り合いは龍涎香への冒涜。

 最初から最大限の値を付けたつもりである。


 それでも更に吹っ掛けて来るならば縁がなかったとスッパリ諦める。

 闇商人として生きてきた経験と深追いを避ける第六感、つまりは運命を導く神の思し召しであると信じているからだ。



 ふむ…金貨三枚銀貨五十枚か。


 上等。

 さすが本職の商人だ。俺よりもよっぽど目が利く。

 適正価格をきっちり弾き出しやがった。

 多分損益分岐点ギリギリを攻めてきている。買い叩こうとしないその姿勢、あっぱれだ。


 だが、俺はこれだけを売りに来たわけじゃねえ。


「良い話と悪い話がある」

「……」

「まず悪い話だ。金貨三枚銀貨五十枚…決して悪い金額じゃねえが、どうやら足りなくなりそうだ」



 ―――縁がなかったか。

 美しく香しい龍涎香であったが、仕方ない。


 ユージンは落胆した。



 この先、このレベルで高品質の龍涎香にはなかなかお目にかかれないでしょうが、さりとて此処でカモにされるつもりはありませんよ。


 そう決めつけて、両膝に乗せていた両肘を引き上げようとユージンがした所。



「良い話は、この龍涎香は“カケラ”だってことだ」

「………え?」

「俺はこの“カケラ”の五十倍の大きさの龍涎香を持っている」

「なっ………!?」

「言われなくても分かるだろうが、五十倍の大きさの、()()()()()()だ」


 瞠目したユージンは驚きのあまり上体のバランスを崩し、思わず後ろに手をついた。


 たったこれだけでも一財産築ける龍涎香がカケラに過ぎなかった。

 この龍涎香が、まだ大量に残っている。だと。


「…証拠は」

「お望みなら、次回お見せ致しましょう」



 そう意趣返ししてやると、覆面の下からでも動揺しているのが伝わってくる。


 俺だって分かってるさ。

 このサイズの龍涎香でさえ立派な家が建つってのに、これの五十倍の龍涎香が後ろに控えてるなんて。

 まず嘘っぱちだって思うぜ。

 普通に考えてありえねえんだから。


 海岸沿いをぶらぶら歩いても簡単には見つからねえ。世界のどこにいつ漂着するかなんて分かんねえのに、そんなデカさの龍涎香がたまたまどこかの海岸に無事に漂着して、たまたま人の手に無事に渡るなんて偶然の連続。信じらんねえよな。


 だが、このユージンって男。

 こいつはバカじゃねえ。方々に客を抱えながら逃げ回れる鼻の良さはなかなかのもんだろう。

 今の今まで裏の人間として現に生き残ってるってことがその力量の証左だってもんだ。


 だとすれば勘付くはずだろう?

