第六章③
数分後。俺たちはパトカーの中にいた。
住居侵入で逮捕された……わけではなく、これから行くところがあると言ったところ、浅倉さんが呼んでくれた。タクシー代わりに。……いいのか?
気持ちはすごい嬉しいんだが、連行されているみたいでちょっと恥ずかしい。でも、パトカーの車内は見えにくいようになっているようで、多分外からは俺たちの姿は見えないだろう。
それに、正直いま、俺はそれを気にするほど余裕はなかった。
さっきまでは勢いに身を任せているところもあったが、いま俺は葵と手をついないで後部座席に座っている。
それを考えると、気が気じゃない。いまになって、ようやく緊張が追いついてきた。
大丈夫かな? 手をつなぐまえに洗っておけばよかったか? そんなことを考えてしまい、葵の顔を見ることもできなかった。
どうしよう、なにか話をしたい、でもなにも思い浮かばない。それに、ただ手をつないでいるだけっていうのも、べつに悪くは……。
そんなことを考えていたときだ。
――ぎゅ。
と、葵が俺の手をすこし強く握ってきた。
驚いて、反射的に葵を見た。すると、彼女はすこし照れたみたいに笑っている。
化粧をしているからかは分からないが、その顔はいつもよりも大人びて見える。照れくさくて、つい顔をそらしてしまった。
代わりに、俺もぎゅ、と手を握り返した。そしたら、葵もまた握り返してくれる。
俺たちは、何度かそれを繰りかえした。
それから、どのくらい時間が経ったのか分からない。俺たちは、パトカーを降りた。
送ってくれた警察の人にお礼を言って、ゆっくりと歩きだす。
俺たちが来たのは、学校近くの噴水公園だ。他にも人はいるだろうと思ったが、意外にも俺たち以外はだれもいなかった。
――噴水公園。去年の夏、俺が待ちぼうけを食った場所……。
少し迷ったが、結局ここを選んだ。ここで言うんだ。ここで、新しいスタートを切るために。
「ここ、いい場所だよね」
俺の横で、葵がにこりと笑って言った。
「遠くまで、景色がよく見えるし。悩んでるときに見たら、ちょっとスッキリしちゃう」
葵はいま、高埜家の娘ではなく、一人の高校生としてここにいる。きっと、いつもとは違った景色が見えているんだろう。
俺も、あの時そうだった。そしていまも……。
「葵」
「うん」
俺は立ち止って、葵を見た。彼女もまた、俺を見上げてくる。
いままで余裕がなくて気にしてなかったが、葵はいま振袖を着ている。きれいに結われた髪も手伝って、とても大人びて見える。
「好きだ」
一言、そう言った。
葵はなにも言わなかった。ちょっと驚いたみたいに、目を見張った気がした。
「覚えてるか? 中学三年の夏休み。俺たちが会ったとき、俺あのとき、精神的に参ってたんだ……。俺、クラスメイトを祭りに誘ったんだけどさ、遅くなるまで待ったけど、結局来てもらえなかったんだ……。
あとで千影から聞いた話なんだけど、どうもそいつは、友人同士の罰ゲームで俺の誘いを受けてみたいなんだ。俺が学校に復帰したとき、そいつは家の都合で引っ越してたから、結局話せずじまいなんだけど……」
葵はなにも言わずに、ただ黙って、じっと俺を見ていた。背中を押された気がして、俺はそのまま続けた。
「千影に散々迷惑かけて、ようやくちょっと立ち直って、そんなとき、葵に会ったんだ。
葵は、いろんなことに一生懸命で、すごく楽しそうに笑っててさ……それを見てるだけで、こっちまでつられて笑ったりして……だから、もっと一緒にいたいって、そう思ったんだ」
俺は、そこで一度言葉を切った。そして、もう一度、
「葵、好きだ。俺と付き合ってくれ」
すぐに答えは返らず、葵はただじっと、俺を見ていた。やがて、
「あのね」
と、まずは一言だけ。それから、
「わたしたち、初めて会ったのは中学生のときじゃないんだよ?」
「え?」
まったく予想外のことを言われ、思わずぽかんと口を開けてしまった。
「やっぱり、覚えてなかったんだね」
