一
昔、ある砂漠のお城に、若い太守さまが住んでいました。砂漠は土地が痩せ細っていて、人が住むのには適していません。城から遠い山々の麓には小さな村が二つありましたが、その村人たちも遠く緑豊かな土地へと移住してしまったため、今となっては殆ど人が暮らしていないのでした。
ですから太守さまは、税を取り立てたり、法令を出したりという難しいことはしません。一日中お城の中に寵って、食べては寝て、起きては遊んでという毎日を過ごすばかりです。収入もないのにどうしてそんな贅沢ができるのかと言えば、父君である先代の太守さまが莫大な財産を残してくれたおかげでした。とても一代では使い潰せない巨万の富です。太守さまがお金の心配をしたことは一度だってないのでした。
そんな太守さまの噂を耳にしたものは、決まって「外でお金を遣おうと思わないのか」と不思議に思います。来訪者があれば、実際にその疑問をぶつけられます。けれど、太守さまは決してお城の外を見聞しようという気にはならないのでした。何故なら、太守さまの容姿はとても醜いからです。
太守さまは幼い頃、砂漠の野盗に襲われて顔を傷つけられたことがあります。鉄の長い刃によって、鼻の付け根から右頓にかけてを切り裂かれたのでした。
その傷が何事もなく塞がってくれれば今日の太守さまの苦しみはずっと軽かったでしょうが、運の悪いことに傷はひどく膿んでしまいました。恐らく傷口に悪いものが入り込んでしまったのでしょう。その日は大変な砂嵐が吹いていましたから、舞い上がる砂粒の中に混じってひどい病のもとが太守さまのお顔を蝕んだに違いありません。
赤子の時分より「妖精のようだ」と讃えられた太守さまの美貌は、たちまち崩れてしまいました。それも、事件があった直後が最悪ではなく、日を追う毎に醜さが増すものですから、なおさら性質が悪いものです。太守さまの父君は都から腕のいいお医者さまを呼び出して治療に当たらせましたが、全く甲斐なきことでした。
太守さまは事件以来、起きぬけに鏡を見るのが日課になっていました。今日こそ軟膏が効いてよくなっているのではないか。昨晩煎じた薬草の効き目がきっと表れているだろう。もしかして今まで見ていたものは全て悪夢で、次に見た時には以前の美しい顔に戻っているかもしれない。
そんな薄淡い希望を抱いて毎度鏡を覗くのですが、結果はいつだって変わりません。その内に太守さまは鏡を見るのが億劫になって、ついに避けるようになりました。今では月に一度か二度、思い出したように寝室の姿見と向き合うのみです。そんな時には、もう昔のような苦しみも絶望もなく、ただ何もかも諦めたような空っぽのため息が一つ吐き出されるだけなのでした。
太守さまは、決して他人に顔を見せようとしません。人と会う時には必ず長いターバンを顔全体に巻きつけます。このターバンは太守さまが都に特注して織らせたもので、模様も色もさまざまなものが全部で二十余りもあります。それは表情を示せない太守さまにとっての、一種の顔代わりなのでした。
お城には年齢も性別も多様な沢山の使用人がおりましたが、太守さまのお顔を知っている者は殆どありません。数少ない例外は、太守さまの幼少の頃から務める老齢の者たちと、入浴や着替えなど生活周りのことを手伝う幾人かの側近のみです。そんな彼らに対してさえ、太守さまはなるべくお顔を見られないように振る舞うので、その崩れた形が人目に触れるのは本当に稀なことなのでした。
「太守さま、お茶をお持ちしました」
よく晴れた日の昼下がり。太守さまが室内の庭園で休んでいると、褐色髪の身なりのいい少年が庭に入ってきました。彼は常に太守さまの近くに侍る、側近の小姓です。年齢は十と少しばかりで、昔の太守さまによく似た可愛らしい顔つきをしています。名をアズイールと言いました。太守さまが心を許すことができる数少ない存在の一人です。
少年は元、見世物小屋で舞いを演じる踊り子の見習いでした。しかし、稽古の途中で足を痛め、踊れぬ体になってしまいます。
「こいつはもう、使い物にならなりやしない」と、あわや身を売られんという瀬戸際に、たまたま居合わせたのが太守さまだったのです。
広い庭園の中には、太守さまと少年の二人だけです。左右の壁には植物たちの太いつるが走り、床にはくるぶしまで浸る深さの人工の川が流れています。少年が運んできた飲み物は、遠く東の国から仕入れた茶葉を煎じたもので、庭園で味わうと一層美味しく感じるのでした。
太守さまは、この造られた異国の庭で詩作に耽ります。それは外の世界との交流を断った太守さまにとって、ほとんど唯一と言っていい趣味なのでした。
