二
それから暫く経ったある日のことでしだ。太守さまの住む砂漠は、猛烈な砂嵐に襲われました。外はごうごうと唸りを立て、城の中はみしみしと激しく軋んでいます。
叔母君は、「嵐のせいで手紙は届かないわ。きっと今目辺り届くはずでしたのに」と嘆いていました。太守さまにとっては好都合です。けれど、そんなことは心の片隅にあるかないかくらいの事柄でした。太守さまは、他に心配ごとがあったのです。
「アズイールは、どうして帰ってこよう。この嵐の中、例のキャラバンでは長い道のりを乗り越えられまい」
少年を送迎するキャラバンは小さいながら上等のものです。従順で体力のあるラクダを四頭引き連れ、信頼できる案内人が二人伴っています。水や食料も積んでいるし、いざという時のための武器だって備えています。けれども、砂の暴風のなかでは一切役に立ってくれません。人も動物も、砂の流れに体の自由を奪われ、動けなくなってしまいます。
「迎えに行こう」
太守さまは身支度を始めました。城には立派な馬車があります。硬い木の材と動物の皮で組まれた丈夫な造りで、大人が五人乗り込むことができる代物です。それに乗って迎えに行けば、ひどい嵐の中でも無事に進めるはずです。
「何もわざわざ馬車を出す必要はありませんのに。放っておけば、直に嵐は止みますよ」
と叔母君はぼやきますが、太守さまは耳を貸しません。この悪天候の中少年たちが砂漠で立ち往生してるかと思うと、居ても立ってもいられないのでした。
城の入り口扉を開くと、暗闇と砂粒のモザイクが広がっていました。それ以外には何も見えません。じっとこらえていても、目が慣れることさえありません。晴れの目は遠く地平線まで見渡せるはずが、今は城壁の影すらはっきり認識できないのでした。
たとい眼が利かなくても、太守さまの足取りは乱れません。普段から巻きつけている長いターバンが、砂の浸食から顔を守ってくれます。一歩一歩足元の感触を確かめるように歩を進めると、やがて城門の前に引き出した馬車に乗り込みました。
城に務めて長い中年の御者が馬を走らせます。特性の皮ヘルメットで顔を覆われた馬たちは、砂嵐を苦としないのでした。速度は平常よりずっと穏やかですが、人が歩くよりかはよほど速そうです。
「あの日の晩も、まさしくこんな天候だった」
太守さまは昔のことを思い返します。大切な顔を傷つけられた、あの恐ろしい一夜のことです。
盗賊たちは、砂漠に入った直後からキャラバンをつけていました。砂嵐で視界が悪いのを利用して、機会が訪れるのをずっと待っていたのでしょう。
「お父さま、お星さまが見たい」と太守さまがわがままを言って、馬車の戸が聞かれた時でした。辺りを取り囲んでいた盗賊たちはあっという間に小さな太守さまを捕まえて、人質にしてしまったのです。太守さまは必死に手足をじたばたさせて、父君と母君の名を呼びました。
「――ええい、やかましいガキだ。舌を切り裂いてしまえ」
と盗賊が薙いだ小刀は、思い描いた軌道を外れて太守さまのお顔を傷めつけました。太守さまはえーんえーんと泣きだします。それからすぐに馬車の奥から用心棒が飛び出してきて、悪人たちを一網打尽にしました。無事に救出された太守さまは、父君の胸元に抱かれながら帰り路を往きます。小さくて、癒えない傷を伴いながら――。
あの記憶は、今でも事あるごとに甦り、太守さまを苛みます。とりわけ今日のような砂嵐の日は、昨日見た記憶のように鮮やかに再生されて言いようもない凄まじさを与えるのです。
いつしか記憶の中の幼子は、アズイール少年の姿へと変貌していました。そうして太守さまは気づきました。「今宵わたしが恐れているのは、アズイールが盗賊に傷つけられやしないかということなのだ」と。