葵がからかうみたいにちょっと笑った。でも、その顔の奥には、ほんのすこし寂しさがにじみ出ているように感じた。
「わたしたちはね、十年前に一度会ってるんだよ」
そこまで言われても、俺に心当たりはなかった。
十年前に一度会っている? いったいどこで……。
「十年前ね、お父さんがパーティーを開いたとき、わたしも高埜家の娘として一緒に出席したんだ」
「パーティー?」
やっぱり、俺には心当たりが……。そう考えて、ハッとなにかに思い至ったような気がした。
十年前……パーティー……そういえば……。
十年前、俺はパーティーに参加してた。言われてみれば、それは有秀さんが主催者だったような、あの人が壇上であいさつをしていた様子がうっすらと思い浮かんだ。
そこで、一人の女の子に会ったような……。
「ぜったい、迎えに来てね」
葵が言った。その言葉が呼び水となって、ある場面が思い浮かんだ。
パーティー会場から離れた中庭で、一人の女の子が笑っている。そうだ、俺はあのとき、パーティーが退屈で、会場を抜け出した。そこで、一人の女の子に会ったんだ。
彼女も俺とおなじように、パーティーが退屈で抜け出してきたと言っていた。
俺たちは仲良くなって、一緒に遊んだ。
そして俺は、つぎの日も一緒に遊ぼうと誘ったんだ。
でもその子は、今日はうまく抜け出せたけど、明日はできるか分からないと。
ちょっとさみしそうな顔で。だから俺は、自分が迎えに行くからと言ったんだ。警備が厳重なら、それを欺くための装置でも作って、必ず迎えに行くからと。でも……。
「私、あのときずっと待ってたんだよ。いつ来てくれるのかなって、ずっと……。それに、去年会ったときも、全然気づいてくれないんだもん。ちょっとショックだったよ」
「ごめん……」
そうだ、思い出した。あの時あった女の子。あれは葵だったんだ。
そして、そのときにした約束と、あのあと、俺に起こった予期せぬ事態も。
「じつは、俺あの後風邪ひいちゃって、パーティーには行けなかったんだ……」
「じゃあ、去年会ったとき、私だって気づいてくれなかったのは?」
「そ、それは……」
たしかに全然気づかなかった。熱にうなされたせいで、あのときの前後の記憶は曖昧になっていたし、顔も忘れてしまっていた。
「ごめんね。ちょっと意地悪しちゃった」
口ごもっていると、葵はくすくすと笑った。
「べつに怒ってるわけじゃないの。ただ、あのとき、わたしすごく嬉しかったんだ。ずっと、〝また会いたい〟って、そう思ってたから」
「すぐに俺だって、分かったのか?」
葵は「うん」とうなづいて、だってと続けた。
「わたし、あのときからずっと、悠くんのことが好きだったんだよ」
「え……?」
思わず聞き返してしまった。
いま、葵はなんて言ったんだ?
「もう、これで最後だからね」
葵はちょっと恥ずかしそうに笑って、
「わたしも、悠くんのことが好きです」
もう一度、そう言ってくれた。
「一途で、いつもひたむきで、人のために行動できる。そんな悠くんが、わたしは大好き」
「葵……」
俺の服の裾を握ってきた。照れくさそうに笑う葵が妙に愛しくて、俺はそっと抱きしめた。やわらかく、甘い香りが俺を包みこむように漂ってくる。思っていたよりも華奢だ。〝守りたい〟と、そう思った。
心臓の音が妙にうるさい。この音は、葵に聞こえていたりするのだろうか。
そのとき、心臓の音にかぶせるかのように、どこか遠くで、ドォンという音が聞こえた。
目をむけると、空に満開の花が咲いていた。
季節外れの、花火が上がったのだ。
「きれいだね」
葵がぽつりと言った。花火に照らされた顔が、淡く輝いて見える。
「ああ。そうだな」
去年の夏、一人で見てもなんとも思わなかった。でもいまは、とても特別な物のように見える。なんだか不思議な気分だ。
顔を合わせた俺たちは、特に会話をすることなく、そのまま見つめ合った。
そのまま、なにかに引き寄せられるように顔が近づいていき、俺たちは唇を合わせた。




