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 嵐の翌朝、お城の食卓には喜びの滲んだ声が響いていました。


「まあまあ。ではついにご決心なさったのですね」


 太守さまの叔母君の声です。


「ええ、わたしも一族唯一の跡取りですから、もう足踏みをしている場合じゃないと自覚しました。早速姫さまとお会いすることに致しましょう」

    

 そうと決まれば、叔母君の段取りの良さは目を見張るものがありました。あちこち早馬を飛ばして方々に連絡を済まし、五日日にはお見合いの日程を組んでしまったのでした。


 お見合いの場所は、お姫さまが住む草原の集落でした。普通は嫁入りする側か足を運ぶものなのですが、太守さまが自ら出向きたいと意見したのです。これまでと同じように自分の棲家に閉じこもっていては、何も変わらないと思ったからかもしれません。


 草原の姫さまは大変美しいひとでした。束ねた黒髪がひざ元まで届くほど長く流れ、それでいて乱れやほつれは一切ありません。


 太守さまは一目で好きになってしまいました。いいえ、元から好きだったのですが、自らの気持ちを確信したと言えるでしょう。この人と結婚したいと、強く思いました。


 姫さまはずっと穏やかな微笑を浮かべていたらしいのですが、何を話したかはよく覚えていません。慣れない行事に緊張していたためでしょう。太守さまは美しく愛しい人と話せたことがただただ楽しく、その記憶をおぼろげに反芻させながら帰りの馬車に揺られているのでした。


 それから、手紙は届かなくなりました。


 往信が無事に着かなかったのかと思い何度か送り直しもしましたが、返事は一向に戻って来ません。姫さまが病気に遭ったとか、大けがをしたとかいう報せもありません。うんともすんとも聞かないまま数日、数週聞か経ち、やがて月の名前も変わってしまいました。始めは憤っていた叔母君も、今やすっかり草原の姫さまのことは忘れ、他のお嫁さん候補探しに奔走しています。


 太守さまはこの頃、城内の庭園で楽器を奏でています。ヒョウタンと羊の皮で組み上げた弦楽器です。たった一人の演奏ですが、時折川の水音がちょうど噛み合って、あたかもアンサンブルをしているように聞こえるのでした。


 ところがその日は、もう一つ音楽が聴こえます。笛をひょろひょろと吹き鳴らす音です。太守さまは辺りをきょろきょろ見渡しますが、人影はありません。どうやら壁を一つ隔てた隣の部屋から聞こえてくるようでした。


 笛の音色はつっかえがちで、お世辞にも上手とは言えません。ですが、弦の響きと水流のすき間をまるで淀みなく流れるものですから、決して耳障りになりません。聞き始めは僻陶しいと思った太守さまも、次第にこの音が恋しくなって、もっと大きな音量で聴きたいと思いました。


 太守さまは庭園の扉を開いてやりました。こもりがちだった笛の音がにわかにたくましい響きを得て、水風船のように豊かな弾力さえ伴ってきます。壁の向こうの演奏家も、太守さまの弦の音色に楽しくなったのか、息心地が軽やかになったようです。           


 対の楽器弾きは、そのまま長いこと合奏を続けました。時間が経つにつれて調和は深みと色合いを増していきます。ほんの数本の弦と管からなる交わりが二人の心の奥深い部分を通わせているというのは、まことに不思議な出来事です。それはそれは、言葉で言い尽くせないほどの幸せな時間なのでした。


 やがて合奏は終わりました。日はすっかり砂漠の地平の裏に隠れています。扉の入り口に、少年が立っていました。寂しそうで、嬉しそうな面持ちです。


「とても楽しい演奏会だったよ。お前は笛も上手だ」


 太守さまは少年の頭に掌を乗せ、柔に撫でてやります。少年は恥ずかしそうにはにかんで、演奏に使った木の笛をすっと差し出してやりました。


「笛を洗っておいで」


 太守さまは部屋を流れる川を指し示します。少年は一瞬戸惑いの表情を見せましたが、やがて明朗な返事をして水際に駆け寄っていくのでした。素直で快活な、いつもの少年の性質です。


「太守さま、見てください。ほら!」


 と、少年は落ち着かない声で主人を呼び、水面を指差します。そこには笛を洗う少年の姿が墨で描いたようにくっきりと形描かれているのでした。


「僕の顔が映っています」

「ああ、そうだね。……お前は今初めてこれに気づいたのかい?」 


 少年は頷きました。常に太守さまから目を離さずに侍る少年は、庭園の川面が鏡になることを知らなかったのです。


「わたしの部屋においで。こんな波立つ水面じゃなく、もっと滑らかに磨かれた鏡面でお前を見せてやろう」


 太守さまは少年を連れて自室に戻り、因縁の姿見を引き出しました。そして、少年と真横に並び立ち、大小二つの鏡像を映し出しました。


 その姿は、光と闇を描いたように対照的です。少年の顔はみずみずしく、未来への希望に満ち溢れています。却って太守さまの面立ちは、年老いた病人のように激しく崩れ、朽ちかけています。


 さて、太守さまは決めつけに近い想定をしていました。この鏡の前に立つなり、少年の顔はみるみる歪み、尋常でない嫌悪感を示すはずだと。しかし、予想は外れました。少年はその片方の眉毛すら寸毫たりとも動かしません。さっき水面を眺めた時と変わらない、鮮やかな潤いを瞳に保っています。


 もはや太守さまは、何を問う必要もなくなりました。全て悟ったのです。


 少年は美を知らないわけじゃなかったのです。誰に恥じることもない高潔な価値観を持ち、隠されたそれを見抜く審美眼すら備えています。


「お前は、美しく成長するだろう」


 太守さまはぼそりと呟きました。少年はその声が耳の穴から滑り落ちてしまったかのように、落ち着き澄ましたままです。彼が何を思っているのか、太守さまには掴めそうで掴めません。


 ふと、姿見の縁取りの隅っこに、小さな泥のかたまりがついていることに気づきました。空気に晒されてカラカラになっていますから、随分以前から汚れていたようです。それで太守さまは、どうして自分が醜く映るのかもおおよかりました。


 太守さまは新しい鏡を買おうと思いました。次の鏡は、多少小さくなってもいいから、汚れや傷がつきにくいものにしようと考えました。それから、鏡を綺麗に保つには己の心がけがもっとも大事だという事にも気づきました。


「アズイール、お前にも鏡を買ってあげよう。自分の部屋に鏡が無いと、色々不便だろう」


 と太守さまが提案すると、少年は鏡に向けていた首をぷいと捻って、低い目線から太守さまの横顔を見つめます。大守さまの真意を窺おうとしているようですが、それが功を奏したのかどうかは判断がつきません。


「いえ、必要ありません」


 太守さまには意外な返事でした。己を見つめ自省するためには、よく磨かれた鏡が必要です。そんなことは、賢い少年なら百も承知のはずです。思わずどうしてだと訊きました。


「部屋に鏡が無くても、僕はいつだって自分の姿を捉えることができます。だって太守さまのよく澄んだ瞳の奥には、水面よりもガラスよりもずっ寸れいな、僕の姿が映っているのですから」

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