焦りの募った太守さまは、御者を急き立てます。もっと速く。もっともっと速く、と。しかしいくら車輪が勢いよく回ったところで、太守さまには一向速くなったように感じられません。どころか、次第に遅くなった気さえいます。そんなものですから、今夜の旅は一際長く、じれったいものに思われるのでした。
「気持ちばかり急いても仕方ない。今は落ち着くのだ。冷静に、あらゆる事態への対応を考えておこう……」
馬車が一刻も走ると、漸く焦りは鎮まってきました。盗賊が現れた場合の動きを想定し、武器の刃を磨いておきます。
やがてその思考も一段落すると、太守さまは却ってどっしりとした心持ちで外の様子を窺うのでした。少年たちの傍を通ったのならゆめゆめ見逃すまいと、そう硬く決めこんでいます。
果たして少年たちは、砂漠のど真ん中にうずくまっていました。学校のある街とお城との、ちょうど中間地点あたりでしょうか。流石のラクダたちも疲れ果ててぐったりしていると見え、人間たちは身を寄せ合って寒ざと砂のちょうちゃくから互いをかばい合っている様子です。
馬車が近づいても、少年たちはつゆも身じろぎしません。太守さまの掌が肩に触れてようやく、助けの到着に気が付いたほどでした。
「眼も耳も利かなかったのだろうな。可哀想に」
太守さまは震える少年たちにそっと綿布をかけてやり、馬車の中に引き入れました。中は掌で包めそうな小さなランプの炎と、お城の庭で採れたかぐわしい乳香が焚かれていて、優しく暖かい空気が充満しています。
少年は安心しきったように思いきり身震いして、太守さまにお礼を言いました。
「僕は嬉しくて仕方がありません。太守さまはこの凍える砂漠をうんと走って、僕らを助けに来て下さいました。一体どうやってこのご恩を返していけばいいのでしょう……」
すると太守さまは、
「何もしなくていい。今まで通り、わたしに忠実に仕えてほしい」
と言うので、臣下たちはますます感激するのでした。
体についた砂を拭き取った旅人たちは、座席に腰掛けてさかんに口を開きます。始めのうちは口の中に入った砂粒のせいでしゃべりづらそうにしていましたが、徐々にいつもの饒舌さを取り戻していったのでした。
「砂漠に入ってから半刻後のことでした。砂がもうもうと立ち昇り、辺りの空気を黄色くしてしまったのです。引き返すこともできたのですが、既に街から遠く離れていたので、無理に進もうとしたところ……」
「それは災難なことだった。叔母君も心配しておられたよ。わたしが馬車を出すのにも恐ろしがったくらいだから……」
大人たちはわざと小難しく話をするのでした。それを聞く少年は退屈そうな素振りもせず、微笑みを保つたままお行儀よく座っています。
「学校は楽しかったかね?」
一通りの問答を済ますと、太守さまは少年に向き直りました。ロをついた言葉は、いつも晩餐の時に投げかける質問です。全く変わり映えしない話題なのに、場所が異なるだけでまるで意味合いも違って聞こえます。
「新しい算術を習いました。わからない数字を文字に置き換えるのです。そうすると、複雑な問題を数式で表せます。僕は感動しました。太守さまは、もうとっくにご存じの知識かと思いますが……」
少年はその日教わったことを、具体的に話してくれます。だから太守さまは、毎晩少年の話を聞くたび大変満足するのでした。
「……ところで太守さま、僕はどうしてもわからないことがあります。何故自ら馬車に乗ってお迎えに来られたのですか。使いの者を寄越すだけで、僕らは十分救われましたのに」
と突然少年が切り返したので、太守さまは弱ってしまいました。その疑問に答えるのにはあまり気が進まないからです。でも、正直に答えないと不誠実だと思いましたので、恥を忍んで教えてやりました。
「嵐が、この砂嵐がお前をどこかに連れて行ってしまわないかと思うと、怖くて堪らなかったのだよ」
「嵐が人さらいをするのですか」