そんな時少年は、太守さまの向かう机から体二つ分離れた椅子に座り、静かに佇んでいます。特にお喋りをする訳でもなければ、あれこれ世話を焼く訳でもありません。時折太守さまに代わって書棚の本を取りに行くくらいがせいぜいです。
この奇妙な習慣は、太守さまが以前「そこにお坐りなさい」と命じたために生じたものです。大分昔のことなので、そう言った理由は太守さま自身もよく覚えていません。初めは「お邪魔にならないでしょうか」と気後れしていた少年でしたが、今ではすっかり自然体なのでした。
「書けた。これから詠むから、いつものように聴いておくれ」
太守さまは、今書き上げたばかりの詩を詠みあげます。細いのに芯がある、不思議な響きの歌声です。大変特徴的な声色ですから、城内でこれを聞き分けられない者はいません。
「……どうだろうか」
詠み終えた太守さまは、少年の所感を尋ねます。じっと目を瞑っていた少年は、ゆっくりと瞼を持ち上げて、分厚い布の奥にある太守さまの瞳を鋭く見つめ返しました。
「情景が頭の中に浮かんでくるようです。瞼の裏に、果てしない満天の画が焼き付いているような心地がします」
太守さまはほっと一息つきました。次いで、どうしたらもっと良くなるか訊いてみます。
「愛する人を喩えるのに、月ではなく星を用いるのはいかがでしょう。目を離せば見失いがちな存在を謳うのなら、世にたった一つしかない月よりも空に無数と瞬く星で象徴した方が適当のように思います」
「ははあ、興味深い意見だ」
少年は、実に為になる講評を献上します。そこに主従の間の遠慮は見られません。だからこそ太守さまは、少年の意見をとても頼りにしているのでした。
「お前は本当に頭がいい。きっと立派な人物になるよ。詩人でも学者でも政治家でも――頭を使う職業なら、きっとうまくいく」
太守さまは、詩作の後には毎回、口癖のようにこの台詞を吐くのでした。まるで子どもの機嫌を取る常套句のようですが、太守さまの期待は本物です。
太守さまは、少年を学校に通わせていました。隣の州――片道四半日弱もかかる遠くの学校です。お金持ちの子息ばかりが集まる施設で、学費は決して安くありません。そこに拾い子の小姓を通わせるだなんて相当の風変りだと、周りから評判されます。でも、太守さまは気にしません。少年にはそれだけの価値があると信じているのです。
「そういえば、今朝お便りが届いておりましたよ。四日前に書かれたお手紙のお返事だと思います。今回は、随分お返しが早いですね」
と、少年は懐に忍ばせた茶色い便箋を差し出します。太守さまは一目見て、それが少年の言及する便りそのものだと断定しました。
「ありがとう。……返事は、明日書こう」
「いいのですか?向こうさまはきっと、太守さまからのご返信を待ち遠しく思われていますよ」
「いいんだ。今日は少し忙しい」
実際には政務も来賓の予定もありません。ただ太守さまは、そんなみえみえの嘘をついてでもその場をやり過ごしたく思ったのでした。それを察したのか少年は、
「大変失礼いたしました。今日はこれでお暇いたします」
と頭を下げると、茶碗を乗せたお盆を抱えて、庭園を出て行ってしまいました。
太守さまはいま一たび「ふう」とため息をついて、余計に寂しくなっただだっ広い庭園の片隅を見つめます。その焦点が床にあるのか天井にあるのか、はたまた手前の苗木の群集にあるのかは、本人にも定かではありません。
そこに、少年と入れ替わるような形で一人の女性が庭園に入ってきました。太守さまの叔母君です。
太守さまの父君と母君は、それぞれ十年も前に亡くなりました。それで、存命の近親者は父君の姉であるこの人だけです。
「お手紙、届いたんでしょう?」
叔母君は、権威の者らしく気取った物言いで太守さまに問いかけます。
「はい。先程小姓が届けてくれました」
「お返事はもう書いたの?」
「まだです。明日書こうと思っていますが……」
「またそんな悠長な事を。折角お相手が疾く疾くお便りを寄越してくれたのですよ。なのに、あなたが返事を遅らせてどうするの。彼女の思いをみすみす踏みにじっているようなものですよ」
叔母君は太守さまが手紙を書かないことに不服を申し立てます。弟夫婦が亡くなってからというもの生来の世話焼き心が花開いて、あれやこれやとうるさく口を出すようになったのでした。
太守さまの文通のお相手は、草原の国に住む豪族のお姫さまです。未婚の青年男女の通信ですから、結婚を前提としたご交際であることは言うまでもありません。
文通は叔母君が画策したことでした。見てくれに自信がない太守さまは、これまであらゆる縁談を断ってきました。が、いくつになっても結婚しようどしないことに業を煮やした叔母君が、ついに強硬な態度で事を迫ったのです。叔母君のあまりの強情に根負けしました太守さまは、「しばらくは手紙だけでやり取りする」という条件つきで交際を受け入れたのでした。