 たとえ俺が五十倍の大きさの龍涎香を持っていなかったとしても、それに見合うだけの何かを持ってるってことに。



 ゴクリ、と喉が鳴る音が聞こえた。


 俺かもしれないし、ユージンかも知れない。

 ひょっとすると同時だったかもしれない。

 俺も、ユージンも、慣れてるだろうこの腹の探り合いの先には逃がしたくない旨味がある。


 罠も仕掛けもひっくるめて、それでも食らいつきたい餌がそこに。






「―――分かりました。では一週間後の夜、また此処でお会いしましょう」


 ユージンはそう言うと、吹っ切れたのかやや清々し気に目を細めた。


 ラッカラは夜になると警備と防衛の観点から門が閉まる。

 日没までに滑り込めなければ外で野宿となる。

 今回俺たちも野宿になる事は承知でやって来た。


 だから、朝の開門まではまだ六時間の猶予がある。ここでは終わらせねえ。

 やっと傾いた天秤は、最後まで倒し切る。


「日を改めるこたぁねえ。夜明け、開門と同時に俺と来てもらおうか」

「…何処へ」

「そんなの分かってんだろ。お前が今一番見てえモンの在り処だよ」


 俺は一週間待つほど気長じゃねえんだ。と髪をかき上げながらユージンの目を正面から見据える。

 ユージンは俺の目の奥、俺が考えている本心を探るように瞬きもせず見返してくるが、しばらくしてふうと息を吐き、緊張を解いて目を閉じる。


「仕方ありませんね。ラッカラまでお供しましょう。朝までしばらく寛がれるがよろしい」


 ユージンはそう言って、テントの外に声をかけた。


「終わりましたよ」


 ユージンの呼びかけに応じ、テントの外で話が終わるのを待っていた棟梁が戻ってくる。


「―――まあまあ話し込んだようだな。で、どうだった?」

「話を聞いてくれることになったぜ。明朝、早速倉庫に来てもらうことになった」

「はあ珍しい。ユージンが初対面の相手に重い腰を上げるたあな。こいつはそう簡単に人を信用しない事で知られてんだが」

「ふふふ、常に危険と隣り合わせですからね。易々とは懐には入れさせませんよ」

「おい棟梁勘違いすんな。こいつは俺を信用したわけじゃねえぞ」

「えっ?」

「ほんの少ししか話してねえのにこんな猜疑心のカタマリみてーな奴をたらし込めるほど俺はスゴかねーよ。こいつの予防線はまだ何本も残ってるぜ」

「ふふ、ご明察」


 裏社会で生き抜いてきたユージンはその鼻の良さで初対面から取引に値する人物かを敏感に嗅ぎ分けて来た。

 何度も顔を合わせて言葉を交わし、何重もの関門を乗り越えてこれはと認められた人物たちはユージンに大きな利益を齎してくれる、今も続く重要な取引相手となり。

 不適格としてにべもなく弾いた相手はその全てが没落・失踪・絶息、何れかの憂き目に遭っている。

 ユージンは相手の未来が見えているんじゃないかとまで言わしめるその慧眼は、裏社会に深く関わっている者はまず知っている程だ。



 二度三度四度と顔を合わせ、足音を立てないように板張りの床の上を歩かせるが如く、新規取引を持ち掛けてくる相手に対して慎重なユージンが、一度目でこれほど胸襟を開くとは思っていなかった。


 じゃあ何で。と棟梁がユージンに問いかけると、ユージンは冷静に言う。


「……正義、大義。綺麗事を並べて世の為人の為にどうかと協力を願ってくる人は掃いて捨てる程見ました。名誉、権力を求めて金に物を言わせる欲深も然り。しかしこのお方は――」