「若いお前は知らないかもしれない。昔この砂漠には巨大な野盗団があって、嵐の日には道行く旅人やキャラバンを襲ったのだ。先代の太守――わたしの父が厳しく懲らしめてからめっきり数は減ったが、今でもこの砂漠のどこかに息を潜めている。それらがお前を襲うかと思うと、じっとしては居られなかった」
太守さまは目の前にぶら下がったランプの炎を見つめたまま、少年に語ります。少年は、太守さまの目がどんな風に輝いているのか、今は確かめることができません。
急に、炎の揺らめきが穏やかになりました。車体の揺れも随分静かになっています。馬が足を止めたのかと思いましたが、そうではないようです。
「嵐が収まったみたいですぞ」
案内人の一人が戸を開けました。嘘のように静かで冷たい空気が車内に流れ込んできます。砂漠を襲った荒くれ者は、すっかりどこかへ立ち去ってしまったようで、辺りは凪の海辺のごときありさまです。
少年は目一杯に月の光を取り込んで、あどけない感嘆詞を口にしました。日頃取り澄ましていても、やはりまだ子どもです。
「太守さま、少しお外を歩いてみませんか」
それは驚くべき言葉でした。太守さまは、少年がこうしたおねだりをするのに直面したことかありません。少年はいつだって従順で、太守さまを困らせるような言動は一つもしないのです。もしかしたら、今宵の月風が何かを変えてしまったのかもしれません。
「あんまり遠くまで行っちゃいけないよ。それからまだ砂が舞っているだろうから、ちゃんとターバンを被っておくようにね」
「ええ、ええ――」
二人は砂の海辺に降り立ちました。もっとも、どこまでが砂浜で、どこからが水中なのかはわかりません。漫然と広がる砂漠の中に馬車以外の目印はなく、少し目を離せば方向だってわからなくなってしまいそうです。沢山の星々を抱えた夜空だけが、現実に舞い戻るための唯一の手がかりなのでした。
少年は大地を踏み鳴らしています。太守さまはひっそり音もなく、深い足跡だけを刻み付けます。その通り道には魔法がかかったようで、何でもなかったはずの砂粒のいくつかが星々に見惚れたように白く光っています。
この砂の地面の下には、沢山の宝石が埋まっています。甘い風に触れたいと願って、地表に折りを届かせています。宝探しをしたら面白いかもしれません。けれど太守さまはいくら掘り起こしても何ら見つかりっこないってわかっていますから、決して自分からそうしようとは思わないのでした。
いつの間にか少年は、ターバンを取り去って空気を思いきり吸い込んでいました。肺に砂が入ることなんて意に介さないようです。いいえ、もう砂塵に少しの脅威もないことがわかっているからなのでしょう。
一方の太守さまは、ターバンを巻いたままです。後方に控える家来たちに、顔を見られるのが怖いからです。
真水のように透き通った大気の中、顔全体を覆う厚手のターバン。少年からしたら、太守さまはすっかり滑稽なご様子だったでしょう。にもかかわらず少年は何も言いません。目と目が合っても、楽しそうに笑みを返すばかりです。
「夜の砂漠は美しいです。月と風がこんなふうに幅を利かせるなんて、昼の様子からは考えられません」
と少年が背伸び気味に謳えば、
「どんなものにも、複数の顔があるものだ」
太守さまは却って淡白に情緒を表してみせるのでした。
「もう少し歩きましょう。ねえいいでしょう、太守さま?」
「――ああ、こら待ちなさい。まったく、今夜は人が違ったようだ……」
二人はまだまだ歩きます。次第に太守さまの網膜は青い月光に中てられてきました。遠い砂と近い砂の区別がつかなくなって、距離感を失います。今ここで歩んでいるはずが、向こうの地平線で小さな足跡を作っているようにすら感じます。
目の前に幻が現れました。黒く長い髪をなびかせた、凛々しい女性です。きっと、草原の国のお姫さまなのでしょう。太守さまはそれに近づこうともせず、早く消え去ってしまえと願いながらじっと見つめ続けるのでした。
