117.見送り(1)
━━不思議と、意識はハッキリしている。
この場所には何度も訪れているからか、それとも限界を越えた故に苦しみから解放されかけているのか。何もかもが、手に取るように分かる。
継承記憶体の内側。胡蝶の夢の僕の部屋を模倣した筈の場所には、既に何もなかった。━━いや、厳密には布団や家具、ゴミの全てが取り払われた『引っ越しの準備』が終わった後のような、何もない部屋に僕達は居た。
「『飛ぶ鳥跡を濁さず』━━ってな。アッチの世界の言葉で悪いが、すっかりと片付いちまった。
……未練とか、恨みは無いのか? 俺が介入した所為で、この世界の『ウスズミ』の寿命は━━━」
「アイスケ」
それ以上言わせてはならない気がして、反射的に俺の名前を呼ぶ。互いに一瞬だけ、口を紡ぐ。
未練がない訳が無い。恨みだってある訳じゃないが、僕だって『情報』や『記憶』として存在してるだけの、胡蝶の夢に広がった青天井をこの眼に写したかった。
━━けれども『後悔』は無いから、僕は一足先に紡いだ口を開く。
「━━あるのは全て、結果だけだ。可能性があるとしても、結局は帰結するんじゃないかなって、僕は思う。
選択したのは僕と俺だ。此処までの道程の果てには丁度良い、漠然としてるけどそんな『終わり』じゃないかな?」
何故だか、僕自身でも疑問に思うくらいにおどけ砕けた態度で、胡座をかく俺を見つめる。本来交わる筈の無い二つが一つと相成り、此処までの時間を駆け抜けた。━━駆け抜けたのだ。
あまりにも早く、長く、相反しながらもそう思わざるを得ない時が僕達を網羅して、今こうして終末を迎えている。その果てに僕は死ぬが、同じ時の果てにトクサという一人の少女の願いを叶えることが出来る。
━それだけでも大きな救いだと思えるから、僕は何処か浮わついている。だからおどけているのだと思う。
そんな僕を見てか、俺の笑う声は高らかに、『呵呵』と部屋のしじまに染み入った。
「なんだよ……罪悪感を感じてるのは俺だけってか?
……俺が入ってお前が変わったのか、元々碎けた人間味をこの世界が封殺していたのか…。━━そんなふざけて笑うような人間だったんだな、最初から」
「此処まで解れて笑えるのは俺が居たからだ。
僕がキナリのような怪物にならないように鎮座したのなら、僕を人間に留めたのは…歯車から人間にしたのは、間違いなく俺だよ、アイスケ」
俺が来るまでの僕を振り返れば、そこに佇むのは友との語らいにすら相好を崩さなかった歯車の姿。継続性の一部として存在する機械的な男の姿が見えることだろう。
━━色の無かった僕に、俺は僅かに色を与えてくれた。無色やモノトーンと言われればそれまでだが……
それは間違いなく存在する『薄墨』の色だ。
「━━そろそろ、だな」
「……みたいだね」
此処は継承記憶体。外界からの干渉する事の出来ない、不可視のブラックボックス。……その世界に、『ヒビ』が入った。
この身体が、命の限界が迫っている事を知らせている。カウントダウンが秒読みの段階に入ったのだろう。ヒビは読んで字の如く、刻一刻と空間に広がった。
「俺は元々死んだ身だからな。……コッチで死んだら、一体何処にいくのか分からない。
…お前は最後のお別れでも済ませてこいよ、ウスズミ」
「……此処まで、ありがとう。宇涼逢丞」
ヒビの音。音。音。耳をつんざいたかと思えば、互いに。
目の前を、黒色の瓦礫と意識が覆い尽くした。