 俺の方を横目に一瞥しながら目尻を下げ、


「私と同じ匂いがする。金の事しか考えていない、同類の俗物のような」


 ユージンはとても大きな甲虫を見つけた少年のように、胸を躍らせた。






 ラッカラ・グレンの新事務所



 朝の開門の行列が解消されて人が少なくなった頃に闇商人のユージンと棟梁を連れて戻った俺たちは、そのまま新事務所に向かった。


 三日前の段階で棟梁が手を回してくれていたので引っ越し・搬入は全て完了している。

 ベルク達から定期的に届く()()()などは木箱に厳重に隠しておいたので、俺の指示通りそれらは倉庫の一階と二階に置いてもらった。


「さあユージン入ってくれ」

「どうぞ、中へ」


 先触れによって事務所でゲオルクが出迎えに来ていた。

 闇商人・ユージンに渡りをつけてもらった棟梁は、ここで別れる。


「俺はこの辺で失礼するぜ。グレンさん、また何かあったらよろしくな」

「ああ。頼りにさせてもらうよ。今回は助かった」

「それはお互い様ってもんだぜ。じゃあな」


 門をくぐると同時に飲み干して空になった水筒を軽く揺らして笑う棟梁。

 出会った当初とは見違えて良い目つきと軽い足取りで帰っていった。



 ユージンは見目好く見える石造の事務所ではなく、質素な木造の倉庫に通した。

 混み混みした倉庫の一階には木箱が雑然と積み上げられていて、壁際に放置されるように置いてあるテーブルとイスに着席させる。


「茶でも出そう。ゆっくり待っていてくれ」


 おい、と一言告げた俺は、離席してる間にゲオルクにティーポット一本とカップが二つ載ったトレイを持って来させ応対させる。

 その間事務所に戻り、金庫を開けるとその中にしまわれていた飾り気のない木箱を一つ取って倉庫に戻る。


「やあ待たせた」


 木箱をテーブルに置きながら着席。

 ちらりとユージンのカップを見る。

 ゲオルクに出された茶だが、ユージンはどうやら一口も飲んでねえようだ。


「…冷めちまったようだな。勿体ねえからいただくぜ」


 ユージンの前に置かれていたカップを引き寄せ、そのまま一気に飲み干す。


 うん。ぬるくなっちまったが、やっぱりこれは美味いな。


「お代わりを頼む」

「はい」


 ゲオルクはティーポットから茶を注ぐ。

 トレイに乗っていた新しいカップにも茶を注ぎ、ユージンの前に置く。


「喉が渇いてねえんなら無理に飲むこたぁねえ。気が向いたらでいい」

「…………では、ありがたく」


 ユージンは真後ろを向いて口元の覆面を少しずらし、まだほのかに温かい茶を唇が湿る程度に傾けた。

 向き直る前に覆面を直してから、カップをテーブルに戻した。


「…これは一体何です?」

「あんたなら知ってるだろうと思ったが、違うか?」

「ふっ…。いえ、知っていても、なかなか口にする機会が少ないものでね」

「そうか。何でも手に入れられる闇商人ユージンなら知ってて当たり前だな」

何分なにぶん乾燥させたニジイロタケを挽き、来客に茶として出す客なんてこれまでいませんでしたから」

「クク。これを飲んでるせいか、ここんとこずっと調子いいんだ」

「そうですか」

「格別の味、ってやつだな」


 カップのニジイロタケ茶と俺の顔をゆっくりと見比べるユージン。

 俺が嘘を言っているんじゃないかと勘繰っているようだが、そんなことはしていない。

 俺は、ずっと本当のことを言っている。


「さて、本題に移ろうか」


 ニジイロタケ茶の美味さを知って欲しくねえ訳じゃねえが、今回呼んだのはコイツについてだ。

 テーブルに置いた木箱の蓋をギギッと開ける。


 するとすぐさま立ち昇る、むせかえるほどに甘い、土のような上品な香り。

 木箱の中には布で包まれたダチョウの卵のような丸い物体が隠されており、それは紛れもなく。


「『龍涎香』…!」


 ユージンが文献や噂でも聞いたことがない途轍もない大きさの龍涎香であった。


 首をしゃくるように、『持ってみろ』と無言で促すと、ユージンは蓋の開いた木箱をまるで雛が入っている鳥の巣を高枝から取り上げるようにそっと持ち上げた。


 覆い布など取らずとも、この深みと厚みのあるまたとない特有の匂いが、顔をそのまま至近距離から殴りつけるように立ち昇る。

 見ずともこれが龍涎香と分かってはいるがしかし闇商人としての誇り、一人間の好奇心がその隠されたベールへ手を伸ばさせた。


 布に隠されていた龍涎香は、きっとこの世の誰もが今まで見たことがない、そう確信して言い切れるほどに大理石状の模様がくっきりとした、光り輝ける琥珀色の巨大な宝石だった。


 間違いなく、世界にたった一つの、もう二度と生まれはしないだろう天下の逸品が、この手の中に収まっていた。




「――おい、どうした」


 グレンに声をかけられてはっとした。

 気付くと、ユージンは泣いていたのだ。


 これほどに素晴らしい龍涎香に出会えた感激。それは言わずもがな。

 しかしユージンには残念ながら、この巨大な龍涎香を丸々買い取るほどの資金がなかった。


 龍涎香は香の原料として消費されるために流通する。決して宝飾品とするためではない。


 しかしユージンはこの龍涎香に一種の未練、迷いが生じていたのだった。


『これ程大きく美しい、偶然と果てしない年月が作り出した至宝を、矮小な人間一人の都合で砕くのか』と。


『筆舌に尽くせぬほどの迫力・風格・威厳を放つこの人類の宝を、本当に香料なんかに変えてしまっていいのだろうか』と。


 金貨三枚銀貨五十枚の五十倍。しかし一塊のこれは、どう見積もっても千倍は下らない。

 金貨三千五百枚。それくらいの値打ちはあっていい。


 だが果たして、これに金貨三千五百枚は()()()()()なのか?