「アズイール。わたしはいい太守さまかね」
「これはこれは、どういったご意図でしょう。悪い訳がないじゃありませんか。太守さまは僕を拾ってくれました。学校に通わせてくれました。嵐に見舞われれば、助けに来てくれます。僕の英雄さまです」
少年は、まるでその質問を待ち構えていたかのように今日一番の饒舌さで答えます。そして、
「太守さまが大好きです。一生お仕えしたいと思います」
太守さまはターバンを解きました。露出した凹凸を月の明かりが照らし出します。かつて悪い盗賊が打ち砕いた、砂漠色の彫刻です。一度も完成することなく壊されてしまった、値打ちの無い芸術品です。
「ああ、やっと太守さまのお顔を見ることができました。どんな表情をしているのかわかりませんでしたから、今までずっと不安だったのですよ」
と、先に少年が口を開いてしまいました。これは流石に想定外です。太守さまはほんの一瞬、言葉に詰まります。
「わたしは醜いから、今夜の景色に似つかわしくないだろう」
「どうしてそう思うのです?僕は太守さまよりお美しいお方を知りません。きっとこの広い砂漠を探しても、比類すべき者すら見つかりはしないでしょう」
太守さまは少年の言葉に淀みが見つけられないので、余計に戸惑いました。そうして、少年は無知なのだという答えに行き着きました。
――この少年は美を知らないのだ。何か醜く、どれが美しいのかわからぬから、この醜形を褒め称えるのだ。もし世に擦れいっぱしに価値観を学んだのなら、当然わたしから離れていくだろう。
口惜しい。なんと口惜しいことだ。できることなら、一生このままの無垢に留めておきたい……――。
太守さまは大層嘆き悲しみますが、強ばり固まった表情はうまく気持ちを伝えてくれません。引きつり垂れ下がった目じりは、苦しんでいるようにも、はたまた笑っているようにも見えるのでした。
周囲に広がる砂の世界は、いよいよ宝石箱さながらのきらめきを宿してきました。それだけに却って砂地の色は暗く沈んで見え、夜空との境界は絵筆でぼかしように曖昧になりつつあります。
「この砂の海は、わたしの人生だ。眺めを彩る砂中の財宝は、その実決して中身の光を取り出すことができない。少し遠くまで足を延ばそうとも、景色は凝り固まったように変わろうとしない。何も成さぬまま疲れ果て、結局体を休められる唯一の場所に逃げ込むだけなのだ」
太守さまは詠いました。メロディはありません。深い深い、悲しみの調べに乗せられているだけです。
「……僕の人生は、砂漠を往く道に喩えられます。きらきら光る砂粒の意味をよく知りませんから、幼い憧れと恐れを抱くばかりです。ですが、読み聞き学ぶことによって意味を与えることができます。砂の中から宝石を見つけ出してみせます。時にはそれが偽物の輝きだったと悟ることもあるでしょう。
僕が歩く道はいつもたった一つのお城に繋がっていますが、それが退屈なことはちっともありません。なぜなら砂の真理を見つけられた時には、お城に居る動機も、そこに至るまでの道筋の色彩も、全く異なっているはずですから」
それに応じるように、少年も歌いました。砂漠のから風と平行して走れそうな、不純なき声です。
太守さまは少年の詩の出来に呆然としていました。少年は太守さまが歌に込めた思いを隈なく汲み取って、返しの詞を紡ぎました。言葉選びも、比喩のセンスも、都の詩人に劣らない優れたものです。
太守さまは、「お前はいつの間にそこまで利口になったんだ」と問いたくなりました。数年前拾い上げた時には碌に口も利けなかったはずなのに、どうすればこんな急成長できるものでしょうか。
「アズイール、城へ帰ろう。また風が出てきている]
「嵐が、怖いですか?」
「怖い怖い。足がすくみそうだ。きっと城の外に向かって歩いているからだね」