太守さまとお姫さまの仲は良好です。手紙の文章には親しさが惨み出ていて、時には色めく辞句だって踊っています。けれども太守さまは、ちっとも楽しくありません。
……いくら睦まじく言葉を交わしても、それは文面上のお遊戯に過ぎない。一たび自分の恐ろしい容姿を目にすればたちまち姫さまの心は離れていくだろうと、十分わかっているからです。
「あなただって、お相手さまに情があるのでしょう?」
「勿論、無い訳ではありません」
しぶしぶ始めた文通でしたが、いつしか太守さまはお姫さまを好きになっていました。手紙を交わすうちに、彼女の気立ての良さと朗らかな性質が、否が応でも知られてきたからです。
「でも、わたしは怖いのです」
太守さまは、嫌われることを憂います。愛を夫い、傷つくのが恐ろしいのです。
「何か怖いと言うのです。草原のお姫さまはあなたに夢中ですよ。うまくいかない訳ないじやないですか」
でも、叔母君はわかってくれません。太守さまは秘めたる思いを詳しく述べ伝えることもできましたが、結局そうしませんでした。以前の経験から、それが功を成さないことを知っていたためです。
「いいですか、今日中にしたためておくのですよ。日が暮れる前に書き上げたなら、四日後には向こうへ届くでしょう。遅れてはいけませんからね」
叔母君は太守さまが歯切れのよい肯首を示すまで何度も念を押した後で、ようやく庭園を出て行きました。すると俄かに辺りは静まり、川のせせらぎだけがやけに大きな音で耳元に迫ってきます。まるで木当の森の中に佇んでいるかのようです。
太守さまはもう、誰とも話したくない気分でした。少年と叔母が出入りしたたった一つの出入りロにかんぬきを差して、誰も入って来れなくします。そこでやっと少しだけ気分が穏やかになりました。
さっき少年が座っていた椅子に腰掛けます。背もたれが小さくて、十分に体重をかけらません。
日頃これに座る少年は、居心地悪くないだろうか。彼は自分よりずっと軽くて背も低いから、案外ぴったり収まるのだろうか。そんなことをぼんやり考えました。
ふと、視界の端きれに、丸く黒い影が揺らめくのに気付きます。それは川面に映った白身の像なのでした。藍色の厚手のターバンが、室内の光を鈍く反射しています。その合間から覗く双眸は、豪奢な衣装に結われた宝玉の飾りつけのようです。
太守さまはおもむろに立ち上がると、自身の首を覆う布をシュルシュルと解いていきました。誰にも見せない、秘密の顔が現れます。まだらに濁った肌色は、奇しくも夜の砂漠の色とよく似ています。
岸辺まで歩いていき、改めて自身の像を水面に映し出しました。普段と相変わらぬ容貌に、とてもうんざりします。つまさきで蹴り出した石ころが水面を叩くと、黒い映像は波打って乱れました。すると不思議に安心できるようで、同時に一肩悔しくも感じるのでした。
まもなく太守さまは自分の部屋に戻りました。そして、花の彫刻に縁どられた立派な姿鏡の前に立ちます。ずっと忌み嫌ってきた、あの憎らしい大鏡です。そこにはさも当然のように、水面よりもずっとはっきりとしたおぞましい男の形相があるのでした。
「何故こうなんだろう。何故見てしまうんだろう。自分の姿を見たって惨めになるばかりなのに、どうして確認してしまうのだろう」
太守さまはおぼろげに答えを知っています。曲がりなりにも他人と暮らす太守さまば、どうしても他人の見る世界が気になってしまいます。自分がどんな風に映っているのか、それを知らない振りをして過ごすには限界があるのでした。
そうして太守さまは、いつも一つの答えに行き着きます。
「この世の鏡は全て歪んでいるのだ。そう断じることさえできれば、何も苦しまずに済むのに」
実現する見込みがない解決策は、子どもが空想する願望と大差がありません。けれども、太守さまの槌れるよすがは、もうそれくらいしかないのでした。
半分だけ日焼けした机の上には、姫さまの甘い手紙がぽつんと置かれています。その夢のような文面を思い返す度、凄まじい罪悪感に駆られます。慌てて目を背けると、ガラスの奥の現実を眺めて気持ちをぐしゃぐしゃに塗りつぶします。太守さまはいつだって、姫さまからの手紙を二度と読むことはないのでした。
いつの間にか晩餐の時間が過ぎています。「今は食欲がないから、わたしの分は用意しなくていい」と言ったので、誰も太守さまを呼びには来ません。
「手紙の返事を書かなくては」と思いました。背もたれの長い椅子に腰掛けて、白い羽根ペンの先に重たい黒インクを浸します。それが紙面を濡らすまでにはまだしばらくの時間が必要なのでした。