 金貨三千五百枚出せば、またこれと同等の龍涎香にお目にかかれるのだろうか。


 ――否。断じて否。



 この龍涎香は古今東西、唯一、この時間この場所この一点のみにおいてしかきっと存在しない。

 もう二度と出てこないのだ。


 それほどの国宝を金貨三千五百枚で売り買いするなど。

 ましてや割り砕くなどあってはならない事。


 これは、世界人民が監視し合い、守り合いながら後世に伝えなければならない、宝だ。




「ユージン。どうして泣いてる」

「………お見苦しい所を。私としたことが」

「で、どうする。買うのか、買わないのか。こんなにデカい龍涎香は世界広しと言えどどこにもねえ。きっと百年、いや千年に一度の――」


 龍涎香の希少さを熱弁する。

 この機会を逃したら損だと、売り込む。


 途轍もない大きさ、迫力。

 得も言われぬかぐわしい香り。

 目も心も奪われそうな美しさ、光沢。


 手に取り、間近で感じた彼は説明されるそれらを誰よりも共感していた。

 喉から手が出るほどに欲しい龍涎香。


 ユージンの答えは決まっていた。


「今回は、見送らせていただきます」

「だよな、当然買う…………えええええええええええッッ!!!!!!??????」




 いやいや。まさか。


 聞き間違いだよな。



「この龍涎香、買うんだよな?」

「お見送り致します」

「……………ッ!!」



 断られた。


 嘘だよ。嘘だって。

 あんなに食いついてたじゃん。



「え。え。龍涎香だよ。こんなにデッカくてスゴい龍涎香だよ。滅多に手に入らない――」

「それは重々承知の上です。熟慮に熟慮を重ねた結果、今回は見送ることと致しました」

「なんでよッ!?」


 …単純計算で金貨三枚銀貨五十枚の五十倍だと金貨十七五枚。


 これ全部買おうってなるとそれくらい金が必要になるけど、今はそれだけの金がないって事か。


「金が問題なんだったら相談に乗ろう。これデカいから、なんなら半分とか十等分にしても――」

「駄目です絶対! そんな事は天地がひっくり返ってもしないでください!!!」

「ビックリした、何だよいきなり!」

「この龍涎香は一切手を付けないでください。このまま完全体のまま残しておいてください」


 切り売りを提案したら猛烈に反対された。

 ここまでずっと落ち着いた声してたのにいきなりデカい声出すなって、メチャメチャビックリしたんだけど。


「でもあんた、これ買わねえんだろ。だったら他の客に――」

「買わないとは言ってません、見送るって言っただけです」

「見送るも買わないも同じ意味――」

「手持ちがないから見送るって言っただけです、今は無理って話です」

「何もしねえで取り置きってなぁ虫が良すぎねえか?」


 今は買わない。小分けにするな、他の客にも売るな。

 手持ち用意するまでずっと持っててくれって無茶な頼みだって分かってる?


 どうすんだよ。

 そう聞くと、ユージンは一つの代案を提示してきた。


「ではこうしましょう。その龍涎香、私が借ります。その保管をグレンさんにお任せします。その代わりとして半期毎に決まった保管料・賃料を支払います」


 龍涎香はこれまで通りグレンさんがお持ちになってください。と手の平を開いた。


「私は借主の権利を買います。賃貸借権が私にある限り、龍涎香には一切の加工・手入れを行わないと契約してください。もちろん保管に関わる経費は全て保管料賃料に包含します」

「はあ」

「そして、こちらを購入するに足るだけの資金が調達出来ましたら、その時はきっちり耳揃えて買わせていただきましょう」

「う~ん…」

「そちらには一切のリスクがありませんから、お得な話だと思いますが」


 そう言って話を優位に進めようとしてくる。

 さっきこいつが言った、“金の事しか考えていない、同類の俗物”と言った割には、俺にメリットしか提示してこない。

 何かありそうだ。


「そうだな。確かにこれは俺にとってオイシイ話だ」

「では」

「だが、お前に得がない」


 単刀直入に聞く。何が望みだ?


