3.だいすきなせなちゃん
瀬名が帰った後、夕食の席につくと、母親が頬を膨らませていた。
「もう! キョウちゃんったら! もっと頑張らなくちゃ!」
「……頑張ってるよ」
「さつきさん。まあ落ち着いて」
「キョウちゃん。瀬名ちゃんが好きじゃないの!? もっと格好よくならないと!」
黙って夕食を口に運ぶ。
好きに決まっている。
中学入学を境に態度を一変してしまった、たった一人の大事な女の子。
保育園の時、身体が弱くて休みがちな俺は、除け者やいたずらの対象にされやすかった。月に数度しか来ない子供なんて、保育士だけじゃなく、同い年の子供も扱いに困ったのかもしれない。一人寂しく砂場で遊んでいたら、ガキ大将的な太めのガキにスコップをいきなり取り上げられた。知らない奴が俺たちのスコップを使ってんじゃねーよ!ということを言っていた気がする。俺は言い返せなくて、怖かったはず。よく覚えていない。その後、現れた可愛いヒーローに記憶が上書きされたせいだ。
「たっくん、カッコ悪い! いじめる人、カッコ悪いんだー!」
女の子の高い声が、ガキ大将の動きをピタリと止めた。
「うっせー! 瀬名! どっか行け!」
「先生に言ってこよー!」
怯んだガキ大将が動きを止めている間に、女の子は俺の手を握って走り出した。ほんの短い距離でも俺はすぐに息が上がってしまうけど、思いっきり走るのは悪い気分じゃなかった。
ヒューヒューとした呼吸を繰り返す俺に彼女は慌てて立ち止まり、近くの遊具のブランコに俺を座らせた。
「ごめんね! 体があんまり強くないんだよね」
「だ、だ…だいじょぶ。……久しぶりに走ったから」
胸を押さえて息を整えると、彼女がじっと俺を見ていることに気づいた。周囲の大人と同じ――憐みの目をしているのかと思えば、彼女の目には心配と興味があるだけだった。
「うーんと、どこか悪いの? びょうき?」
「ううん。びょうきじゃないよ。生まれつき、体が弱いって、おとなは言ってる。だから、僕、他の子より体が小さいんだって」
「そうなの?」
「うん。もっと大きくなりたいな」
「でも…たっくんより、たかのくんの方が、カッコいいと思うよ」
「え?」
「たっくんはいじめするもん。たかのくんは、いじめないから」
「僕、弱いよ」
「大きくなったら強くなれるって、先生たちよく言ってるよ。たかのくん、やさしそうだし、大きくなればだいじょうぶだよー、きっと」
弱くて小さくても。休みがちでも。
自分を認めてもらえたみたいで、嬉しかった。
やさしいのは君の方だよ。
「ぼく、きょうへいっていうんだ。きみは?」
「きょうへいくん…キョウちゃんだね! わたしはせなだよ」
せなちゃん。せなちゃん。何度も頭の中で繰り返した。
せなちゃんが呼んでくれたキョウちゃんという呼び方で、家でも呼ばれるようになった。
その時は俺よりも背が少し高くて、笑顔の可愛い女の子。しばらくは身長を競い合っていたけれど、小学校を卒業したあたりから俺の身長がどんどん伸びて、彼女との差は開いていった。ひょろひょろで女の子に間違えられそうな恭平から変われるのが嬉しかった。
最初は保育園で会える優しい女の子。優しいから好きになるのも早かった。優しくて庇ってくれる彼女といっしょにいれば、弱い自分も生きていける。そんな打算も働いていたかもしれない。
でも、段々と気持ちが変化していった。他の子にも優しくしている彼女を、独占したいと思うようになった。自分を優先してくれず、癇癪を起こす俺に、彼女は戸惑った表情をたびたび浮かべていた。彼女は他の子が同じことをすると「我がまま言っちゃダメ」と注意したのに、俺には戸惑いを見せるだけで注意しなかった。他の子と同じ扱いは嫌なのに、そこは同等にしてほしかった。自己中心的なガキだった。
二人でちょっとした喧嘩をすると、他の女の子や先生が世話を焼いてくれたけど、全然楽しくなかったし、嫌だった。せなちゃんが良かった。せなちゃんだけが特別だった。喧嘩しているはずなのに、泣きながら「せなちゃん」を探したものだ。
「キョウちゃん! 聞いているの!?」
「聞いてるよ」
母のぷりぷりと怒る声に、現実に引き戻される。
「まあでも。あなたは私に似ているから、心配はしていないのよ」
「身体のこと?」
「それもあるけど…私たちは一途なの。周りから見ると怖いくらいにね」
無邪気に笑う母を見て、頷いた。
母からは身体の弱さといっしょに、相手への執着にも近い想いの強さも受け継いでいる。俺たちは捨て身になれる強さがあった。
相手の心を手に入れられるなら――どんな手段でも使うだろう。
だけど、本当は嫌われるようなことをしてしまったんだろうか。ずっと考えている。中学入学と同時に瀬名は遠くに離れて行ってしまった。お荷物だった自覚はある。何でも世話を焼いてくれたし、自分を優先してくれた。それを当たり前のように甘受していたから、本当に反省するしかない。
少しでも挽回しようと、頑張っているものの、彼女の心は一向に近づかない。離れていく一方で、焦るばかりだ。
夕食を終えて立ち上がろうとした俺を、両親が呼び止める。
「そうだ、キョウちゃん。風邪が流行っているから普段よりも気を付けてね」
「社内でも広がっていてね。嫌なことを言うようだけど、年に一度はどうしてもこじらすだろう? だから気を付けてほしいんだ。体調がおかしいと思ったらすぐに休みなさい」
「ん。分かった」
といっても、防ぎようのないこともある。
マスクに手洗いうがい。学校は休みたくない。外出を減らしてもダメな時はダメだ。
そして一週間後。
俺は呆気なく高熱を出し、学校を休むことになった。