10.困惑の中(2)
(3)に続きます。
くぐもった、規則的な音の連続が心地よく自身の焦燥を埋めていく。手を休める事無く紙を捲る音が、逆立った神経を優しく抱擁しているのが分かる。
世界の解像度が変わった訳では無いが、徐々に余裕を取り戻しつつあった。彼に聞きたい事はあるが、今は少し気を休めるのも大切だろう。他者に気を遣うよりも、自身を第一に考え大きく背伸びをした。
「…僕もコーヒーを貰おうかな。お湯は何処にある?」
「あっち。特に美味しいもんでもないよ」
相も変わらず、クロガネの目線と声は自分に向く事は無い。まるでオブジェか何かに話しかけている様な素っ気なさには慣れるまでに時間が掛かりそうだった。
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指の差された方向に向かうと、壁に溶け込んだ同系色の土台の上で、既に彼が淹れたであろうコーヒーの残りがサイフォンの底に溜まっていた。
隣の棚には、コーヒーに投入する粉末状のミルクと砂糖類が常備されている。…此処の平均的な年齢が低い為だろうか、双方総じて在庫が心もとないといった具合だった。
「(……使わないでおくか)」
個人的にはカフェオレの方が好みだが、ブラックが飲めない訳では無い。状況を察するに自分の好みを押し通すべき場面ではないだろう。
コーヒーはというと、既に少し冷めているからか温もりこそ感じるが、湯気が立っていない。これなら間違っても舌を火傷することは無いだろう。…念の為、温度の確認も兼ねて一口を含む。
「っっ…!? (何だよこれ…コーヒーってこんなに不味かったか!?)」
自分の記憶と味覚の中に、突如大きな齟齬が発生する。強い摩擦で口の中が軋んだような気分だ。
賞味期限の過ぎたインスタントコーヒーを、黒豆か何かと一緒に煎じたかのような尖りに尖った香ばしさと、苦味に化けたエグみが舌の奥底で開く。何とか飲み込んだ物の、数秒の間に感じる不快感はとてもじゃないが、次の一口を飲む事も億劫にさせる。
同時に、口に含んだ瞬間。朧気に粗立っていた画素が鮮明となった。
この国において嗜好品の類は非常に少ない。このコーヒーの紛い物か、人為的にわざとらしい香りを付けた水。それと安いタバコ位だろう。
彼方側の世界には、これ以上の嗜好品がそれこそ砂粒並みに存在していて、殆どは手の届く位置にあった。…その経験は、経った数時間の間に、自分に定着していた。
「(…淹れた分は流石に飲むしかないな。口もつけちまったから戻せないし)」
肩を落としながら…というよりも、自然と肩が落ちていく。重くなる気を抱え込みながら、事務作業室へと戻る。
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「よし…。(調教記録に備品の申請書…。作戦起案…。全体的にチェックは完了っと…)」
内容は主に三匹に施した調教の内容、健康状態を記した記録。戦獣の用途に適した作戦の起案。第8戦獣調教班に足りていない備品の申請。誤字脱字に関しては勿論だが、例えば作戦起案において矛盾箇所が無いか。無駄なプロセスを挟んだことで、作戦に不備が発生する恐れがないか否かまで、隅々をチェックした。
途中背後をルリとトクサが通っていったが、相変わらずスオウは帰ってこない。リンドウも常時作業をしているからか、顔を見せる事は無かった。
細かくなりすぎてしまうのが性分だからか、両目と頭が非常に強張っている。書類の束を手元で揃え、テーブルの上でまとめ上げた後、再び背伸びをして緊張を解す。
「…明日届けて来るから、元の場所に置いておいて欲しい」
「分かった。…そういえば、装備点検は手伝った方が良いだろうか?」
「いい」
……クロガネとの会話が続かない。話し掛ける度に、分かりやすい拒絶を感じ取る。
一人で黙々と作業をする方が集中できる系統の性格なのだろうと、書類を片手に、元々置いてあった場所へと置きに行く為、その場から席を立つ。
「…何を一生懸命にしてるのか知らないけどさ、そこまで必死になってうろちょろしなくて良いよ。此処はそんな『動き』で評価される所じゃないんだから」
目線は変わらず装備に向いているものの、その発言は自分に投げかけられた物だった。しかし、そこに込められているのは決して良い感情では無い、何処か引っかかる物言いだ。
一度立ち上がった物の、再び椅子に座って、面持ちを正す。
「どういう事だ? 動きで評価されないっていうのは…」
「分からない? 無駄に動かれると邪魔だって事だよ。こんな『掃き溜め』にまで落ちて、頑張って動き続ければ評価されて、戻れるだなんて根拠のない羨望にでも縋っているのかい?」
「………」
彼の言葉を黙聴する。