 そう問い質すと、ユージンはその言葉を待っていたとばかりに余裕を漂わせ、落ち着いた様子で口を開く。


「傘をお借りしたい」

「…傘?」

「ラッカラに来た際、夜露を凌げる大きな傘があるととても良いのです」


 辺りを見回しながら、半ば歌うようにユージンはそう言う。


「…随分デカい傘だな。そんな傘があるのか」

「ありますとも。雨にも風にも負けぬそれはそれは大きな、薄暗くて湿っぽくて誰も来たがらないような、鼠が住みよい傘が欲しい所です」


 鼠色の覆面の奥の顎を二本指でなぞった。


「ほう~。心当たりが一つあるぜ」

「でしょうとも。そんな条件に見合うような傘があれば、ラッカラで仕事がやりやすくなりますねぇ」


 どんな顔をしているかは分からねえが、さぞ覆面の下で舌を転がしながら笑っていることだろうよ。

 オイシイ話には裏がある。これは俺が一番身に染みて分かってる。


 骨身に染みてそれが分かってるからこそ、また気付くこともある。


 こいつにとってオイシイこの話にも、もう一枚裏があるってことにな。



「…良いだろう。お前がラッカラで活動する間はこの倉庫の地下を貸してやる」

「ご配慮痛み入ります。ではありがたくお借り致し―――」

「もちろん条件付きだ。お前は望まれれば何でも売るし、遠方でも買い付けに行く商人なんだろう?」

「はい。左様で」

「だったらこの倉庫にあるものを優先的に買い取ってくれ。町の商人には流せねえワケあり品ばかりなんだ」

「ワケあり品」

「ああそうだ。例えば、さっき見せたあんな奴が、ゴロゴロ…とな」


 金貨三千枚相当の宝物が、こんな薄暗い倉庫に眠っているとでも言うのか。

 こんな木箱だらけの、何でもない倉庫の中に。


「……御冗談を」

「冗談でも何でもいい。この倉庫の地下を使うんなら、俺の在庫を買い取ってくれ。全部とは言わねえよ。そっちの財布と相談してくれ」


 俺の本業は金貸しだ。あのどうしようもねえ在庫が捌けるなら、遅かろうが細かろうが流し続けられる裏のルートを存分に使わせてもらう。


「物の扱いは商人の…いや闇商人ユージン、あんたに任せる」


 近くにあった木箱を開け、ユージンの前に置く。


 虹色に淡く光るニジイロタケの袋。

 緑色に煌めく大樹の朝露の瓶。

 ねっとりと黄金色を主張する殺人蜂キラーホーネットの蜂蜜の瓶。


 今開いたこの木箱と同じ風合いの木箱が、まだ大量にこの倉庫に眠っている。



 ユージンの肩に手を置き、白い歯を覗かせる。


 しばらく木箱と商品を眺めたユージンはにわかに覆面をずらし、目の前に置きっぱなしになっていたカップの茶を一息に飲み干した。


 ふうと大きく息をつくと覆面を直さずにそのまま立ち上がり、俺の顔を見据え。


「商談成立。これからよろしくお願いしますよ」


 どちらともなく、固い握手を交わした。





「ゲオルク」


 傍に立っていたゲオルクを呼び寄せる。


「これからはユージンがここを出入りするようになる。お前は当面依頼は受けず、ユージンの手伝いをしろ」

「えっ」


 ただお茶汲みの為に呼んだわけじゃねえ。

 ユージンに引き合わせる為に呼んだんだ。


「借金は帳消しにはなんねえ。俺とお前の関係も変わらねえが、当面ユージンに付いて手伝いをしてもらう。ラッカラで大っぴらに動けるお前の協力が必要だ。分かってると思うが、コイツらをユージン一人で運ぶよりお前が加勢した方が多くの品を早く捌ける。ユージン。ゲオルク一人を雇うなら報酬体系はどうなりそうだ」

「そうですねえ。週五、六日勤務で固定給+歩合制と言ったところでしょうか」

「…だとよ。歩合ならやればやるだけ稼げるぞ。その方が俺にとって得だし、お前にとっても悪い話じゃねえと思う。どうだ」


 しばらくの期間ラッカラを離れ、ユージンに付き従って闇商人の手伝いをする。

 闇商人が扱う商品は高額で売れる。リスクもあるが、そのリスクを冒すだけのリターンがあるのだ。


 ゲオルクは目的の為、金が欲しい。

 少しでも手っ取り早く稼げるなら多少の危険は無視したって良い。


 一人で伐採に駆り出されようが。

 立て続けに大工作業に駆り出されようが。

 休みなく都合関係なしに働かされようが。


 死ぬほどの危険は、とっくに飛び込み済みだ。


「まったく、グレンさんは人使いが荒ェぜ」


 多少の荒事は斧一本で切り抜けられる。

 頭をポリポリと掻きながらゲオルクは笑った。

 ユージンは黙って俺たちの会話を聞いていたが、止めることはなく。


「そういう事だ。これからうちのゲオルクが世話になるぜ。逃げねえようにしっかり手綱握ってやってくれ」

「分かりました。折角のご厚意ですから彼には馬車馬のように働いてもらいましょう」

「それ良いねえ。何なら車を引かせてやってもいいぞ、こいつは力持ちだから」

「何言ってるんですグレンさん…!?」

「実に魅力的ですね。私そろそろ馬車を買おうか考えていたところなんですよ」

「馬車!? そんなものを引かせようと…?」



「―――ククク、冗談だよ」

「―――冗談ですよ。ゲオルクさん」


「ちょっと待ってください、今の間は何ですか。まさか本当に馬車馬にするつもりじゃないですよね? ねえ、答えてくださいよ。グレンさん、ユージンさああん!!!」



 この日俺たちは、とても良い商売相手に巡り合った。

面白いと思った方は、★★★★★押していただけると嬉しいです。

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