26.異質
幾つ、階段を駆け降りただろうか。
通路を走る小さな背中からは、まるで迷いを感じさせない。二つの軍靴が冷たい床を踏み鳴らす音だけが、今も木霊している。
時々足に当たる空薬莢の金属音を、今の彼女は気にも止めない。先程と違う彼女の姿に、この先に間違いなく『分岐点』となる何かが起こると思った。
……などと考えている今、移り変わる光景の僅かな違和感が、僕の中で引っ掛かる。
「(この道は僕も知らない…。何故トクサはこの道を知っている?……いや、知らない筈だ。彼女は恐らく『第8班』からも出た事が無い。複雑怪奇なアカツキの道順を知る事は出来ない筈だ)」
下階に続くスロープとそれに連なる階段。トクサはその先へと降りていく。
無謀な前進を只ひたすら選択出来るのは、この道を知っているか、もしくは『それ以外の何かが彼女に呼応しているか』の二択だ。
これまで見られてきた彼女の行動や言動を鑑みれば、後者の方が説得力が生まれる。が、それはきっと、彼女自身の存在が『異質』である事を決定付ける事になるだろう。
「(『鬼が出るか…それとも蛇が出るか……』か)」
━━その時だった。
「━━━━!」
ふと、嫌な予感を確信へと変えるヒリついた空気感が、僕の頬を掠めた。トクサも同様に感じ取ったのか、一瞬だけ息を呑むと一度止まり掛かった足に更なる拍車を掛け、廊下を力強く踏みしめる。
一歩先。更にその先。走る彼女の後姿からは、『早く皆の所へ行かなくては』という強い焦燥が滲んでいた。何度も躓いて前のめりになり、今も危うく階段を踏み外しそうになるが、それでも足を休ませる事はない。最奥にある扉のドアノブを何度も捻ると、錆び付いた音を響かせて開いた。
すると、黒ずんだ真鍮を彷彿とさせる暗い通路とは打って変わり、久しく見ていなかった白けた世界へと変わる。その光景には見覚えがあり、自分達の拠点が近い事が伺えた。
……同時に、鼻を掠める強い機械油のような臭いも、僕は感じ取ってしまった。それは人で言うならば『血液』に等しい、取り返しの付かない迄に命が壊れた臭いだ。
「(この臭いはまさか……っ)」
「…………ダメ」
漏れたような呟きは、受け入れ難い現実の拒絶か。まだ頓挫していないという奮起か。トクサだって同じような『終末感』に肌身で気付いている筈だろうに、血が滲んだ震える脚を止めようとはしない。
「━━━━━━━━」
トクサは、そこでやっと、立ち止まった。
止まった理由は簡単で、そこが彼女の目的地だったからだ。
「っっ…………」
僕達を待ち受けていた光景は、『凄惨』の二文字が正に相応しい。思わず息を詰まらせる。
地下まで忍び及んでいた敵国の牙。武器を携え、防衛しているのは僕達の仲間だけ。
周囲に飛散した肉と思わしき柔らかな異物と、噴出した黒色をした油の様な飛沫。それは決して、人を構成する物質ではない。しかし、それよりも僕の罪悪感を強く刺激するのは、その奥に織り連なった三つの塊だった。
「……トクサ……ごめん…なぁ……っ」
静寂がイヤという程耳を劈く廊下には、小さな嗚咽すらよく響く。
濁った、青い液体に染まった肉の塊のすぐ隣。背中が染まったスオウが、力無く座り込んでいる。彼女の酷く衰弱した声を聞くのは初めてで、嫌な脱力感と共に心臓の奥が冷たくなっていく。
……僕達は
間に合わなかった。
既に息絶えたトリオン達を直視しながら、トクサを呼んでいたのはきっと彼等…もしくは彼女等なのだと察した。
「……突然、現れたんだ。奇襲を仕掛けてきた敵兵が『良くないモノ』だって勘づいたのかは分からないけど……。スオウはあの三匹に守られた。…盾になる事を選んで殉職したんだ」
「…………」
クロガネは言う。が、僕は何も言う事が出来ない。凄惨な時のまま静止した世界に自身も溶け込んでしまったかのようだった。
後ろ指を突き刺す様な咎と、渦巻く無力感が『動く』という選択肢を許さない。ましてや此処まで走ってきたトクサの方を見る事なんて━━━
「…………トク…サ…?」
トクサが視界に入り込む。しかし、何処か様子がおかしい。スオウの呼び掛けにも彼女は動じない。
そこには彼女を彼女たらしめる『核』のような物が消え失せている様に感じた。何物にも捉えられない『異質さ』を帯びた彼女の瞳は、真っ直ぐトリオン達へと向いている。歩をゆっくりと進めているのにも関わらず、追い付こうとする事が不可能だと、僕の脳は逆算した。
「……待ってくれ、トクサ。君は一体何をするつもりだ…!?」
止まらない。彼女は歩き続ける。
「トクサッ!!!」
止まらない。彼女は歩き続ける。
次第にトリオン達の膝元へと近付き、身体を四つん這いに屈めると
「━━━アアァ」
戦獣の腸を、喰らい始めた。
躊躇いもなく、戸惑いもなく。
ただ肉を咀嚼する音が、静かな廊下に溶けていく。