「もう僕は諦めた。此処は完全に行き止まりなんだ。動く事に何の価値もない、出口のないゲームオーバーだ。どのように処理されるかも知らされず、此処でずっと…生かされながら殺される。退役する事もなく朽ち果てる。楽しむ事なんて何もなく、ただ過ぎる時間を無為に過ごす。
…それが『第8戦獣調教班』の正体だよ。ウスズミ・フォルシー上等兵」
「………」
先程まで自分を取り巻いていた違和感の正体が今、彼の口から話された。唐突に突き出された回答に、身体を抱擁していた余裕は消え失せ、神経が一層逆立ち始める感覚に触れる。
「………だから此処まで無秩序なんだね」
「あぁ、その通りだよ。…僕達は各部隊で役立たずとされて、飼い慣らす事もままならないと判断された捨て駒。体のいい厄介払いとして此処は利用されている。だが、部隊として存続させなければならない理由があるのか、上層部はリソースをこの班にも割いている。
…ライジュウ三体だけの小さな仕事ばかりを寄越して、搾取に等しいやり方で僕達を生殺しにする上層部には、腸が煮えくり返る」
「じゃあ…この嘆願書は…」
懐から一枚、嘆願書を取り出すとクロガネの表情に嘲りを帯びた笑みが浮かぶ。
「あぁ…。棄却されたヤツか。もう随分前に書いたヤツだよ。厄介払いの為の部隊に…仕事なんかくれてやるかってな。…僕はホーマ家の血を継いだ由緒ある家系の男なんだ。なんでこんな所で、下から懇願なんてしてるんだろうね」
「(やっぱり…)」
この国に置ける名誉軍人の家系。それが『ホーマ家』だ。
実践で幾度となく戦果を掲げ、今現在この国の装備として宛がわれている錬鉄強化軍刀『カマイタチ』、錬鉄特殊拳銃『オニビ』、錬鉄補強可変自動小銃『クズリュウ』の三種。
それらの開発を取り仕切った、国家でも有数の高貴な血族だった。今現在一家を仕切っているのは『ガンメタル・ホーマ中将』であり、一線こそ退いている物の、慧眼は衰えていないと聞く。
…だからこそ、クロガネのトゲの立つ発言に裏付けられている物が何なのかを、大まかに察してしまい、自分の顔も僅かに苦々しくなる。
「…劣等感、か」
「…何?」
「『自分はこんな所で収まる存在じゃない』って…。そう思ってるからこそ腹立っているんじゃないか?」
自分に彼の思いを、家柄上発生するプライドを侵犯する権利は無い。けれども、彼のプライドの高さは、恐らく近い内に不和を呼びかねない。一歩踏み出して、彼の内側に踏み入れる。
「…僕の話を少し聞いたくらいで、全部知った気になるなよ。そんな下劣な感情を抱くものか。…情報偵察部隊で当然の仕事をしていただけだぞ? …なのに、何故こんな掃き溜めに落とされる…?
何処に劣等を感じる? これは正当な僕の怒りだ。何も知らない癖に」
肩が震えている。表情に違わない、静かな怒りを表出する。
当然だろう。自分は今、彼を審判したのだ。判断したのだ。一方的な自分の視点のみで、彼を決定付けた。
けれど、これを自分は受け止めなければならない。掃き溜めの長だとか関係なく、自分は年長者として彼の言葉に耳を向けなければならない。
「少ない情報で事を断定するなよ。能無しが」
「…そういう、何かにつけて鼻に付いた所が、情報偵察部隊の秩序を乱していたんじゃないのか?これも断片的な事を聞いた上で、なおかつ推測になるけどね。
自分はそこまで気にならなかったが、人によってはその物言いは不快になる。縋る後ろ盾があると、省みる事が出来なかったりする事もある。…強い言葉を使い過ぎた自覚はあるかい?」
「………今は戦争中だろう? 言葉遣いよりも、情報が如何に正確に伝わるかどうかが大事なんだ。
立場なんて気にしてお決まりの型にはまった言葉なんて、まどろっこしくて使っていられないだろう!! 僕は何も間違った判断を下していないっっ!!」
彼の吐く言葉からはより一層の、自分に対しての嫌悪が強く露出する。同時に領域を侵された事で自己を守ろうとする必死さも伝わってくる。…恐らく、自分の告げた言葉は殆ど図星だったのだろう。
涙をこらえている為か、彼の表情にも余裕が無くなっている。見開いた黒い目は内側に赤色を秘め、時折目尻がヒクついている。
「あぁ…きっと君は優秀なんだろう。君の言う『掃き溜め』とやらに落とされて、さぞ悔しいだろうな。自分の家柄を穢してしまったからなのか、それとも自分を受け入れられなかったからなのか。例えどちらでも俺はクロガネを否定するつもりは無いし、そういった面も含めてクロガネだと受け入れる覚悟は出来ている。
…劣等感なんて誰だって持っても構わないが、その代わり誰だって身の丈に合わない目に合う事だって合うもんだよ。だから劣等感なんて嫌な感情が生まれるんだから」
この言葉はきっと、『宇涼』の言葉なんだろう。誰かの助けになろうとする性分なのか、自然と自分の目線はクロガネにフォーカスされていた。